大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 138

『法華玄義』現代語訳 138

 

b.大小を分ける

説法妙について述べるにあたっての二つめは、「大小を分ける」である。つまり、説法における大乗と小乗を区別することである。『法華経』では、十二部経の中の九部を指して、大乗に入る前の経典としている。すなわち、この九部は小乗であり、授記・無問自説・方広の三部は大乗である。

総合的に言えば、小乗の経典にも、六道の因果について予言的な言葉を記すものがある。また『阿含経』の中に、弥勒菩薩に対して、将来仏となるという予言をしている箇所がある。これがどうして「授記経」でないことがあろうか。また質問がないにもかかわらず、「善いことだ」と言葉を発する箇所がある(注:これがどうして「無問自説経」でないことがあろうか、という意味)。また声聞を対象とする経典の中に、法空をもって大空とするものがある。このために『成実論』に「まさしく三蔵教の中の真実の義を明かそうと思う」とある。その真実の義とは空である。『阿毘曇論』の中では述べられていないが、『成実論』において空を説く。空はすなわち「方広経」である。まさに知るべきである。十二部経は、小乗と大乗が備わっているのである。このために『涅槃経』に「まず十二部経を聞くことができたとしても、ただ文字だけを聞くだけであり、その意義を聞き取ることはできていない。この『涅槃経』によって、その意義を聞くことができるのである」とある。また「まず十二部経を聞くことができたとしても、その中で私の語った意義は、この『大涅槃経』と同じではないと思う」とある。また『大品般若経』では「悪魔が比丘となって、菩薩のために声聞のための十二部経を説く」とある。またある経典(『涅槃経』)には「大小乗に各々十二部経を具足する。そのうち六部は大小乗に共通することを信じるならば、その六部同士は互いに共通し合っていないということはない」とある。これによって考察すれば、大乗と小乗にそれぞれ十二部経があるということである。ただこれは小乗における説であり、大乗の意義ではない。このために十二部経のうち、三部を大乗とし、九部を残す。なぜなら、小乗はすべてを滅ぼし断つ教えであり、如意宝珠のような仏の身体を説かない。このために、方広がない。たとえ法空をもって方広の文としても、小乗の人は能力が劣っているので、その教えは必ず条件を前提とする。天の太鼓が自由に鳴るようなことはないので、無問自説が少ない。また授記があるといっても、仏になるという授記は少ない。また『涅槃経』の第七に「九部の中に仏性は説かないと言う人には罪がない」とある。これに比べれば、十二部経の中に仏性は説かないと言う人には罪がある。

ある人は、「大乗は九部である。因縁、譬喩、論義は除く。大乗の人は能力が高いので、この三つは必要ない」と言う。これは個別的な説である。総合的に大乗を語れば、なぜこの三つの経典は必要ないと言えるだろうか。

またある経典(『涅槃経』)には「小乗はただ方広経の一部以外の十一部がある。方広経がないのは、大乗において如来は常であり、すべての衆生にみな仏性があると説く。正しい理法を方といい、豊かなことを広という」とある。また理法がすべてにおいて二つはないとすることを「等」と名付ける。小乗の声聞の中にこの教えはないので、十一部なのである。

もし小乗に九部あると言うならば、またまさに十一部もないであろう。すでに十一部があるとするならば、また総合的に十二部がある。衆生の能力に応じてそれぞれ別に説くならば、ある時は三部を除き、ある時は一部を除き、これをもって大乗小乗を判別するのである。

 

c.縁に対する同異を述べる

説法妙について述べるにあたっての三つめは、「縁に対する同異を述べる」である。「縁」とは、十二因縁から老・死の二つを除いた十因縁によって存在する衆生のことである。しかもこの衆生に、みな十界の根本的な本性がある。能力が熟している者は先に感(感応の感)を起こす。仏は成熟と未成熟の者を知って、応(感応の応)を起こすことにおいて時を失わない。もしその衆生が解脱の能力がまだ熟していなければ、完全に捨て去るようなことはせず、この衆生に対して、人と天の次元の教えを施すのみで、修多羅の名称さえ与えない。このために、インドの他の宗教の聖典には、十二部経の名称はなく、またその意義もない。この中国の儒教道教もまたその名称はなく、その意義も全くない。

もし法身の仏が王となって十善道(じゅうぜんどう・一般社会でも奨励される道徳的な教え。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見)を示すならば、仏であってもこの十二部経の名称は用いない。このために、『地持経』の中に、菩薩の本性を持つ者は、自らを成熟させ、また他の人々も成熟させると説いている。声聞と縁覚の二乗の本性および仏の本性のある者は、真理の教えに従って自らを成熟させる。そのような本性のない者は、人と天の次元において成熟させ、人と天の次元で成熟する者は、十二部経の名称は用いないのである。その本性が成熟する者は、これ以降の箇所で説く通りである。

もし深く観心を行じれば、その者は巧みにその意義を得る。そしてそのような者は、悪の次元から真理の次元に入り、妨げのない言葉をもって誤った教えや他の宗教の聖典において、十二部経の意義を説けば、その意義は伝わるのである。このように、成熟していない者に対しては、いきなり十二部経を説くのではないのである。

次に十因縁をもって存在する衆生において、小乗の本性がある者について述べる。この衆生に対しては、共通して説く場合は十二部経であり、個別に説く場合は九部あるいは十一部である。また十因縁をもって存在する衆生において、菩薩の本性がある者に対しては、個別には説かず、ただ十二部経を説くのである。

ここで、総合的に四教に対応する如来の四種の衆生に対して、十二部経の教えを説くことを論じれば、三蔵教・通教・別教・円教の「化法の四教」と、頓教・漸教・秘密教不定教の「化儀の四教」の違いがある。

一つめは、隠された教えと顕わされた教えにおいて、共に四教を述べる。隠された教えとは秘密教であり、顕わされた教えとは、頓教・漸教・不定教である。秘密教は隠されて世に流布することはないので、これについては述べない。もし声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の四法界の本性のある衆生に対して、共通して十二部経を説き、個別には九部あるいは十一部を説けば、これは「漸法」の説と名付ける。もし菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部経を説けば、これは「頓法」を説くことである。あるいは、四法界の本性のある衆生に対して、また菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、ある時は個別に説き、ある時は共通して十二部経を説くならば、これは「不定法」を説くことである。

二つめは、直接はっきり教えを説くところの漸教において、さらに四教を明らかにすれば、それは、三蔵教・通教・別教・円教である。三蔵教は直接、声聞界・縁覚界・菩薩界の本性のある衆生に対して、個別に九部あるいは十一部を説く。通教はこの四法界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。別教は菩薩界と仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。円教は仏界の本性のある衆生に対して、共通して十二部の教えを説く。先に身輪(しんりん)について述べたが、それは仏が無記化化禅(むきけけぜん・真理に自ら神通力があって、人間の作意は用いずに働くこと)をもって、あらゆる慈悲に対応して働くことであった。具体的には、国師、道士、儒学者、父母兄弟、そして猿や鹿や馬などになり、目に見える同類の働きをすることについては、一つ一つ挙げることはできない。ここで口輪(くりん)の説について述べれば、それはたとえば、仏があらゆる慈悲に対応して無記化化禅をもって働くにあたり、その種類は同じではないようなものである。百千万の教えがあって説くことができない。それは、龍宮から出された詩偈が、象が背負わなければならないほど多いようであり、海水をすべて水滴にした数ほど多く、山をすって墨にしたほど大量である。八万四千の法蔵は尽くすことができない。またそれは限りないと言っても、十二部経をもって収めれば、収めつくせないことはない。

 

d.意義の内容を判別する

説法妙について述べるにあたっての四つめは、「意義の内容を判別する」である。もしこのことについて詳しく述べるならば、『四教義(天台大師著『維摩経疏』から後に独立した『四教義』十二巻)』の中にある。ここでは簡略的にその意義を述べる。もし人天乗について述べれば、それは三界の中の思議(注:世俗的思考のこと)によるものであり、真理を明らかにすることはできない。

もし漸教の人のために、個別的に九部あるいは十一部を説き、さらに共通して十二部を説くならば、最初の鹿苑時には直接的に思議の俗諦を明らかにし、派生的に思議による真諦を明らかにする。方等時には直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。般若時には直接的に不思議の真諦を明らかにし、派生的に不思議の俗諦を明らかにする。そして法華時にはすべて不思議の真諦と俗諦を明らかにする。もし頓教の人のために十二部を説くならば、直接的に不思議の真諦を明らかにし、派生的に不思議の俗諦を明らかにする。また不定教の人のために十二部を説くことについては、もともと形式が定まっていない教えなのであるから、述べることはできない。

もし漸教の中の四教について述べるならば、三蔵教は直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。もし三蔵教の菩薩のためならば、直接的に思議の俗諦を明らかにし、派生的に思議の真諦を明らかにする。もし通教の二乗ならば、直接的に思議の真諦を明らかにし、派生的に思議の俗諦を明らかにする。もし通教の十地の七地以前の菩薩のためならば、二乗と同じである。もし七地以降の菩薩のためならば、直接的に俗諦を明らかにし、派生的に真諦を明らかにする。もし別教の十信・十住の菩薩のためならば、直接的に三界の中の真諦と俗諦を明らかにし、派生的に三界の外の真諦と俗諦を明らかにする。もし別教の十行・十廻向の菩薩のためならば、直接的に三界の外の真諦と俗諦を明らかにし、派生的に三界の中の真諦と俗諦を明らかにする。もし別教の十地以上の菩薩のためならば、総合的に三界の中と外の真諦と俗諦を明らかにする。もし円教のすべての菩薩のためならば、円融して三界の外の不思議の真諦と俗諦を明らかにする。