大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 141

『法華玄義』現代語訳 141

 

◎神通生の眷属を明らかにする

神通生(じんつうしょう)の眷属とは、もし前世で仏に会って、真理に向かう心を発して真諦を見たとしても、生まれ変わる因縁がまだ尽きていなければ、あるいはさらに上の世界に生まれ、あるいは他の世界に生まれる。『法華経』においては、次のように説かれる。すなわち、さまざまな生まれ変わりをする三界にあって仏となろうとするならば、まず、あるいは願力をもって、あるいは神通力をもって、さらに下の世界に生まれる。そして他の者の親しい者となり、あるいは中間的な者となり、あるいは敵となって、仏の働きと教化を助け、自らは残りの煩悩を断じて三界を出る。もし煩悩が尽きなければ、従っていた仏の入滅にあい、そこで自ら煩悩を断ち、あるいは後の仏と結縁することを待つ。三蔵教ではこのような三界の外の生まれ変わりを説かない。ここで大乗の意義をもってこれを見るならば、昔、仏に会って導かれ、三界の生まれ変わりが尽きれば、自らの力によって生まれ変わる身体を得る。その後は、身は生まれ変わりをするけれども、それは業によるものではない。ただこれは願力と神通力によるものである。

では、願力と神通力とはどのように違うのだろうか。自ら負っている報いによる力を用いることは神通の力であり、教えにおいては誓願の力(=願力)である。神通力によって眷属として生まれた者は、報いを受けるままに、なお報身があり、神通力をもって、形を変えて行くべきところに行く。一方、願力をもって眷属として生まれる者は、報いを受ける身はもともとなく、ただ願力をもって下の世界に生まれるのみである。

◎応生の眷属を明らかにする

(注:原文では、ここで項目の段落を区切る言葉はないが、内容から見て明らかにここから次の項目に移っている)

三蔵教は、煩悩を断じて後、誓願をもって生死の身を受けることを説くことがないので、この教においては願力による眷属を説かない。通教は誓願をもって残りの習気(じっけ)を用いることにより、生まれ変わりのある三界に生まれることがあるので、通教によって願力による眷属を述べることには意義がある。しかしこれらはまだ法身を得ていないので、全く応生の眷属はない。以上が三蔵教についての眷属である。

昔、通教の無生の教えにおいて結縁した者は、すでに道を得た者もいれば、まだ道を得ない者もいる。通教の仏は三界において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において業生がある。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、先に述べたように、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。そしてその区別の先に説いた通りである。そして、同じ時間において他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。異なった時間から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。しかし通教はまだ法身を得ていないので、全く応生の眷属はない。

昔、別教の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において同じく教えを説き、あらゆる教えに導く場合、成熟した者と成熟していない者がある。別教の仏は三界において仏となる。まだ道を得ない者は、その世界において業生によって眷属となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。そして、同じ時間において他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。そして、異なった時間において、方便の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。また、異なった時間において真実の報土から来て眷属となる者に、応生の眷属がある場合がある。無明をまず破って、すでに法身の本性を得て、よく応を起こして生死のある世界に入ることができるのである。これは前の教えとは異なっている点である。

(注:「応生」によって眷属となるということは、「感応妙」の段落で説かれた「応」によるものである。つまり、求める者の求めを感じ取って、それに応じて眷属となる、ということである)。

昔、円教の教えにおいて結縁した者は、あらゆる世界において整えられ、道を得た者と道を得ない者がある。そして三界において仏となる。前からの因縁を負っていることには差別があって同じではない。まだ道を得ない者は、その世界において業生によって眷属となる。上の世界から下の世界に向かうことにおいては、願力によって眷属となる者と、神通力によって眷属となる者がある。他の国土から来て眷属として生まれる者において、願力によるものと、神通力によるものがある。方便の国土から来て眷属となる者に、また願力によるものと、神通力によるものがある。さらに真実の報土から来て眷属になる者には、応生の眷属がある。これ以下は上に同じである。

問う:法身は煩悩を断ち、真理の世界にある者である。なぜまた生まれ変わりの生を受けるのか。

答える:法身が応身の眷属の生を受けるについて、三つの意義がある。一つめは、「他の者を成熟させるため」であり、二つめは、「自から成熟させるため」であり、三つめは、「過去の因縁によるもの」である。

○他の者を成熟させるため

ただ業によって生まれた衆生は、善根が微弱であり、自分から発することができないために、あらゆる菩薩たちは、自分が先に道を得たとしても、衆生の迷いを哀れんで、慈悲の力をもって応を起こし、二十五有の中に入り、導師となって多くの衆生を導き、仏の所に向かわすのである。分真即の位を得るならば、その者の内面の眷属となって応生を起こし、もし相似即の位を得るならば、願力と神通力の眷属となる。分真即と相似即を得なければ、その者の優れた修行を増進させて、他の人々に利益を与え、空しいことはない。

華厳経』の中に、「仏が最初、母胎に宿り、そしてそれに仕える法身の菩薩たちがこの世に下って生まれたことは、雲が月を覆い隠すように、それぞれあらゆる母胎に降り、そこから生まれて仏に親しい人となり、あるいは中間的な人となり、あるいは敵となり、あらゆる業の報いを現わす」とあることは、まさに知るべきである。あらゆる眷属は、この世の生死流転する人ではない。釈迦の母の摩耶夫人は千仏の母であり、父の浄飯王は千仏の父、子の羅睺羅は千仏の子である。あらゆる声聞たちは、内側は菩薩であっても、外側には声聞の姿を取ったのであり、三毒の煩悩があるように見せても、実際は自ら仏の国土を清めるのである。あらゆる仏の親族は、みな大いなる仮の姿であり、優れた法身である。どうして凡夫が偉大な力を持つ菩薩を身ごもることができようか。

また次に、仏教以外の外道の者たちが、仏の道に対して悪意を抱き、拒否し、誹謗することは、まさに知るべきである。これはみな法身の菩薩のすることなのである。(注:上に述べられていたように、応生の眷属は、別教にも含まれるが、円教でもっぱら明らかにされる事実である。そのため、『法華経』にこの事実が述べられていることになり、まさに『法華経』には、仏を傷つけた提婆達多も、前世では釈迦の師匠であったと述べられており、非常識と思われるほどの霊的事実が、この応生の眷属を通して明らかにされているというのである)。なぜならば、転輪聖王の小さな善でさえも、世に出るにあたって敵対するものはない。ならばどうして、この上ない法王において、その行く道に恨みを抱く仇が満ちることがあろうか。もし仏に対して悪を起こせば、即座に悪道の報いの罪を受ける。どうしてこの世に生まれ変わりを繰り返して、さまざまに思い煩いながら生きることができようか。立派な像のような法身のなすことは、驢馬のようなものに耐えうることではない。提婆達多は賓伽羅菩薩(びんがらぼさつ)である。前世の大いなる善知識(ぜんちしき・すぐれた教えに導いてくれる者)である。阿闍世王(あじゃせおう・マガダ国王。最初悪を働き父である王を殺して王位につき国を発展させたが、後に罪を悔い、釈迦の弟子となり仏教の外護者となる)は不動菩薩であり、薩遮尼犍(さつしゃにけん・元ジャイナ教徒の釈迦の弟子)は大方便の菩薩である。波旬(はじゅん・仏教を妨害する悪魔)は不思議解脱に住む。このために『華厳経』において、聴衆の名前を列挙する箇所に、多くの天龍鬼神たちがすべて、不思議の法門に住んでいることを明らかにしている。このように、親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどはみな、法身である。前世には仏法の内部の眷属であったが、今の世では応生の眷属となる。もし親しいもの、中間的なもの、怨敵、良きもの、悪しきもの、反逆するもの、従順するものなどがまだ法身を得ていなければ、前世で結縁しているとしても、なお仏法の外にいるために、同じく願生業生などの眷属とする。

法華経』以外の経典に、この仮の姿の利益を明かしていないわけではない。衆生はみな、見た目はどうであっても、真実であって内にあるもの、真実であるが外にあるもの、真実であって良きもの、真実であるが悪しきもの、真実であるが反逆するもの、真実であって従順するものなどであるはずである。このために『法華経』に、「このようなことは今まで人に説いたことがない」とある。『法華経』には、仏自らが身近な仮の姿のものを開いて、永遠の真実を顕わし、あらゆる眷属の仮の権を開いて、本来の真実を顕わす。このために「今、まさにあなたがたのために最も真実なことを説こう」とある。これは応生の眷属が、他の者を成熟させるために来ることである。

○自から成熟させるため

法身の菩薩は、道を進むことに定まったものはない。あるいは生身に従って道を進め、あるいは法身に従って道を進める。このために、『法華経』における地涌の菩薩が「私たちもまたこの真実の清浄なる大法を得ようとする」といっている。また「分別功徳品」の中に、道が増し加わり生死が減って行くことを明らかにすることは、この意味である。

○過去の因縁によるもの

過去の世に仏に従って初めて悟りを求める心を起こし、またその仏に従って不退地(ふだいじ・もう修行が後退しない位)に住む。仏ですらなお自ら生死が繰り返される世界に入って仏事を行なう。それならば、その仏に縁のある者がどうしてその世界に来ないことがあろうか。百もの川がすべて海に入るようなものである。縁が導いて応生することもまたこのようである。

もし個別に説けば、業生は生死が繰り返される世界にある。願生・神通生は方便の国土にある。応生は常寂光土にある。共通して論じれば、一つの次元にこの四種がある。真実の報いによってすでに法身を得て、よく応を起こして、この四種の眷属となることである。円教の結縁の者についていえば、まだ煩悩を断じていないといっても、みずから三種の眷属となる。道を得た者についていえば、この四種の眷属となる。別教の眷属もまた四種であることはわかるであろう。通教と蔵教の結縁の三種もわかるであろう。そこには応生の応がないとしても、感応の応を論じることはできる。応があるところについて名称を得て、この四つの義が含まれるのである。

問う:地涌の菩薩が下の世界から湧き出したということと、妙音菩薩が東の国から来たということと、『涅槃経』の中で、あらゆる方角の偉大な菩薩たちを、釈迦の入滅の場所である沙羅双樹の林に集めて、大いなる説法をしたということは、この四種の眷属の中で何に当たるのか。

答える:これは神通力によって来た眷属であって、神通生の眷属ではない。これは単に他の場所から来ただけであって、応生の眷属ではない。また、大いなる誓願によって来たことであって、願生の眷属ではない。これは因縁によって互いに召されたものである。下の世界で『法華経』を説く声を聞いたり、妙音菩薩が大いなる光を見たりというようなことは、諸仏の大いなる働きによって来たのであって業生ではない。業生の者は、業によって来ることはできない。業によって来ることは、業によって生まれることではない。願生・神通生の者は、誓願や神通力によって来ることはできない。一方、誓願や神通力によって来る者は、またよく願生や神通力によって眷属として生まれ、またよく応生の眷属となる。応によって来る者は、またよく応生の眷属となる。

法華玄義 現代語訳 140

『法華玄義』現代語訳 140

 

⑨.眷属妙

 

迹門の十妙の第九に、眷属妙(けんぞくみょう)について述べる。これについては五項目を立てる。来意(注:次第のこと)を明らかにし、眷属について明らかにし、麁妙を明らかにし、法門の眷属を明らかにし、観心について明らかにする。

 

a.来意を明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての一つめは、「来意を明らかにする」である。すなわち、ここで眷属妙を明らかにする理由についてである。そもそも説くことがなければ、それまでのことであるが、説くならば、必ずそれを聞く者がいる。その者は道を受ける人である。すでに道を受けるならば眷属となる。たとえば、父母の子供は、親から受け継いだものによって身が成り立っているが、子はそれを天性(てんしょう)とするようなものである。天性は自らの成り立ちの根源を慕うので、そのことを「眷」と名付け、その根源に対して従順することを「属」と名付ける。修行者も同じである。受戒の時、この戒法を説いて、その前にいる人に授ける。その前にいる人は聴聞して、その戒を実行することができる。それは師弟の関係から生じることである。禅定もまた同じである。心を安定させる法を授けられ、その教えの通りに修行して、禅定を行じることができる。そのように導く人が師であり、自分はその師の弟子であるということになる。また智慧も同じである。あらゆる法門を説いて、聴く人の心に入れ、法によって教えに対して心を開き親しみを覚える。その思いによって信じ、信じるために従順する。これを眷属と名付ける。

他の国土はみな能力の高い者たちなので、色・声・香・味・触・法の六塵(ろくじん)を通して教えを他に伝え、利益を得させる。この娑婆国土は耳根が特に秀でているので、ただ声塵を用いるのである。このために、釈迦は二万仏の時代を通してこの上ない道を教え、十六王子は『法華経』を述べ伝えた。その時代より常に眷属となり、世々代々、師と共に生まれる。それは人天の眷属であり、あるいは三乗の眷属であり、あるいは一乗の眷属である。

このために、『法華経』において舎利弗は「今日、私は真の仏の弟子であることを知った。仏の口から生じ、教えより化生(けしょう・生まれる母胎のようなものがなくても生じること)し、仏の教えを分け与えられた」と言っている。昔、釈迦は五人の比丘たちを教えて、真実の無漏を得させ、仏の弟子と名付け、菩薩の真実の無漏を発しない者を外人(げにん・自分たちとは関係のない人という意味)とした。しかし『法華経』において、大乗における理解を発した舎利弗は、「昔は真実の仏の弟子ではなかった」と言っている。そして今、一仏乗の教えが説かれたことを聞き、聞くことにより悟り理解し、真理の法身を生じさせることができた。「仏の口から生じる」とは、仏の口から説かれた教えを聞いて生じた智慧の中に法身が生じたことである。「教えより化生する」とは、心に悟って生じた智慧の中に法身が生じたことである。「仏の教えを分け与えられた」とは、修行によって生じた智慧の中に法身が生じたことである。この三つの智慧が成就することが、真実の仏の弟子の証である。すなわち、天性を定めて、眷属となることができるのである。このために、説法妙の次に眷属妙を明らかにするのである。

 

b.眷属について明らかにする

眷属妙について述べるにあたっての二つめは、「眷属について明らかにする」である。ここでもまた五つの項目を立てる。一つめが、「理性(りしょう)の眷属を明らかにする」であり、二つめが、「業生(ごっしょう)の眷属を明らかにする」であり、三つめが、「願生(がんしょう)の眷属を明らかにする」であり、四つめが、「神通生(じんつうしょう)の眷属を明らかにする」であり、五つめが、「応生(おうしょう)の眷属を明らかにする」である。

◎理性の眷属を明らかにする

理性の眷属とは、衆生の如(にょ・真理は言葉に表現できないので、「如し」という言葉をもって真理の表現としている)と、仏の如は、一如(いちにょ)であって二如はない。理性において自然と眷属となることによって「これはわが子である」となる。このために『法華経』に「私もまたこのようであり(注:=是の如し)、衆生の中において尊い存在であり、世間の父である。すべての衆生はみなわが子である」とある。これは理性である。実際に師弟関係を結んでいても、結んでいなくても、それに関係なく、みな仏の子なのである。

◎業生の眷属を明らかにする

ただ衆生は理性においてはみな仏の子であっても、『法華経』の「如来寿量品」にあるように、誤って毒を飲んでしまうことによって、真実の心を失ってしまう者と失わない者がある。真実の心を失わない者は、父が帰って来た時、迎え出て救いを求め、薬が与えられればすぐに飲む。このために、大通智勝如来の時代において『法華経』が説かれた時、大乗の教えにおいて父と子として結縁(けちえん・関係を結ぶこと)できたのである。しかし、真実の心を失ってしまった者は、良い薬が与えられても飲まず、生死に流転して、他の国に逃げてしまう。そのため仏は方便を起こして、ある者には三蔵教と結縁し生滅(=生生)の教えを説き、ある者には通教と結縁し無生(=生不生)の教えを説き、ある者には別教と結縁し不生生の大河の砂の数ほどの教えを説き、ある者には円教と結縁し不生不生の唯一の実相の教えを説く。ある者は信じ、ある者は拒否し、それによって倒れ、それによって起きる。しかしどのような反応をしても、後には必ず悟りを得るようなものである。仏と結縁した後、二十五三昧をもって、二十五有のために三諦の教えを説いて、これを成熟させる。ある者はその間に悟りを開き、ある者はまだ悟りを開かない。しかし、悟りを開いた者も開かない者も、みな眷属である。

三蔵教の仏は、生死が繰り返される国において、出家して悟りを開く。昔に三蔵教と結縁した者たちは、悟りを得る者もいれば、得ない者もいる。悟りを得る者は、完全に無に帰して、再び生まれ変わることはなくなる。まだ悟りを開いてない者は、引き続き生まれ変わりを繰り返す。昔、深く信じ従順した者は、今の世では仏に親しい者となって道を受ける。昔、中途半端に信じ従順した者は、今の世では仏から遠い者となって道を受ける。昔、教えを誹謗した者は、今の世では敵として道を受ける。

甘露が降るように教えが臨めば、真っ先にそれを飲む者がいる。そのような者は早々に生まれ変わりを断じて、生死から出ることができる。大きな象が群れを守るように、解脱を証する。声聞と縁覚は、仏と関係ない家系の者であったとしても、教えにおいては親しい眷属である。もし道を得ることができなければ、仏と同じ親族であったとしても、親族外の眷属である。仏はその人において、何ら利益とならない。もし仏が滅度(=涅槃)すれば、その人はその仏の弟子として再び生まれることはない。そのような人は、その仏との関係が尽きれば、後の仏に委ねられるだけである。

◎願生の眷属を明らかにする

願生の眷属とは、前世で仏と結縁し、まだ苦を断じ尽くすことができなかったとしても、願ってその仏の眷属として生まれ変わる者である。たとえ、仏と敵対する者として生まれても、それによって道を受ける。悟りを得た者ならば、仏の教えの内にある眷属となり、悟りを得ることができなかった者ならば、仏の教えの外にいる眷属となる。もし仏が滅度すれば、その人はそれ以上の利益はなく、後の仏に委ねられるだけである。

法華玄義 現代語訳 139

『法華玄義』現代語訳 139

 

e.麁と妙を明らかにする

説法妙について述べるにあたっての五つめは、「麁と妙を明らかにする」である。ここにおいて、五つの項目を立てる。一つめは理法について、二つめは言葉について、三つめは内容について、四つめはあらゆる経典について、五つめは『法華経』についてである。

一つめは、妙の理法について述べる。すべての諸法は中道でないものはなく、文字を離れており、その解脱については言葉で表現することはできない。文字の本性を離れていることは、解脱そのものである。すべて説かれることは、理法であってしかも妙である。たとえば、龍が雨を降らす時、その降らせる場所はさまざまであるようなものである。あるいは水、あるいは火、あるいは刀杖(とうじょう)である。理法もまたこのようである。すべてに理法が備わっていても、人間の感情は反発する。反発することを麁とし、理法が従順であることを妙とする。

二つめは言葉について述べる。仏は悟りを開いた夜から亡くなる夕べに至るまで、常に空である般若を説き、同時に常に中道を説いたようなものである。しかもそれは同じ言葉であって、聴く相手によって理解が異なった。同じ言葉による巧みな説法を妙とし、理解が異なるところにおいては、自ら麁と妙があることになる。

三つめは内容について述べる。もし六道の衆生に対して、人天乗を説けば、有為(うい・因果因縁によって作り出されたものという意味)について明らかにされる。説く方も説かれる対象も、共に麁である。もし能力の劣った者の三蔵教の苦・空・無常・無我・涅槃寂静の五門が説かれるならば、「生滅の四諦」の理法が明らかにされる。これは説く方も説かれる対象も、共に麁である。もし通教の体空観における五門が説かれるならば、三蔵教の析空観に比べて、体空観を説く方は巧と言えるが、説かれる対象はなお真諦であるために、これもまた麁である。別教の五門は、説く方は麁とし、説かれる対象である中道を妙とする。円教の五門は、説く方も説かれる対象も妙である。

四つめにあらゆる経典について述べる。『華厳経』は別教を明らかにし、円教を明らかにする。三蔵教は偏った教えである。方等教は三蔵教・通教・別教・円教を明らかにする。般若教は通教・別教・円教を明らかにする。『法華経』はただ一つの真理を明らかにする。またあらゆる経典に妙が明らかにされていることについては、『法華経』と異なることはないが、そこに麁の内容を帯びている。麁の内容は妙と合わさることはない。このために麁とする。

法華経』はそうではない。仏は同じ雨が降るように平等に説いたのである。「直接、方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのみである」とある通り、もっぱら一つの内容である。また「昔、声聞を退けたけれども、仏は実に大乗をもって教化する」とある。また「あなたたちの行じるところは、菩薩の道である」とある。これはすなわち、麁を円融して妙とすることである。このような意義は他の経典とは異なる。このために妙というのである。

たとえば、優れた医者が毒を変じて薬とするようなものである。二乗の劣った能力の者は、仏になるということを通して恩を返すことができない。これを毒とする。『法華経』において二乗も授記を得ることは、すなわち毒を変じて薬とすることである。このために『大智度論』に「他の経典は秘密ではなく、法華経を秘密とするのである」とある。また『法華経』には、久遠実成の仏についての教えがあり、それも他の経典にはないものである。これは後の「本門の十妙」の箇所で詳しく述べる。

五つめは『法華経』について妙の十二部経を明らかにするとは、修多羅を仏が直接説いた教えとするように、『法華経』は仏が直接、中道の仏の智慧を説いたということである。六道・二乗・菩薩道の教えを説かずに、ただ仏の教えを説くだけである。このために、この直接説かれた修多羅を妙とする。

祇夜を妙とすることは、繰り返して散文の箇所で説かれた中道を頌すのであり、ここから祇夜が妙であることを知る。

伽陀を妙とすることは、「提婆達多品」で龍女が宝珠を仏に捧げた箇所や、「薬王菩薩本事品」において、薬王菩薩の前世である喜見菩薩が詩偈を説いた箇所など、散文の箇所がなくても、詩偈だけがあるものであり、この詩偈は短い瞬間に悟りを得ることを明らかにし、仏の悟りが成就することを讃嘆する。また喜見菩薩の単独の詩偈は、仏の姿が非常に優れて奇妙であることを讃嘆している。このために、単独の詩偈である伽陀は妙である。

本事を妙とすることは、釈迦如来は前世において、二万仏の所でこの上ない道を教え、他のことは教えなかったという。これは本事が妙であることである。

本生を妙とすることは、大通智勝如来の十六王子は、肉身の父母から生まれ、同時に法身から生まれて仏の弟子となった。これは本生が妙であることである。

因縁を妙とすることは、大通智勝如来が禅定に入った時、仏の代わりに十六王子が説法したということ、また、酔った友のためにその衣に宝珠を縫い付けたということなどは、小乗や人天などの条件に関係がない。これは因縁が妙であることである。

未曾有を妙とすることは、「序品」において、天から花が降り、地が振動し、釈迦如来が二度、眉間から光を放ち、説法の場が三度変化したことなど、これは未曾有が妙であることである。

譬喩を妙とすることは、経典の題名が法の譬喩であり、開三顕一を喩えている。もうこれだけでもじゅうぶんである。これが、譬喩が妙であることである。

優婆提舎を妙とすることは、舎利弗が仏に質問した時、仏は諸仏の智慧の門を答えた。また龍女と智積菩薩との問答は、『法華経』について論じている。智積菩薩が「釈迦如来は無量劫を経て悟りを開いたのである。この女が一瞬にして仏になったということは信じられない」と言っているが、これは別教に執着して円教を疑っているのである。龍女は「仏はご自身で証をなさる」と言って、その証拠として宝珠を仏に捧げた。これは円教をもって別教に答えているのである。これが優婆提舎を妙とすることである。

無問を妙とすることは、「問いがなくても自ら説き、行ずるところの道を称賛する。三昧より平安をもって立ち、舎利弗に仏の智慧を説く」とあり、また「宿世の因縁を私は今説こう」と経文にある。これは無問を妙とすることである。

授記を妙とすることは、声聞の上中下の能力の者にすべて授記を与え、「みな真実の智慧の中に安住して、天人が敬う者となる」と述べている。これが授記を妙とすることである。

方広を妙とすることは、「この車は高く広い」とあり「智慧は非常に深い」などとある。これが方広が妙であることである。

まさに知るべきである。この『法華経』は、最初の修多羅から優婆提舎に至るまで、十二部経の意義が完全に含まれており、しかもすべて妙である。これは麁に相対する相待妙をもって説法妙を明らかにすることである。

麁を開いて妙を顕すことは、昔(注:『法華経』が説かれる以前という意味)の十二部・十一部・九部の真実を説かなかったことは、別に真実があるということではない。ただ昔は言葉だけが広く、理法が広いことを明らかにしなかっただけである。『法華経』において、言葉が広いことを開けば理法が広いことになる。昔の教えがそれぞれ別々だったことを開いて、ここでそれらが同じであることを顕わす。これこそ、絶待妙をもって説法妙を明らかにすることである。

 

f.観心を明らかにする

説法妙について述べるにあたっての六つめは「観心を明らかにする」である(この文はない)。

(注:以上で説法妙は終わる)

法華玄義 現代語訳 138

『法華玄義』現代語訳 138

 

b.大小を分ける

説法妙について述べるにあたっての二つめは、「大小を分ける」である。つまり、説法における大乗と小乗を区別することである。『法華経』では、十二部経の中の九部を指して、大乗に入る前の経典としている。すなわち、この九部は小乗であり、授記・無問自説・方広の三部は大乗である。

総合的に言えば、小乗の経典にも、六道の因果について予言的な言葉を記すものがある。また『阿含経』の中に、弥勒菩薩に対して、将来仏となるという予言をしている箇所がある。これがどうして「授記経」でないことがあろうか。また質問がないにもかかわらず、「善いことだ」と言葉を発する箇所がある(注:これがどうして「無問自説経」でないことがあろうか、という意味)。また声聞を対象とする経典の中に、法空をもって大空とするものがある。このために『成実論』に「まさしく三蔵教の中の真実の義を明かそうと思う」とある。その真実の義とは空である。『阿毘曇論』の中では述べられていないが、『成実論』において空を説く。空はすなわち「方広経」である。まさに知るべきである。十二部経は、小乗と大乗が備わっているのである。このために『涅槃経』に「まず十二部経を聞くことができたとしても、ただ文字だけを聞くだけであり、その意義を聞き取ることはできていない。この『涅槃経』によって、その意義を聞くことができるのである」とある。また「まず十二部経を聞くことができたとしても、その中で私の語った意義は、この『大涅槃経』と同じではないと思う」とある。また『大品般若経』では「悪魔が比丘となって、菩薩のために声聞のための十二部経を説く」とある。またある経典(『涅槃経』)には「大小乗に各々十二部経を具足する。そのうち六部は大小乗に共通することを信じるならば、その六部同士は互いに共通し合っていないということはない」とある。これによって考察すれば、大乗と小乗にそれぞれ十二部経があるということである。ただこれは小乗における説であり、大乗の意義ではない。このために十二部経のうち、三部を大乗とし、九部を残す。なぜなら、小乗はすべてを滅ぼし断つ教えであり、如意宝珠のような仏の身体を説かない。このために、方広がない。たとえ法空をもって方広の文としても、小乗の人は能力が劣っているので、その教えは必ず条件を前提とする。天の太鼓が自由に鳴るようなことはないので、無問自説が少ない。また授記があるといっても、仏になるという授記は少ない。また『涅槃経』の第七に「九部の中に仏性は説かないと言う人には罪がない」とある。これに比べれば、十二部経の中に仏性は説かないと言う人には罪がある。

ある人は、「大乗は九部である。因縁、譬喩、論義は除く。大乗の人は能力が高いので、この三つは必要ない」と言う。これは個別的な説である。総合的に大乗を語れば、なぜこの三つの経典は必要ないと言えるだろうか。

またある経典(『涅槃経』)には「小乗はただ方広経の一部以外の十一部がある。方広経がないのは、大乗において如来は常であり、すべての衆生にみな仏性があると説く。正しい理法を方といい、豊かなことを広という」とある。また理法がすべてにおいて二つはないとすることを「等」と名付ける。小乗の声聞の中にこの教えはないので、十一部なのである。

もし小乗に九部あると言うならば、またまさに十一部もないであろう。すでに十一部があるとするならば、また総合的に十二部がある。衆生の能力に応じてそれぞれ別に説くならば、ある時は三部を除き、ある時は一部を除き、これをもって大乗小乗を判別するのである。

 

c.縁に対する同異を述べる

説法妙について述べるにあたっての三つめは、「縁に対する同異を述べる」である。「縁」とは、十二因縁から老・死の二つを除いた十因縁によって存在する衆生のことである。しかもこの衆生に、みな十界の根本的な本性がある。能力が熟している者は先に感(感応の感)を起こす。仏は成熟と未成熟の者を知って、応(感応の応)を起こすことにおいて時を失わない。もしその衆生が解脱の能力がまだ熟していなければ、完全に捨て去るようなことはせず、この衆生に対して、人と天の次元の教えを施すのみで、修多羅の名称さえ与えない。このために、インドの他の宗教の聖典には、十二部経の名称はなく、またその意義もない。この中国の儒教道教もまたその名称はなく、その意義も全くない。

もし法身の仏が王となって十善道(じゅうぜんどう・一般社会でも奨励される道徳的な教え。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)を示すならば、仏であってもこの十二部経の名称は用いない。このために、『地持経』の中に、菩薩の本性を持つ者は、自らを成熟させ、また他の人々も成熟させると説いている。声聞と縁覚の二乗の本性および仏の本性のある者は、真理の教えに従って自らを成熟させる。そのような本性のない者は、人と天の次元において成熟させ、人と天の次元で成熟する者は、十二部経の名称は用いないのである。その本性が成熟する者は、これ以降の箇所で説く通りである。

もし深く観心を行じれば、その者は巧みにその意義を得る。そしてそのような者は、悪の次元から真理の次元に入り、妨げのない言葉をもって誤った教えや他の宗教の聖典において、十二部経の意義を説けば、その意義は伝わるのである。このように、成熟していない者に対しては、いきなり十二部経を説くのではないのである。

次に十因縁をもって存在する衆生において、小乗の本性がある者について述べる。この衆生に対しては、共通して説く場合は十二部経であり、個別に説く場合は九部あるいは十一部である。また十因縁をもって存在する衆生において、菩薩の本性がある者に対しては、個別には説かず、ただ十二部経を説くのである。

ここで、総合的に四教に対応する如来の四種の衆生に対して、十二部経の教えを説くことを論じれば、三蔵教・通教・別教・円教の「化法の四教」と、頓教・漸教・秘密教不定教の「化儀の四教」の違いがある。

一つめは、隠された教えと顕わされた教えにおいて、共に四教を述べる。隠された教えとは秘密教であり、顕わされた教えとは、頓教・漸教・不定教である。秘密教は隠されて世に流布することはないので、これについては述べない。もし声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の四法界の本性のある衆生に対して、共通して十二部経を説き、個別には九部あるいは十一部を説けば、これは「漸法」の説と名付ける。もし菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部経を説けば、これは「頓法」を説くことである。あるいは、四法界の本性のある衆生に対して、また菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、ある時は個別に説き、ある時は共通して十二部経を説くならば、これは「不定法」を説くことである。

二つめは、直接はっきり教えを説くところの漸教において、さらに四教を明らかにすれば、それは、三蔵教・通教・別教・円教である。三蔵教は直接、声聞界・縁覚界・菩薩界の本性のある衆生に対して、個別に九部あるいは十一部を説く。通教はこの四法界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。別教は菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。円教は仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。先に身輪(しんりん)について述べたが、それは仏が無記化化禅(むきけけぜん・真理に自ら神通力があって、人間の作意は用いずに働くこと)をもって、あらゆる慈悲に対応して働くことであった。具体的には、国師、道士、儒学者、父母兄弟、そして猿や鹿や馬などになり、目に見える同類の働きをすることについては、一つ一つ挙げることはできない。ここで口輪(くりん)の説について述べれば、それはたとえば、仏があらゆる慈悲に対応して無記化化禅をもって働くにあたり、その種類は同じではないようなものである。百千万の教えがあって説くことができない。それは、龍宮から出された詩偈が、象が背負わなければならないほど多いようであり、海水をすべて水滴にした数ほど多く、山をすって墨にしたほど大量である。八万四千の法蔵は尽くすことができない。またそれは限りないと言っても、十二部経をもって収めれば、収めつくせないことはない。

 

d.意義の内容を判別する

説法妙について述べるにあたっての四つめは、「意義の内容を判別する」である。もしこのことについて詳しく述べるならば、『四教義(天台大師著『維摩経疏』から後に独立した『四教義』十二巻)』の中にある。ここでは簡略的にその意義を述べる。もし人天乗について述べれば、それは三界の中の思議(注:世俗的思考のこと)によるものであり、真理を明らかにすることはできない。

もし漸教の人のために、個別的に九部あるいは十一部を説き、さらに共通して十二部を説くならば、最初の鹿苑時には直接的に思議の俗諦を明らかにし、派生的に思議による真諦を明らかにする。方等時には直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。般若時には直接的に不思議の真諦を明らかにし、派生的に不思議の俗諦を明らかにする。そして法華時にはすべて不思議の真諦と俗諦を明らかにする。もし頓教の人のために十二部を説くならば、直接的に不思議の真諦を明らかにし、派生的に不思議の俗諦を明らかにする。また不定教の人のために十二部を説くことについては、もともと形式が定まっていない教えなのであるから、述べることはできない。

もし漸教の中の四教について述べるならば、三蔵教は直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。もし三蔵教の菩薩のためならば、直接的に思議の俗諦を明らかにし、派生的に思議の真諦を明らかにする。もし通教の二乗ならば、直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。もし通教の十地の七地以前の菩薩のためならば、二乗と同じである。もし七地以降の菩薩のためならば、直接的に俗諦を明らかにし、派生的に真諦を明らかにする。もし別教の十信・十住の菩薩のためならば、直接的に三界の中の真諦と俗諦を明らかにし、派生的に三界の外の真諦と俗諦を明らかにする。もし別教の十行・十廻向の菩薩のためならば、直接的に三界の外の真諦と俗諦を明らかにし、派生的に三界の中の真諦と俗諦を明らかにする。もし別教の十地以上の菩薩のためならば、総合的に三界の中と外の真諦と俗諦を明らかにする。もし円教のすべての菩薩のためならば、円融して三界の外の不思議の真諦と俗諦を明らかにする。

法華玄義 現代語訳 137

『法華玄義』現代語訳 137

 

〇追加箇所

(注:この箇所も、内容的には「a.説法の名称を解釈する」の段落の中にあることは間違いないが、ここまで分けられた段落と、そのほとんどの内容が重複している。このようなことから、この箇所は、章安の私記的な内容か、メモ的なものが混入したとも考えられる)。

説法の名称を解釈することについては、以前にすでに述べた通りであるが、ここで、各名称そのものについて書き記すと、互いに同じではない。翻訳と解釈に多くの違いがある。ここでは『大智度論』によって、名称を書き記せば、次の通りになる。

第一は「修多羅」である。漢訳すれば「法本」または「契経(かいきょう)」また「線経」などという。第二は「祇夜」である。漢訳は「重頌」という。偈をもって修多羅を頌すのである。第三は「和伽羅那(わからな)」である。漢訳では「授記」という。第四は「伽陀(かだ・他の箇所では偈陀とも表記されている)」である。漢訳は「不重頌」といい、また略して「偈」とのみいう。『涅槃経』の「四句」を「頌」とする。この国における詩偈のようなものである。第五は「優陀那(うだな)」である。漢訳では「無問自説」という。第六は「尼陀那(にだな)」である。漢訳では「因縁」という。第七は「阿波陀那(あわだな)」である。漢訳では「譬喩」という。第八は「伊帝目多伽(いたいもくたか)」である。漢訳では「如是語(にょぜご)」といい、また「本事」という。第九は「闍陀伽(じゃたか)」である。漢訳では「本生」という。第十は「毘仏略(びぶつりゃく)」である。漢訳では「方広」という。第十一は「阿浮陀達摩(あふだだつま)」という。漢訳では「未曾有」という。第十二は「優波提舎(うばだいしゃ)」である。漢訳は「論義」という。

十二部経の「部」とは、部別という意味であり、それぞれ同類のものということである。「経」とは、古代インド語で「修多羅(注:スートラの音写語)」といい、漢訳して「線経」という。線はものに開けた穴を貫通し、経は経糸(たていと)のことであり、緯(い・横糸のこと)と交わる。言い表すところは、よく教えを保つことは、線のようであり経のようであるということである。しかし『阿毘曇雑心論』の中に、「修多羅」において五つの意義を説くことは、その論師の解釈した意義であり、言葉の翻訳ではない。世俗でも、「緯」に対するものとして「経」と名付け、「経」を訓じて「常」とする。物質は時間の流れにおいて、最初と最後の時間は違っても、物質に違いは見られないならば、異なることがないという意味から「経」を「常」とするのである。

「修多羅」とは、諸経の中における仏が直接説いたものである。いわゆる『四阿含(しあごん・阿含経は大きく四つに分類されるのでこのように名付けられる』、および『二百五十戒』、そして三蔵教以外の大乗経典における仏が直接説いた教えを、すべて「修多羅」と名付ける

「祇夜」とは、諸経の中の「偈」である。四・五・七・九言の句、その句の数は不定である。重ねてすでに述べた内容を頌するものは、みな「祇夜」と名付ける。

「和伽羅那」とは授記のことである。声聞と縁覚と菩薩の三乗と六趣(ろくしゅ・輪廻転生するとされる六道のこと)を合わせた九道の者に対して、長い劫(こう・測ることのできないほど長い時間)を経た後、まさに仏になるということ、あるいは、歳月の後に声聞や縁覚になるということ、あるいは、歳月の後に六趣の報いを受けることになる、ということなどを説くことを、みな「授記」と名付ける。授記を説く時は、仏はその口から五色の光を放ち、上の犬歯から出る光は三悪道を照らし、下の犬歯から出る光は人と天を照らす。その光の中において、無常無我、安穏である涅槃について語るのである。光に照らされ教えを聞く者は、三途(さんず・地獄餓鬼畜生の三悪道に同じ)の中では身も心も安楽になり、人においては病気の者が癒される。また天における六欲天(ろくよくてん・天でありながら、三界の中の欲界に属している六つの天界)の者は欲を嫌悪し、色天(しきてん・三界の中の色界に属している天界)は禅定の楽に留まっていることを厭う。その光はあらゆる方角を照らし、遍く仏のわざを行なう。七回輪を描いて廻った後、仏の足の下に入る者は、地獄道に堕ちることを予言するものである。ふくらはぎ、もも、へそ、胸、口、眉間、頭の頂上から入る者は、それぞれやがて仏の道に入ることを予言するものである。ある『論』に、阿修羅道に堕ちることを予言する光はないとあるが、それは餓鬼道を開いて阿修羅道とすべきである。それはへそとももの間にある。

「伽陀(かだ・前の段落では偈陀と表記されていた)」とは、すべての四言・五言・七・九などの偈の重頌をしないものを、すべて「伽陀」という。

「優陀那(うだな)」とは、教えがあれば、仏は必ずそれに応じて説くのであるが、問う者がなければ、仏は簡潔に質問の発端を開く。仏が舎婆提(しゃばだい)の毘舎佉堂(びしゃきょどう・舎婆提の毘舎佉堂とは、釈迦が阿含経を説いたとされる場所とその講堂の一つ)にあって、人から見えない所で禅定から覚め、自らこの「優陀那」を説いたことがその例である。いわゆる「我なく、我がいるところもない。このことは良いことである」と説いた。これを「優陀那」と名付けるのである。また『般若経』の中で、多くの天子が、須菩提(しゅぼだい・空の理解が特に優れていたとされる釈迦の弟子)が説いた内容を讃嘆して「善いことだ、善いことだ。希有なことだ。世尊よ。ありがたいことです。世尊よ」と言ったことも、「優陀那」と名付ける。さらに、仏が滅度した後、多くの弟子たちが重要な偈を集め、あらゆる「無常偈」「無常品」そして「婆羅門品」を作ったが、それらもみな「優陀那」と名付ける。

「尼陀那(にだな・前の段落では因縁経と表記されていた)」とは、諸仏に関する現在の事柄が、どのような因縁によって起ったかを説くものである。つまり、仏は何の因縁によってこの事を説くのかと、修多羅の中で人が問うので、そのために説くのがその例である。毘尼(びに・戒律のこと)において、人が犯す事柄によって新たに戒律を作ることも、その犯したことが「尼陀那」となる。またすべての仏が縁起のことを語るものを、すべて「尼陀那」と名付ける。

「阿波陀那(あわだな・前の段落では譬喩と表記されていた)」とは、この世の人に合わせてわかりやすく世俗的な事柄をもって説くことである。『中阿含』の「長譬喩」、『長阿含』の「大譬喩」、「億耳(おくに)」、「二十億耳(にじゅうおくに・億耳も二十億耳も仏の弟子の名)」の譬喩などの無量の譬喩をみな「阿波陀那」と名付ける。

「伊帝目多伽(いたいもくたか・前の段落では本事と表記されていた。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの)」に二種類ある。一つは、結句の意味であり、「私が先ず説くことを許したことは今説き終えた」というものである。もう一つは経典があって、その経典の名は「一目多伽(いつもくたか)」と音写される。またある人は「因多伽目多伽(いんたかもくたか)」と音写するという。その名は、三蔵教と大乗に見られるが、どれが正しいのかわからない。その経典には三つのことが書いてある。まず、釈迦の父親の浄飯王(じょうぼんのう)は、強いて同族の千人を出家させた。釈迦は修行に耐えられそうな人を五百人選んで、道場である舎婆提に連れて行き、親族から離して、釈迦の弟子の舎利弗と目連に教化させた。夜を通して熱心に眠らず修行して、後に悟りを得て本国に帰った。本国の首都である迦毘羅婆(かびらば・カピラヴァストゥのこと)から離れること五十里の場所で町に入って乞食したが、まだ道は遠いとわかった。その時、獅子がいて、来て仏の足を礼拝した。このような三つの因縁のために偈を説いた。この三つの因縁を説くので、この経典を「一目多伽」と名付ける。

「闍陀伽(じゃだか・前の段落では本生と表記されていた。仏の過去世について述べたもの)」とは、仏は、仏となる前の菩薩の時、獅子となって、猿の頼みを受けて、自分の脇の肉を売って、その猿の子を買い戻したり、病が流行する世に赤目(しゃくもく)の魚となって多くの病人を食べさせたり、あるいは飛ぶ鳥となって、溺れる者を救ったり、このような無量の前世の救済の物語を、みな「闍陀伽」と名付ける。

「毘仏略(びぶつりゃく・前の段落では方広と表記されていた。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの)」とは、いわゆる『摩訶衍般若経』、『六波羅蜜経』、『華首(けしゅ)』、『法華経』、『仏本起因縁経』、『雲経』、『法雲経』、『大雲経』などである。このような無量の経典は、最高の悟りを得るために、この「毘仏略」を説くのである。

「阿浮陀達摩(あぶだだつま・前の段落では未曾有と表記されていた。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの)」とは、仏があらゆる神通力を現わし、衆生は未曾有だと怪しんだ。光が放たれ地が振動し、あらゆる不思議な現象が現われることをみな「阿浮陀達摩」と名付ける。

「優婆提舎(うばだいしゃ・前の段落では論義と表記されていた。教説を解説したもの)」とは、あらゆる質問する者に答えて、その内容を解釈し、多くの論議を説く。このような問答を解く論議をみな「優婆提舎」と名付ける。仏は自らこの「論議経」を説く。弟子の迦旃延(かせんねん)が理解するところから始まって、次第に時代が悪くなる「像法(ぞうぼう)」の時代の凡夫に至るまで、教えの通り説かれたものを、また「優婆提舎経」と名付ける。

法華玄義 現代語訳 136

『法華玄義』現代語訳 136

 

◎定名

十二部経を定名(じょうみょう・名前が定められた理由)によって分けると、四つに分けられる。まず一つめは、修多羅(しゅたら・古代インド語のスートラの音写文字。当時の経典はひもでつなげられていたので、ひもを意味する言葉であり、ここでは線と翻訳されている)は「線経(せんきょう)」と翻訳できる。「修多羅」は原語の音写文字であり、「線経」とは喩えである。二つめは、祇夜(ぎや)と偈陀(げだ)であるが、これは音写文字そのものである(注:実際には、十二部経の各呼び方の多くは、音写文字をそのまま名称としている。しかし天台大師はできる限り翻訳した名称を用いていることがわかる)。三つめは、授記・無問自説・論義などの三経は、内容を名称としている。四つめはその他である。

◎差別

十二部経の中で、さらに分別して理解すべき経典がある。

まず「修多羅」という名称自体は、九種類(①~⑨)のさまざまな意味がある。①『涅槃経』には、「最初の如是という言葉から、最後の奉行という言葉に至るまで、すべてを修多羅と名付けられる」とある。これは、「修多羅」とは、すべての経典に共通する総合的な名称だということである。すべてを経典と名付けるので、共通である。各経典の文字と内容によって十二部経に区別するのであるから、「修多羅」は総合的な名称である。

第二に、②このような総合的な名称である「修多羅」について、具体的な事象によって続くその他の十一部が分けられるのである。すなわち、十一部に対して、その各教えの相を区別して説くのが、別相の修多羅である。

第三に、③十二部経のひとつである論義経は、他の十一部の経典を解釈する。これはすなわち、十一部をこの経の本体とする。まさに知るべきである。論義経において解釈される対象の十一部は、みな「修多羅」である。④また『雑心阿毘曇論』の中の「修多羅品」に、論書において、その対象である経典全般を「修多羅」としている。⑤また、天親が提婆の『百論』を解釈して、論書を経典全般の本体とし、また論書を「修多羅」と名付けている。⑥また『涅槃経』に「修多羅を除いて他の四句の偈は、偈経とする」とある。すなわち、『涅槃経』においては、四句の偈経(注:『涅槃経』に記されている四句の詩偈のこと。諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅為楽)に対して、他の散文は「修多羅」である。⑦また『涅槃経』に「祇夜(ぎや)を偈と名付けて修多羅を頌(じゅ)す」とある。すなわち「修多羅」の頌偈(じゅげ)に対して頌するところは「修多羅」である。⑧また経と律と論の三蔵を分別する際、理法を説く教えを「修多羅」とし、その他の毘尼(びに・律蔵のこと)と阿毘曇(あびどん・論蔵のこと)に相対させている。⑨また『涅槃経』に「仏から十二部経が出て、十二部経から修多羅が出る」とある。これは大乗の十二部経の別教に対して、通教をもって「修多羅」とするのである(注:別教は大乗に限るが、通教はすべて小乗も含むため)。これは、九種の中の祇夜と偈陀の詩偈もまたこれである。

次に、偈陀に四種類がある。第一に『法華経』に数えきれないほどの「偈」があり、『涅槃経』に二万五千の「偈」があるが、これはすなわち「偈経」である。またこれは通称である。もし『涅槃経』の四句を「偈」とするならば、一字一句を「経」と名付けることができる。一字一句をみな「偈」というのではない。ただ聖なる言葉が巧みに妙であり、章句が成り立っている数句を「偈」とするのである。このためにすべてを「偈」と名付けることができる。第二に「修多羅」を除いて、他の四句を「偈」とする。第三に「偈」の中の重頌(じゅうじゅ・散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの)を「祇夜」と名付ける。まさに知るべきである。重頌の「偈」を「偈経」とするのではない。第四に「修多羅」は通称であるとしても、その具体的な内容によって分割して、さまざまに異なった部類とする場合は、あくまでも仏の直接の説を記したものを「修多羅」というのである。まさに知るべきである。この「偈」の中においても、授記や因縁などに分けてそれぞれ異なった部類とする場合、その具体的な内容ではなく、仏が直接、「偈」として説いたということで、「偈経」と名付けるのである。

また次に祇夜とは、「重頌」と名付ける。この「頌」に三種類ある。一つめは意味を頌し、二つめは述べられた事象を頌し、三つめは言葉そのものを頌す。

一つめの意味を頌すとは、語る聖人が伝えようと念じるところの教えと事象を頌すのである。もし心に念じるところの教えを頌すのであるならば、それは「偈陀経」と名付ける。もし心に念じるところの授記などの事象的なことを頌すならば、その形にしたがって、異経とする。二つめの事象を頌すとは、この授記などの事象をいう。また頌すところの事象にしたがって異経とするのである。三つめの言葉そのものを頌すとは、もし事象に従う言葉を頌すのであるならば、事象に従って異経とする。もし教えが直接説かれる修多羅を頌すのであるならば、「重頌祇夜経」と名付けるのである。

また次に授記とは、悟りを開いた果の心に予期されることを「記」と名付け、聖人の言葉をもって説いて与えることを「授」と名付ける。授記に二種ある。もしあらゆる菩薩のために仏の記を授けるならば、これは大乗の授記である。もし目の前の因によって間近に予期される果を「記」として授けるならば、小乗の中の授記である。

また次に無問自説に二種類ある。一つめはその理法が深く意義が広く、そのため人が問うことすらできないことである。二つめは問うことはできないわけではないけれども、聴く者の立場から、問わない方がいい場合は、仏は「不請の師」となる。不請の師とは、問われないままで自ら語ることである。

また次に方広に二種類ある。一つめは言葉が広大なことであり、二つめは理法が広大なことである。

◎相摂

相摂(そうしょう)とは、十二部に分かれるとはいえ、各経典の中に、その十二部が互いに含まれているので、何に重きを置いて判断するかによってその経典の分類が異なって来るということである。修多羅を仏が説いた経典ということにおいて見るならば、そこに修多羅以外の他の十一部をも含むことになる。もし偈と、修多羅を説かれたままの直説(じきせつ)として相対させるならば、修多羅に修多羅以外の九部が含まれることになり、そこに偈陀と祇夜の二部がないことになる。また偈陀に十部あるとする場合もあり、ただ直説の修多羅だけがないことになる。祇夜に九部あるとする場合もあり、そこには直説の修多羅と偈陀がないことになる。

◎料簡

(注:ここに文はない)。

法華玄義 現代語訳 135

『法華玄義』現代語訳 135

 

⑧.説法妙

 

迹門の十妙の第八に、説法妙(せっぽうみょう)について述べる。『法華経』に「諸法は示すべきではない。言葉の相は寂滅している。しかし因縁があるので、説き示すべきである」とある。前に悪を破る「薬樹王身」と善を生じさせる「如意珠身」について述べたが、この二身はまず、禅定によって起こされる。そして同様に前に述べた悪を破る「毒の太鼓」と善を生じさせる「天の太鼓」の二つの太鼓は、次に智慧をもって苦を抜くのである。一乗を演説すれば、三乗の差別はなく、みな一切智地に到達する。この説かれた教えは、みな真実であり虚妄ではない。このために説法妙である。

このことにあたって、六つの意義を述べる。説法について、名称を解釈し、大小を分け、縁に対する同異を述べ、意義の内容を判別し、麁と妙を明らかにし、観心を明らかにする。

 

a.説法の名称を解釈する

説法妙について述べるにあたっての一つめは、「説法の名称を解釈する」である。過去現在未来の三世の仏の説法は、多く無量であるといっても、十二部経(じゅうにぶきょう・すべての経典を十二種に分類してこのようにいう)をもって収めると、尽くされないことはない。また達摩鬱多羅(だつまうったら・人物不詳)はこの十二部経をさらに七種に分けている。第一に体、第二に相、第三に制名(せいみょう)、第四に定名(じょうみょう)、第五に差別(しゃべつ)、第六に相摂(そうしょう)、第七に料簡である。

◎体

経典はすべて文章や語句をもってその本体としている。すべての経典で、このようになっていないものはない。これが第一の体である。

◎相

長行である散文で直接説き、また詩偈の韻文を作って讃頌(さんじゅ)するものがある。この二つは区別される。なぜなら、読む人の情は喜楽が同じではないので、質素な散文を好む人もいれば、美しい言葉の詩偈を好む人もいる。これが第二の相である。

◎制名

次に、十二部経の各名称は次の通りに制定されている。

修多羅(しゅたら・長行(ちょうぎょう)ともいう。説法を散文で記したもの)、祇夜(ぎや・重頌(じゅうじゅ)ともいう。散文で説かれた説法と同じ内容を韻文で重ねて説いたもの。まさに『法華経』のほとんどの章(=品)にこれが見られる)、偈陀(げだ・伽陀(かだ)、または孤起(こき)ともいう。最初から独立した韻文で説かれたもの。『法華経』の中にも多少これが見られる)の三部は、字句の表現方法によってその名称とし、その内容によるものではない。

授記(じゅき・和伽羅那(わからな)ともいう。聴衆の中のある者が、将来の世で仏となるという予言)、無問自説(むもんじせつ・優陀那(うだな)ともいう。問われないにもかかわらず自ら語ること)、本事(ほんじ・伊帝目多伽(いたいもくたか)ともいう。聴衆の中のある者の過去世について述べたもの)、本生(ほんじょう・闍陀伽(じゃだか)ともいう。仏の過去世について述べたもの)、未曾有(みぞう・阿浮陀達摩(あぶだだつま)ともいう。仏の不思議なわざや功徳を讃嘆したもの)、因縁(いんねん・尼陀那(にだな)ともいう。経典や戒律の由来を述べたもの)、譬喩(ひゆ・阿波陀那(あわだな)ともいう。教説を譬喩で述べたもの)、論義(ろんぎ・優婆提舎(うばだいしゃ)ともいう。教説を解説したもの)の八部は、その内容によってでもなく、字句によってでもなく、形式によるものである。

方広(ほうこう・毘仏略(びぶつりゃく)ともいう。時間と空間を超越した次元の広大深遠な真理を説き明かしたもの)の一部は、その内容によるものである。

なぜなら、修多羅などの三部は、直接教えの相を説き、その字句の名称によって内容を表わしている。たとえば、苦・集・滅・道のような用語は、名称によってその内容も表わしていて、字句をもって名称としている。

授記経については、その表わそうとする内容は、言葉だけでは説くことのできない事柄である。必ず具体的な事象によって現わすべきことである。記されている具体的な事象によって授記経と名付けられるのである。これはただ、因である修行によって果を得る道理を明らかにするのみである。その理法は事象に託して表わされ、事象は言葉をもって述べられる。『法華経』の中に、声聞のために授記するようなものである。これは、すべての者はみな、まさに仏となることができることを表わす。授記をもってその表わすべき内容としているので、授記経と名付けるのである。

無問自説経とは、聖人の説法は、みな質問の答えとして説かれる。しかし、また衆生のために、質問がなくても答える師となるために、無問自説する。また、仏法は知りがたいので、人は問うことができない。もし自ら説き始めなければ、衆生はそれを説くべきことであるか、説かないべきであることかもわからない。またこのためにそのような説法が必要なのかもわからない。このために、無問自説する。すなわちこのように説かれた内容は大変深く、ただ悟った者が証するしかないことを表わす。このように、無問自説によって、その表わすべき内容を示すのである。

因縁経とは、戒律の教えを説こうとする時、必ずその犯された事柄によってその過ちを表わすのである。その過ちの相がはっきり表わされれば、その制御の方法を立てることできる。このような因縁によって、その表わそうとする内容を示すのである。

譬喩経とは、教えの相は目に見えないので、身近な事柄を借りて、その深遠な真理を喩えるのである。このために言葉をもって喩え、喩えによって理法を表わすのである。

本事経や本生経は、本事経は仏以外の者についてであり、本生経は仏自らのことについてである。現在の状態によって過去の状態について説き、現在の生に託して教えを表わすものを本事経という。そして仏の現在の生に託して、仏の過去の修行について表わすものを本生経という。

未曾有経とは、希有の事柄を説くのである。今まで見たことも聞いたこともないようなことは未曾有である。教えに大いなる力あって、大いなる利益(りやく)があるということを示すために、未曾有の事柄に託して表わすのである。

義経とは、諸部の中の言葉は真理を隠し持っている。それについて何度も繰り返し分別して、その表わすべき理法を明かすのである。つまり論義によって、理法を明かすのである。このために以上、授記経から論義経までの八経は、事象的な形式によって名称を立てているのである。

方広経の一部は、その内容によるものである。方広という理法は、名称をもって説いたとしても、妙であって言葉を越えている。反対に、事象をもって表わそうとしても、一般的な事象をもって表現することができない。このために、名称によってでもなく、事象によってでもなく、その伝えようとされる内容によってその名とするのである。