大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 189

『法華玄義』現代語訳 189

 

第四章 論用

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第四章は、「論用(ろんゆう)」である。用(ゆう)とは如来の妙の能力であり、『法華経』の優れた働きのことである。如来は権と実の二つの智慧をもって妙の能力とし、『法華経』は疑いを断じて信心を生じさせることをもって優れた働きとする。ただ二つの智慧は疑いを断じて信心を生じさせる。疑いを断じて信心を生じさせるのは二つの智慧による。人について、また法について述べ、またこの両方について述べるのみである。前に宗を明らかにしたが、宗と体について分別し、宗と体が混同されないようにした。

ここで用について述べるにあたって、宗と用について分別し、宗と用を混同しないようにする。なぜならば、宗にもまた用があり、用にもまた宗があるからである。宗の用は用の用ではなく、用の用は宗の用ではない。用の宗は宗の宗ではなく、宗の宗は用の宗ではない。

宗の用について述べると、因果は宗である。因果がそれぞれ煩悩を断じ抑えることを用とする。用に宗があるとは、慈悲を用の宗とし、疑いを断じて信心を生じさせることを用の用とする。もし宗を述べれば、しばらく煩悩を断じ抑えることは置いて、ただ因果を論じるのみである。ここで用を明らかにすることは、ただ疑いを断じて信心を生じさせることを論じるのみであり、しばらく慈悲を置く。もしこの意義が理解できれば、すなわち権と実の二つの智慧がよく疑いを断じて信心を生じさせることを知ることができる。これは『法華経』の大いなる用である。この意義は明らかである。

用を述べるにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、力用を明らかにし、二つめは、同異を明らかにし、三つめは、歴別を明らかにし、四つめは、四悉檀に対し、五つめは、四悉檀の同異である。

 

第一節 力用を明らかにする

法華経』以外のあらゆる経典は、仏の智慧をもっぱら明らかにすることはせず、仏の自らの応迹を説かない。そして正式に二乗の果を破り廃することをせず、生身の菩薩の目の前に対する疑いを断じて、深遠な次元に対する信心を起こさせることもない。本地を顕わして、法身の菩薩の本の仏を念じる道を増し、三界の外の生を減らすことをしない。

このように、他の経典にはない力用を『法華経』は備えている。したがって、「方便品」に声聞と縁覚の二乗や菩薩などの智慧を論じることなく、もっぱら仏の微妙の智慧を顕わす。衆生の九法界の知見を開かず、もっぱら衆生の仏の知見を開く。他の経典は、ただ仏の変化するところは迹だといって、仏の身は自ら迹だとはいわない。『法華経』は、自ら仏の身は迹であるという。その他の変化は、どうして迹でないことがあろうか。

法華経』は、正しく仮の城に喩えられる二乗の果を破り廃する。どうしてその因の行を破らないことがあろうか。また方便の教えを受ける菩薩や、迹に執着してそれを極みとすることを破る。『法華経』はそれらをみな廃して、すべて権迹だとする。および中間のあらゆる疑惑はすべて断じて、深遠不思議の信心を起こさせる。また、本地の真実の功徳を顕わして、法身の菩薩に大いなる利益を得させる。最初の阿の字から最後の荼の字に至るまでのように、すべての功徳を与える。あらゆる方角の数えきれないほどの土地をすりつぶして塵として、それをもって道を進める菩薩を数えても、数え尽くすことはできない。

如来は、権実の二智、一つの味の雨を降らすことによって、遍く平等にあらゆる方角に共に下ることは、すべての四門を共に破るためである。具足の道を求める者を満たし、その深い疑惑を断じ、その大いなる信心を起こさせ、一つの円因に入らせ、大乗の車を引いて、あらゆる方角に遊戯し、真っすぐに悟りの道場に至らせる。大いなる力用、妙能妙益はなお尽きることはない。

また次に、この力(りき)はよく二乗の果を破る。二乗は生死を恐れ、空に入って証を取り、安穏の思いを生じ、悟りを得たという思いを生じる。三無為(さんむい・生滅変化を超えた無為の三種。虚空無為(虚空そのもの)・択滅無為(悟りによって得る滅度)・非択滅無為(縁を欠いための不生))の穴に堕ち、有余涅槃や無余涅槃の苦がある。すでに死んだ種に生じる可能性のないようなものであり、智慧の医者も手をこまねき、薬も用をなさない。

『涅槃経』では一闡提を治すとあるが、これはまだ容易である。一闡提は心と智は滅んでいない。心ある者はまさに仏となる。滅びることが定まっていないので、治すことは難しいことではない。一方、二乗は身もなく智も滅んでいる。身を灰にすれば、その形体は常住ではない。智が滅んでいれば、心の働きはすでに尽きている。焼けた芽や死んだ種は、さらに高原や陸地にある。すでに耳が聞こえない人は眼が見えない人のようであり、長い期間、報いを受けることはない。あらゆる教主が捨てた者たちであり、あらゆる経典の薬も行なわれない。

法華経』の本仏の智慧は大きく、妙法の薬は良いものである。身の形体も灰にならずに浄瑠璃のようであり、三界の内外の形体はすべてこの中に現われる。心も智も滅びず、仏の知見に開示悟入せられ、客となった賤人に菩薩の家業をまかせ、高原や陸地に仏の蓮華を授ける。その耳は、一時にあらゆる世界の声を聞き、その舌はすべての存在に仏の音声を語り、すべてに聞かせるのである。よくひとつの器官をもって、遍くあらゆる用をする。すなわちこれが『法華経』の力用である。

すでに仏の智慧の力(りき)を説いた。今、さらに重ねて説く。漢の国が滅んで、魏と呉と蜀が興ったように、曹操の智略は、当時では第一だったが、楊修には劣っており、曹操は楊修が理解したことを、さらに三十五里進んだ後に理解できた。しかし、この真丹の人の智でさえ、外国の外道の智に及ばないことは、ごみと山を比べるようなものでる。そしてすべての世の人と外道の智は、舎利弗智慧の十六分の一にも及ばない。さらに二乗の智慧は蛍火虫のようであり、菩薩の智慧は日光のようである。通教の菩薩の智慧は普通の鳥が遠くまで飛んで行けないようなものであり、別教の菩薩の智慧は金翅鳥(こんじちょう)が須弥山から須弥山に飛ぶようなものである。その別教の菩薩の智慧も、仏の智慧があらゆる国土の土とすれば、爪の上の土のようなものである。まさに知るべきである。仏の智慧は、究極的に融合し、究極的に即し、究極的に急であり、究極的に真実である。不可思議であり、不縦不横であり、円満な妙に比べるものはない。喩えも尽くすことができない。他の経典は真理の次元に立ってもっぱら説くことはしないが、『法華経』はただもっぱらこれを説く。これは仏の実智の力(りき)が大きいからである。たとえば、十の子牛はひとつの龍に及ばず、十の龍は一人の力士に及ばない。そして十人の力士は五神通の人に及ばず、外道の五神通は一人の阿羅漢に及ばず、一人の阿羅漢は一人の目連に及ばず、目連は舎利弗に及ばず、舎利弗は菩薩に及ばす、菩薩は別教の菩薩に及ばず、別教の菩薩は円教の菩薩に及ばず、円教の菩薩は仏に及ばない。仏はただ大いなる方である。仏の変化身もまた変化し、その変化は尽きることはない。策略がなくて適切であることは、阿修羅の琴が奏でる者なく鳴るようなものである。すべての賢人や聖人も、それを測ることはできない。

仏の権力は、すでにこのようであるならば、他のあらゆる意義はわかるであろう。あえて記すことはしない。

 

第二節 同異を明らかにする

問う:実相の体、因果の宗はすでにあらゆる経典に共通するが、権実の二智はどうであるか。

答える:名称は共通して用いられるが、その力(りき)は大いに異なりがある。蔵教と通教は、二智をもって四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)の疑いを断じ、偏った真理の信心を起こす。『維摩経』は二乗および偏った行の菩薩を批判するといっても、またこれは三界の中の断疑生信であり、小乗および方便の菩薩に対して、大いなる疑いを断じ大いなる信心を起こさせることはできない。『大品般若経』に貫かれている意義においては、またこれも三界内の断疑生信である。別教の意味としては、三界の外にあるといっても、また浅い疑いを断じるのみで、奥深い信心を起こさせることはできない。『華厳経』の正しい意義においては、三界の外の疑いを断じ、円満な信心を起こさせるが、また浅い疑いを断じるのみで、奥深い信心を起こさせることはできない。このために、権実の二智は、名称としては共通するといっても、力は大いに異なる。

法華経』は仏の菩提の権実の二智をもって、最初の七方便の最大の無明を断じ、同じく円満な因に入り、浅い迹に執着する情を破って、本地の深い信心を起こさせ、最後の等覚においても断疑生信させる。このような優れた用は、どうして他の経典と同じであろうか。

法華玄義 現代語訳 188

『法華玄義』現代語訳 188

 

第五節 因果を結成する

因果を結ぶことを述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは因果を結び、二つめは四句をもって考察する。

 

第一項 因果を結ぶ

そもそも経典に因果を説くことは、正しく共通して三界の中の生身と、三界の外の法身の修行者をして、利益を与えようとするためである。もし開権顕実するならば、中心的に七方便(人、天、声聞、縁覚、蔵教の菩薩、通教の菩薩、円教の菩薩の七人のこと)の生身の者で、まだ道に入っていない者を入らせ、付随的に生身と法身の二身の者で、すでに入っている者をさらに進めさせる。もし仏の寿命が永遠であることを説けば、付随的に生身のまだ道に入っていない者を入らせ、中心的に生身と法身の二身の者で、すでに入っている者をさらに進めさせる。「如来神力品」に「如来のあらゆるすべての大変深い事象」とあるのは、非因非果が大変深い理法であり、因果が大変深い事象である。

七方便が最初に円教に入るところから、十住の位に至るまでを因と名付ける。そして等覚の位がある。もし等覚の位を転じれば、妙覚を得る。これを果と名付ける。二住から等覚に至るまでを中間と名付けて、亦因亦因因・亦果亦果果とする。無礙道をもって一つの無明を抑えることを因と名付け、解脱道をもって一つの無明を断じることを果と名付ける。この解脱について、また無礙道を修すために因因という。この無碍よりまた解脱を得るために果果という。

また次に、始めの十住を因とし、十行を果とする。十行を因とし、十廻向を果とする。十廻向を因とし、十地を果とする。十地を因とし、等覚を果とする。等覚を因とし、妙覚を果とする。妙覚はただ果であり、ただ解脱である。因と名付け無碍と名付けることはできない。初住はただ因であり、ただ無碍である。果と名付け解脱と名付けることはできない。なぜなら、初住に真理を見ることにおいて、真理をもって因とする。十信の相似即は、真の因ではない。

人に本来備わっている性を初因とするならば、指を弾き、花を注ぐことは、縁因の種であり、一句でも聞くことは了因の種であり、およそ心ある者は正因の種である。これは悟りからは遠い性に備わる三因の種子のことであり、これは真実の開発ではないので、因としない。

 

第二項 四句をもって考察する

問う:もし初住に理法に入ることを円因・円果とすれば、なぜ経文に「漸漸(ぜんぜん・次第に、という意味)に修学して仏道を成就することができる」といえるのか。

答える:まさに二種類の四句をもって考察すべきである。自ら漸円があり、自ら円漸があり、自ら漸漸があり、自ら円円がある。

漸円とは、これは理法の外の七方便であり、同じく仏の知見を開いて、初めて円理を見ることについてである。円理を見るとは、まさに理法の外の七方便が、漸次に円因に入ることによる。このために漸円という。

円漸とは、初めて円に入って、同じく三諦を観じ、実相の理法を見て、最初と最後と異なりがない。しかし、事象の中の修行は、すべて備わることはできない。またしばらく研修しなければならない。初めて円に入るために円とする。そこから進んで上の行をするために、漸と名付けるのである。

漸漸とは、二住から等覚に至る。これは円の範囲内の漸漸であり、理法の外の漸漸ではない。

円円とは、妙覚に至っても、また漸円と名付け、また円円と名付ける。円の理法は前より円となり、また事象も円となるために円円という。

また、円漸は初住のようであり、漸漸は二住から三十心に至り、漸円は初地からであり、円円はすなわち妙覚である。三十心に同じく賢聖の意義があるといっても、意義から称して賢とする。煩悩を抑えることが多く、断じることが少ないためである。十地から上は聖とする。煩悩を抑えることが少なく断じることが多いからである。また十住を賢聖と名付け、二十心は聖賢である。十地等覚は聖であり、妙覚は聖聖である。

ここで喩えを用いると、初月は月の輪郭は丸いが、光はまだ備わっていない。これは円漸のことである。二日から十四日に至るまでは、その明るさは漸次に進む。これを漸漸に喩える。十五日に至って漸円に喩え、また円円に喩える。月そのものに満ち欠けはないが、月について満ち欠けを論じるのである。理法に円も漸もないが、理法について円と漸を判別するのである。

法華経』の宗は、利益が巨大である。最初の円漸より最後の円円に至るまで、大乗の因果は増長し具足する。

問う:すでに円漸とすれば、また円教・別教があるのか。そして、通教・蔵教にもまたそうであるのか。

答える:これについては『四教章(天台大師著『維摩経疏』から後に独立した『四教義』十二巻のこと)』の中にある。その意義は何か。三蔵教の三蔵は理解すべきである。三蔵教の別とは、四諦・十二因縁・六波羅蜜である。通とは真諦である。円とは無学が論じるのである。通教の通とは、同じく無生である。通教の三蔵とは、道諦の中の戒律・禅定・智慧である。通教の別とは、煩悩が尽きることと尽きないことである。他を教化することとしないこと、世間に出ることと出ないことである。通教の円とは、同じく真理を証することである。別教の別とは、蔵教・通教とも別であり、円教とも別ということである。別教の三蔵とは、無量の道諦の中の戒律・禅定・智慧である。別教の通とは、四門が共に中道に合うことである。別教の円とは、五住煩悩が尽きることである。円教の円とは、融合である。円教の別とは、四門が異なっていることである。円教の通とは、四門が互いに摂取することである。円教の三蔵とは、円の道諦、円の戒律・禅定・智慧である。

この意義はすでに共通するので、またまさに漸円・漸円の四句もわかるであろう。因果を結論付けることはみな成就するのである。そして後に、麁と妙を判別し、麁と妙を開くこともできるであろう。

法華玄義 現代語訳 187

『法華玄義』現代語訳 187

 

第三節 諸経典の同異を明らかにする

あらゆる経典の迹門の因果については、あるものは『法華経』と同じで、あるものは異なる。本門の因果はすべて異なっている。

迹門の因果については、そもそも実相はすべてに通じて、あらゆる体を証明する。いったいどの経典が、この実相について因果を語らないことがあろうか。

大品般若経』には、非因非果の実相を明らかにして、それを体とするが、ただ因を宗とするのみである。『般若経』の空は、まさしく因の意味である。このために「菩薩の心の中を般若と名付け、仏の心の中にあるものを薩婆若(さつばにゃ・一切智のこと)という」とある。その文の中で、また菩薩の無正無滅の因は、不断不常の薩婆若を得ると説く。

僧叡の『大品経序』に「奥深い文を開いて、執着のないことを始めとし、一切智、道種智、一切種智の三慧に帰して無碍をもって終わりとする」とある。この始終は因果である。文の中、また一切種智の仏果を説くが、般若の因を成就するためのものであり、因を中心とし、果は付随である。『無量義経』に、摩訶般若の非常に長い期間の修行について述べられている。このために、この経典は因をもって宗とする。

維摩経』は、仏の国の因と果の二つの意義をもって宗とする。宝積長者は具体的に因果を問い、仏はそれらの因果を答えている。このために、知ることができる。因と果の二つを宗とするのである。

華厳経』の円頓の教えは、宗に対する解釈が同じではない。あるいは、「因をもって宗とする。経の題名である『華厳』という言葉によれば、すべての行を荘厳に装飾する修因の意義である。文の中、多く四十地の修行の相を説く。このために因をもて宗とする」という。また、「果をもって宗とする。経の題名である『大方広仏』ということによれば、この仏の名は果の極みの名である。華厳は、禅定と智慧のすべての善をもって、仏の身を荘厳する。因を荘厳するのではない。文の中、多く廬舎那仏の法身について説いている。すなわち、果をもって宗とするのである」という。また解釈して「因と果を合わせて宗とする。仏はすなわち果であり、華厳はすなわち因であるというようなものである。文の中、具体的に法身を説き、またあらゆる修行の段階を説く。共に因と果をもって宗とする」という。

このように、あらゆる経典は、修行者に対することが同じではないので、宗について明らかにする内容は互いに異なっている。『般若経』は、声聞と縁覚と菩薩の三人に対するので、真実に対して付随的な因果がある。その意義は『法華経』と異なっている。能力の高い人の因は、その意義は同じである。『維摩経』の仏の国については、同異を兼ねている。蔵教・通教・別教の三種の仏の国の因果については、その意義は異なっている。円教の仏の国の因果は同じである。『華厳経』もまた、能力の高い人と低い人に応じている。能力の鈍い人は異なっていて、高い人は同じである。前に分別して説いた通りである。

またこの意義をもって、五味の教えの因果に当てはめることは、わかるであろう。以上を、あらゆる経典の因果と迹門との同異の相とする。

次に、本門の因果は、すべての経典が『法華経』と異なっているということについて述べる。三蔵教の菩薩は、はじめ実の因果を行じて、権の因果はない。そして、仏は菩提樹の下で初めて悟りを開いたと明らかにしているので、その仏は久遠の本迹ではない。通教の菩薩も、はじめ因を修行して、神通力によって変化して本門と迹門を論じる。これも久遠の本迹ではない。『大品般若経』には、菩薩に本と迹があって、声聞と縁覚の二乗にはないと説く。仏は初めて生身と法身の二身の本迹を得ることを説いて、久遠を説かない。『維摩経』には、声聞に本迹があるとは説かず、ただ菩薩は不思議の本迹に住むと明らかにしている。仏に浄土があると説いても、その中で、螺髻梵王(らけいぼんのう)が見たものは、久遠ではない。『華厳経』には、廬舎那仏と釈迦を本迹とすると説く。菩薩にもまた本迹がある。声聞は聞くことができず理解することができない。どうして自ら本迹があるだろうか。

法華経』は、声聞に本があるとする。本に因果がある。二乗の迹の中の因果とする。仏の迹を明らかにする。王宮の生身が生じ、菩提樹の下で法身が生じ、そして中間の生身・法身の二身は、すべて迹である。ただ最初にまず、真身と応身を得ることをもって本とする。このために師弟の本因本果は、他の経典とすべて異なっている。

法華経』の迹の中の師弟の因果は、他の経典と同じところがあり、また異なっているところがある。本の中の師弟の因果は、他の経典にはない。以上を『法華経』の因果をもって、経典の妙宗とするのである。

 

第四節 麁妙を明らかにする

円満ではない因、菩提樹の下で初めて悟りを開いたという偏った果などの宗は、すなわち麁である。『大品般若経』に明らかにされているところの、三乗に共通する因果もまた同様である。共通しない因においては、菩薩が一日、般若を行じることは、太陽が闇を照らすようであり、発心して神通力に遊戯するといっても、なお麁の因を帯び、円満な因が独自に顕われることはない。法身はどこから来たことでもなくどこへ行くでもないと説くといっても、なお麁の果を帯び、円満な果が独自に顕われることはない。このために麁と名付ける。方等教の中には、偏った因果を批判して、高原や陸地には蓮華は生じないといっても、偏った因果が円満な因果に入ることができることを論じない。円満な因果が現わされないので、また麁である。『華厳経』は、先に高山を照らすように、一つの円満な因を説き、究竟して未来に受ける身に対して一つの円満な果を説く。しかしまた別の因果を帯びているので、帯びるところは麁である。

法華経』は、声聞には授記を授け、菩薩には疑いを除かせる。同じく仏の知見を開き、共に一つの円満な因に入る。迹を説いて本を顕わし、同じく真実の果を悟る。因は円満であり、果は真実であり、方便を帯びない。そのため絶対的に他の経典とは異なっている。このために妙とする。

麁を開くとは、昔の修行者は能力が劣っていて、まだ仏乗の因果を称賛することを聞くことに堪えない。そのため方便の因果を用いて、程度の浅い者たちを導いて、五味の教えの通りに整え成熟させ、心がゆったりと通じ達するようにする。このために、仏に対して少し頭を低くするだけのことや、手を挙げることや、教えに執着する者もみな仏の道を成就し、その他に仏の道の因でないものはない。仏の道はすでに成就すれば、なぜなお仏ではない果があるだろうか。集中していない善もわずかな因も、『法華経』において開かれ真実が明らかにされ、すべて円満な因であるとされる。ましてや声聞と縁覚の二乗の行もそうである。さらにましてや菩薩の行は言うまでもない。すべて妙の因果でないものはない。

法華玄義 現代語訳 186

『法華玄義』現代語訳 186

 

第三章 明宗

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第三章は、「明宗」である。宗とは、修行の重要な意味、体を顕わす大切な道である。家が保たれるための梁や柱のようなものであり、網を結ぶ大綱のようなものである。大綱を引っ張れば網の目が動き、梁が安定していれば、垂木が保たれる。宗を解釈するにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、1.宗と体を分別し、二つめは、2.正しく宗を明らかにし、三つめは、3.あらゆる経典の同異を明らかにし、四つめは、4.麁と妙を明らかにし、五つめは、5.因果を結成する。

 

第一節 宗と体を分別する

ある人が「宗はすなわち体であり、体はすなわち宗である」と言っている。しかしここではそれを受け入れない。なぜならば、宗の内容は因果である。因果は二つである。体は因でもなく果でもない。体はすなわち不二である。体がもし二つならば、体はすなわち体ではない。体がもし不二ならば、体は宗ではない。宗がもし不二ならば、宗は宗ではない。宗がもし二つならば、宗は体ではない。どうして体はすなわち宗であり、宗はすなわち体であるというのか。また柱や梁は家屋の支柱であり、それによって家屋の中の空間がある。梁や柱は家屋の空間ではなく、家屋の空間は梁や柱ではない。宗と体がもし一つならば、その誤りはこのようである。

また宗と体が異なれば、その二つは完全に別物となる。宗は体を顕わす宗ではなく、体は宗の体ではない。宗は体を顕わす宗でなければ、宗はすなわち邪悪な顛倒となる。体は宗の体でなければ、すなわち体は狭く広く行き渡らない。法性を離れて外に別の因果があるだろうか。宗と体がもし異なっているならば、その誤りはこのようである。

ここで言う。宗と体は異なっていないままで異なっている。非因非果であって、しかも因果がある。このために宗と体の区別がある。『大智度論』に「もし諸法の実相を離れれば、みな魔事と名付ける」とある。『観普賢菩薩行法経』に「大乗の因とは、諸法の実相である。大乗の果とは、また諸法の実相である」とある。すなわちこの意義である。まさに知るべきである。実相の体は共通するが、因果ではない。行のはじめに因を論じ、行の終わりに果を論じるのである。

しかしまた偏った教えと円満な教えの区別があることについては、たとえば、銅の体そのものは初めもなく終りもないが、銅像を鋳造する時、像の初めがあり、仕上げの磨きが終わることを像の終わりとするようなものである。これは円教の因果を喩えるのである。もし器や皿およびその制作に喩えれば、器や皿の始終は、偏った教えの因果を喩えるのである。七方便(五停心、別相念住、総相念住、煗法、頂法、忍法、世第一法)の心を発することを偏った因といい、有余涅槃と無余涅槃を証することを偏った果と名付ける。仏の知見を開くことを円教の因と名付け、妙覚を究竟することを円教の果と名付ける。もしこの喩えを知れば、不即不離であり、宗の意義は明らかとなる。たとえば、正因仏性(すべてのものに備わっている理法)は因でなく果ではないが、因であり果ではないことを仏性と名付け、果であり因ではないことを大涅槃と名付けるというようなものである。また仏性は現世の存在でもなく過去の存在でもないが、過去から存在するという。すべての衆生は、そのままで涅槃の相である。また滅びることはない。また「すべての衆生にはことごとく仏性あり」という。しかし現実には仏の三十二相さえない。未来にまさに金剛の身を得るであろう。このように現実にはないことをもって、本(過去のこと)という。その本ではないことを当(現在のこと)という。宗と体の意義も、またこれと同様である。

廬山慧遠師は、一乗をもって『法華経』の宗としている。いわゆる妙法である。経文を引用して「この乗は微妙にしてこれ以上はない」という。私的に言えば、三乗を破るための一乗ならば、麁の妙因に過ぎず、妙果を兼ねていないことになる。

廬山慧龍師は、「ただ果をもって宗とするのみである。妙法とは、如来の霊智の体である。あらゆる麁が尽きることを妙とし、その活動が衆生の規範となるものを法という。法はすでに真実の妙であるので、蓮華をもって喩える。果の智慧を宗とするためである」と言っている。私的に言えば、果は単独では立たない。どうしてその因を捨てるのか。経文に背く。

慧観の『法華宗要』の序文に「会三帰一は乗の始めである。智慧と悟りが円満になるのは乗の頂点である。迹の仏が消えて本の仏が現われるのは乗の終わりである」とある。鳩摩羅什はこれを称賛して「もし深く経蔵に入らなければ、このようなことは説けない」と言っている。

僧印師は「諸法の実相は一乗の妙境である。境智をもって宗とする。境に三つの偽りがないので、実相という」と言っている。今ここで言えば、いたずらに境を加えてしまって果を欠いている。これはただ膨れているだけで中身はない。

光宅寺法雲師は、一乗の因果を宗としている。『法華経』の前段を因として、後段を果としている。私的に言えば、迹門と本門それぞれに因果がある。もし互いにあって互いになければ、経文を害することになる。

ある人は、権・実の二つの智慧を宗とする。私的に言えば、権を用いれば、まさに三乗は経の宗と言うべきである。三乗は『法華経』によって退けられるところである。どうして捨てられるものを宗とするのか。

またある師は「これを妙法蓮華と名付ける。すなわち名をもって宗とする。妙法は仏の得るところであり、根本真実の法性である。この性は煩悩に異ならないと同時に煩悩と同じではないので妙という。すなわちこれを宗の名とする」と言っている。これは地論宗の用いるところである。第八阿黎耶識が果の極みであるところによっている。今、『摂大乗論』においてこれが破られ、これは生死の根本であるとする。

ある師は、「常住を宗とする。ただこれは真理を究めたものではない。これは真理を覆って常を明らかにしているのである」と言っている。私的に言えば、これはすべて『法華経』の真意ではない。常が真理の覆われているものならば、どうして宗として顕わすものがあるのであろうか。常は覆われているものではないが、『法華経』の宗ではない。

ある師は「この経は明瞭に常を明らかにするものである。涅槃経は詳しく述べ、法華経は概略的に述べられているのである」と言っている。私的に言えば、常を宗とするならば、常には因果がない。したがって、常もまた宗がないことになる。

ある人が「あらゆる善を宗とする。ただこの善をもってすべての人が仏になるように導くのである」と言っている。私的に言えば、もし仏になるようにさせるものならば、それは果である。どうして果を宗としないのだろうか。

ある人が「あらゆる善の中で、無漏をもって宗とする」と言っている。私的に言えば、これは極論である。また小乗の涅槃と混同されている。

ある人は「もしこれらのさまざまな説によって、それぞれ利益を受ければ、あらゆる解釈も間違いとは言えない。聞いても悟らなければ、あらゆる師もそれを正しいとはできない。一人の師の教えにおいては、その尊さはその悟りにある。したがって、悟りをもって宗とすべきである。大智度論に『もし固定的な相があるなら、それは生死の教え、魔王の相である。仏の法には固定的な相はない。このために如来は、道でないものを道と説き、道を道ではないと説く』とある。まさに知るべきである。ただ悟りにのみ従うべきである」と言っている。私的に言えば、もし悟りを宗とすれば、これは果証であり、行因をいうのではない。南を問われて北を差すようなものである。方向性が乱れている。また決定的に悟りを宗とすれば、これは固定をさらに固定するものである。どうして、固定的な相はないというのか。

このように、『法華経』の宗について述べる説は多い。すべてを挙げることはできない。

 

第二節 正しく宗を明らかにする

この『法華経』は、最初の「序品」より「安楽行品」までにおいて、方便を破り廃し、真実の仏の知見を開き顕らかにしている。また弟子の真実の因果を明らかにし、また教えの門の権因権果を明らかにする。経文の意義は広いといっても、その要点を取れば、弟子の真実の因を成就するためである。因が中心であり、果が付随である。このために、この前段において迹因迹果を明らかにするのである。「従地涌出品」から最後の「普賢菩薩勧発品」までにおいては、迹門から本門を顕わし、方便の短い寿命を廃して、永遠の寿命の真実の果を明らかにする。また弟子の真実の因果を明らかにし、またまた教えの門の権因権果を明らかにして、仏の真実の果を顕わす。果が中心であり、因が付随である。このために後段において、本因本果を明らかにする。

前の因果を合わせて、共に経の宗とする。意義はここにある。このために経を二つの文に分けて、本を論じて迹を論じる。そして並列的に教えを喩えて、蓮をあげ華をあげる。師弟の権・実は、すべてその間にある。

法華玄義 現代語訳 185

『法華玄義』現代語訳 185

 

第六節 遍く諸行の体について

諸行の体について述べるにあたり、四つの項目を立てる。一つめは、1.諸行の同異について、二つめは、2.経による行について、三つめは、3.麁と妙の判別、四つめは、4.開麁顕妙である。

 

第一項 諸行の同異について

教えを受けて行を立てるにあたっては、信行と法行を出ない。能力の劣った者は教えを聞くことによって理解を得て、その理解に従って行を立てるために信行と名付ける。能力の優れた者は自ら理解し、その理解に従って行を立てるために法行と名付ける。この二つの行は四教に通じる。三蔵教の信行と法行は、実相を付随するものもって体とし、通教の信行と法行は、実相を主とするものを、付随的に含んでそれをもって体とし、別教の信行と法行は実相を主とするものを体とし、円教の信行と法行もまた実相を主とするものを体とする。もし並列的に行を論じれば、諸波羅蜜・慈悲・喜捨などである。該当する教えに体を論じる。もし並列的および位の進行に従って、諸行に体があれば、本(最も根本的な真理の次元)が働き道が生じる。もし体に行があれば、体は行を借りて顕われる。

重ねて、位の進行に従って円教の行を明らかにする。五品弟子位と六根清浄位は、相似即の実相を主とするものをもって体とし、初住から等覚に至るまでは、みな分真即の実相を主とするものをもって体とする。並列的な行とは、『大品般若経』に「すべての法はみな大乗である。不可得であるからである」とある通りである。「不可得」であるために、すなわち実相を主とするものである。『法華経』に「すべての法の有あるいは無を得ることはできない」また「等しくすべての子に一つの大きな車を与える」とあるのはこの意義である。経典には「婆羅門の学生は然灯仏を見て無生法忍を得る」とある。行に真実の体がある。『金剛般若経』に「執着なく布施することは、人に目があってさまざまな形を見るようなものである」とあるのはこの意義である。

位の進行に従う行に体があることは、その車は高く、並列的な行に体があることは、その車は広いということである。高く広くあってこそ、その車は多く進む。進む歩みは等しく正しく、その早いことは風のようである。

 

第二項 経による行について

前に述べた信行と法行の二つは、意味はわかりやすいが時間がかかり、その時間は数えきれないほどの劫を経る。たとえば、籠城する敵を長い時間囲むようなものである。もし諸経典によって、個別に行法を明らかにすれば、日時を限定させ時間を制することができる。たとえば、敵を激しく攻めるようなものである。

もし事象的な行に従って修行すれば、行は体がない。もし理法的な行に従って修行すれば、その空の智慧をもって行と対応させる。よく無量の道を妨げる罪を破り、よく無生法忍を得ることは、この行に体があるからである。諸経の個別的な行は多いが、概略的に次の四つとなる。それは常行行・常坐行・半行半坐行・非行非坐行である(注:これを四種三昧という。下にも記されている通り、詳しくは『摩訶止観』の中に説かれている。ここに簡単に記すと、常行とは、阿弥陀仏を本尊とし、その周囲を念仏を唱えながら回り続けることで、決して座ることはない。常坐とは、堂内に一人で入堂し、もっぱら坐禅をする。半行半坐とは、常行と常坐を組み合わせて行ない、非行非坐三昧は、毎日の生活そのものが修行とみなす行である)。あらゆる行にそれぞれ事象的な相の方法があって勤め工夫して、すべて実相を主とする観法をもって体とする。各一念が間断なく空のように清浄である。具体的にこの観法に意義を論じることは『摩訶止観』の中に説いている通りである。

しかし、小乗の三蔵教の戒蔵には重罪を懺悔することを許さず、経蔵には重罪の人に仏身を念じさせる。仏身とは空を念じることである。またすべて常行などの方法があるが、偏空をもって体とする。通教もまた常行などの方法を明らかにして、即空をもって体とする。別教の行は段階的(歴別)であり、円教の行は融和的(虚融)であり、共に実相を主とすることをもって体とする。

この四つの行をもって五味の教えに喩えて論じることはわかるであろう。

 

第三項 麁妙の判別

蔵教と通教の信行・法行の真実や相似の並列的および進行的なあらゆる行は、実相を付随するものもって体とする。体も行も共に麁である。別教の信行・法行の真実や相似の並列的および進行的なあらゆる行は、別教の門によるといっても、実相を主とすることをもって体とする。因は無常であるが、果は常住である。行は麁であり、体は妙である。円教の信行・法行の真実や相似の並列的および進行的なあらゆる行は、円教の門の実相を主とすることをもって体とすることによるので、体と行は妙である。

五味の教えに喩えて麁と妙を論じることはわかるであろう。

諸経典の方法による常行などの行は、実相を付随するものもって体とするので、体と行は共に麁である。実相を主とすることをもって体とすれば、すなわち行は麁であり、体は妙である。体と行が共に妙であることは、前に述べた通りである。五味の教えに喩えて論じることはわかるであろう。

 

第四項 開麁顕妙

三蔵教の信行と法行の二つを開けば次の通りである。また「声聞の法の本来の姿は諸経の王である。聞き終わって明らかに思惟し、この上ない道に近づくことができる」とある。「聞く」ということはすなわち信行、「思惟」はすなわち法行である。「この上ない道に近づく」とは、すなわち大乗の無相の行の真理に近づくことである。並列的に行を開けば、『法華経』に記さているように、ただ仏に向かって頭を下げること、手を挙げること、歌を歌うこと、心が散っている状態のまま仏を礼拝することなど、みな仏の道を成就する。

三蔵教の最も浅い程度の段階ですら開けばすなわち妙である。ましてや通教や別教はなおさらである。意義を得て知るべきである。小乗による常行などの方法を開けば、どんな小さな微細な善も、一つとして成仏しないことはない。意義を得て知るべきである。

 

第七節 遍く諸法の体について

『観普賢菩薩行法経』に「毘盧遮那仏はあらゆるところに遍在する」とある。「あらゆる」とあるが、これは四諦を出ない。『涅槃経』に「仏のまだ説いていないところは、あらゆる方角の国土のように多く、すでに説いたところは爪の上の土のように少ない」とある。摩訶迦葉は「すでに説くものは四諦である。まだ説いていないものはまさに五諦となるであろう」と言った時、仏はこれに対して「それはない」と言っている。したがって、ただ四諦に無量の相があるのである。

もしそうであるならば、広く開けば、すなわち四種の四諦がある。詳細は境妙の段落で説いた通りである。まさに知るべきである。苦諦と集諦は、世間の善悪の因果であり、道諦と滅諦は世間を出たところのすべての因果である。すべて実相をもって体とする。『維摩経』に「無住の本からすべての法が生じる」とある。この意味か。

しかし、所依の体は、体妙であり異なるところはない。能依の法は、法自体に麁と妙がある。諸法は相待して分別することを知らねばならない。五味の教えをもって麁と妙を分別することは、わかるであろう。

また開麁顕妙もまた知るべきである。

以上、概略的に経の体について説き終わる。

法華玄義 現代語訳 184

『法華玄義』現代語訳 184

 

第四項 開顕を示す

問う:『中論』は、まず大乗の門を明らかにし、後に二乗の門を明らかにしている。ここではなぜまず小乗の門を明らかにし、後に大乗の門を明らかにしているのか。

答える:『中論』は、当時の人が誤った見解によって病を起こすために、まず大乗の教えによって病を取り除き、後に真理に入る門を示しているのである。『法華経』には誤った見解の病はない。ただ草庵に住めば、必ず方便の門を開いて、円満な真実の相を示すべきである。このために、先に小乗の門を列挙して、次に大乗の門を明らかにするのである。開いたり破ったりすることは適宜に行なわれれば、それぞれに美がある。

法華経』の後に説かれた教えは、さらに開く必要はない。『法華経』が説かれる前の教えは、たとえば門と理法がすでに妙に入っている者は、さらに開く必要はない。またあるいは、門と理法が妙であっても、人がまだ妙となっていない者もある。しかし、門と理法が妙となっている者は、また開く必要はない。門あるいは理法あるいは人がまだ妙となっていない者が、ここでまさに開かれるべきである。

つまり、すべての愛・見の煩悩は、そのままで菩提なのだと開く。このために『法華経』に「すべての法は空であり、如実の相であると観じる」とある。すべての生死はそのままで涅槃であると開く。このために「世間の相は常住である」とある。すべての凡人はそのままで妙人であると開く。このために「すべての衆生はみな私の子である」とある。すべての愛・見の言葉による教えは、そのままで仏の教えだと開く。このために「もし俗世間の経書、生産活動などを説けば、みな実相と相反することはない」とある。すべての衆生はそのままで妙理であると開く。このために「衆生に対して仏の知見を開かせるためである」とある。開くこと(開)をはじめ、示すこと(示)、悟ること(悟)、入らせること(入)もまた同様である。

すべての小乗の法はそのままで妙法であると開く。このために「声聞の法の本来の姿は諸経の王である」とある。すべての声聞の教えを開く。このために「仏は昔、菩薩の前において、声聞を退けた。しかし仏は、本当は大乗をもって教化される」とある。すべての声聞の行はそのままが妙行であると開く。このために「あなたたちの行じるものは、菩薩の道である」という。すべての声聞の理法はそのままが妙理であると開く。このために、「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。

あらゆる菩薩のまだ妙を悟っていない者を開いて、みな円満な悟りを得させる。このために「菩薩はこの法を聞き、疑いの網がすべて除かれた」とある。別教に一種の菩薩がいる。三蔵教にもまた一種の菩薩がいる。通教にもまた一種の菩薩がいる。まだその本来の姿が明らかにされていない者は、ここでみな開かれ真実の姿が顕わされる。あるいは門、あるいは理法、それぞれが妙に入らないことはない。このことを開権顕実し、麁の真実の姿を明らかにして妙とすると名付けるのである。

 

第五節 遍く諸経の体について述べる

諸経の体が実相であることについて述べるにあたって、さらに五つの項目を立てる。一つめは、1.『法華経』の体のさまざまな別名について、二つめは、2.諸経の体のさまざまな異名について、三つめは、3.付随のものと主のものとの分別についての考察、四つめは、4.大乗と小乗についての考察、五つめは、5.麁と妙および開麁顕妙についてである。

 

第一項 法華経の体の別名について

法華経』の体の名称が、前後に同異することは、「序品」に「今、仏は光明を放って、実相の義を助け発する」とある。また「諸法の実相の義はすでにあなたたちのために説いた」とある。「方便品」において詳しく説く中に「諸仏は一大事の因縁のために仏知見を開く」とある。また「この上ない道」とある。また「実相の印」とある。「譬喩品」の中には「大きな車」をもって大乗を喩え、「信解品」の中には「家業を託す」と名付けられ、「薬草喩品」の中には「一切智地」「最実事」と名付けられ、「化城喩品」の中には「宝所」と名付け、「授記品」の中には「珠を縫い付ける」と名付け、「法師品」の中には「秘密の蔵」と名付け、「見宝塔品」の中には「平等の大いなる智慧」と名付け、「安楽行品」の中には「実相」と名付け、「如来寿量品」の中には「如ではなく異ではなく」と名付け、「如来神力品」の中には「秘要の蔵」、「妙音菩薩品」の中には「普現色身三昧」と名付け、「観世音菩薩普門品」の中には「普門」と名付け、「普賢菩薩勧発品」の中には「あらゆる徳の本を植える」と名付ける。

このように異名は同じではない。その意義もまた異なっている。究極的な理法は真実であり、真実をもって相とするために「実相」と名付け、霊的な知は寂滅でありしかも照らすことを「仏の知見」と名付け、三世の諸仏はただこれを用いて自ら行じて他を教化するために「大事の因縁」といい、妨げなく通じることを「道」と名付け、諸法を正しく定めることを「実相の印」と名付け、人々を悟りに運ぶことを「乗」と名付け、仏事を成就し論じることを「家業」と名付け、すべての拠り所となるために「智地」と名付け、諸法の元であるために「宝所」と名付け、円満で妙であり思惟することができないために「宝珠」といい、蓄え積むところはないがあらゆる法を含むために「秘密の蔵」「秘要」と名付け、妨げなく通じ達することを「平等大慧」と名付け、二つの極端を防ぐために「如ではなく異ではない」と名付け、妙の表現が自在であることを「普現三昧」といい、真実に入る方法であるために「普門」と名付け、諸法によって生じるために「徳本」という。このような名称と意義がさまざまであるが、体はそのまま実相である。すでに前に説いた通りである。

 

第二項 諸経の体の異名について

問う:『大智度論』に「実相の印がないのは、魔の説くところである」とある。『法華経』は実相を説いて体とすることができるが、他の諸経はそうではない。つまりそれらは魔の説くところとなる。

答える:そうではない。諸経における異名は、あるいは真善妙色、あるいは畢竟空、あるいは如来蔵、あるいは中道などである。ここにあらゆる異名をすべて載せることはできない。みなこれらは実相の別称であり、すべて正しい印である。それぞれ第一としている。実相の印によるためである。もしこの意義を失えば仏法ではない。このために諸経の体は同じとするのである。

 

第三項 付随と主との分別について

諸経は半・満・小・大の異なりがあり、体に付随のものと主のものとがある。主はすなわち実相であり、付随のものはすなわち偏った真理である。偏った真理は、ある時は実相を含み、実相はある時には偏った真理を帯びる。しかもそれらをすべて実相と称する。このために『中論』に「実相は声聞と縁覚と菩薩の三人が共に得る」とあるが、これは偏った真理である。『涅槃経』に「声聞の人はただ空を見るだけである」とある。「空」はすなわち付随のものである。また「智者は空および不空を見る」とある。「不空」はすなわち主である。『法華経』には「私たちは昔、同じく法性に入った」とある。「法性」とはすなわち付随のものである。また「今日、実智の中に安住する」とある。「実智の中」とはすなわち主である。小乗の蔵教で説く諸行無常諸法無我涅槃寂静三法印は、付随のものである。通教は、付随のものを帯びて主を明らかにする。別教と円教はただ主を明らかにするのみであり、また付随のものを論じない。

もし五味の教えの喩えによれば、乳味の教えはただ主を論じるのみ、酪味の教えはただ付随のものを論じるのみ、生蘇味と熟蘇味の教えは付随のものと主を兼ねて帯び、醍醐味の教えはただ主のみである。また主の実相にあらゆる名字が多い。名字の中にまた付随のものと主のものを論じている。『勝鬘経』には自性清浄を主とし、他の名称を付随のものとし、『華厳経』には法身をもって主とし、『般若経』には一切種智をもって主とし、『涅槃経』には仏性をもって主とし、『法華経』には実相をもって主とし、他の名称を付随のものとする。これは、すなわち絶待妙においては、付随のものも主もないのであるが、教えにおいては付随のものと主を論じているのである。絶対妙においては、付随のものと主のものとはすべて経の体である。

 

第四項 大乗と小乗について

ここまでは別教と円教の二法の異名について考察したが、ここではさらに共通して小乗と大乗の四句によって考察する。第一句は、名義と体は『法華経』と同じであり、第二句は、名義と体は『法華経』と異なり、第三句は、名義は『法華経』と同じだが、体は異なり、第四句は、名義は『法華経』と異なっているが、体は同じである。

三蔵教の中において、もし体を実相とすれば、その名義は『法華経』と同じだが、体は異なる。もし実相と名付けなければ、その名義と体は『法華経』と異なる。ただ第一句と第二句を論じるだけであり、実質的に第三句と第四句はない。通教の中において、体を実相とすれば、その名義は同じだが、体は異なっている。もしこの名称がなければ、すなわち名義と体は共に異なっている。通教の門は、結局は中道に通じているので、名義と体は同じであり、また名義が異なっていても体は同じである。別教を円教に比較すれば、また四句がある。一つの法の異名の中に分別する通りである。

五味の教えの喩えによれば、乳味の教えは別教と円教の両種の名義が同じであり、両種の名義が異なっていても体は同じである。酪味の教えは前に説いた通りである。生蘇味・熟蘇味の中も前に説いた通りである。『涅槃経』の中の四教は、名義が異なっているものもあり同じのものもあるが、体は同じである。仏性は一つであるので、差別はない。

 

第五項 麁妙および開麁顕妙について

正しく実相に対する付随のものと主のものの名称の違いは、すなわち名称を異にし、意義を異にしているが、その体は同じである。したがってこれに対しては麁と妙の違いはない。ただ付随のものを麁とするのみである。付随のものに主を含み、主に付随のものを帯びることは、一応はまた麁とし、ただ主を妙とする。

蔵教と通教は、名称は同じく意義も同じだが、体は別であるので、すべて麁である。別教は、名称と意義は同じものもあれば、異なるものもある。教門が異なるものを麁とし、体が同じものを妙とする。名称と意義が同じであり、また名称と意義が異なっていても、体が同じものを妙とする。

五味の教えの喩えにおける麁と妙はわかるであろう。

麁を開くことは、すなわち付随のものを開くことである。あるいは、付随の教えを開けば、すなわち主の教えである。「仏は昔、菩薩の前において、声聞を退けた。しかし仏は、本当は大乗をもって教化される」とある。あるいは付随の行を開けば、すなわち主の行である。「あなたたちの行じるところは、菩薩の道である」とある。あるいは付随の人を開けば、すなわち主の人である。「客となって一日の報酬を受ける人は長者の子である」とある。あるいは付随の体を開けば、すなわち主の体である。「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。また「後にこの貧しい人を見て、衣の裏側に縫い付けてある珠を示す」とある。深く付随の理法を観じれば、すなわち主の理法である。すべてはみな妙であるので、麁として相対するものはない。これが経の正しい意義である。

法華玄義 現代語訳 183

『法華玄義』現代語訳 183

 

第二目 諸門について麁と妙を判断する

まず三蔵教の四門について明らかにする。この四門はすべて能通である。四門に執着すれば、共にみな妨げとなる。門が成就されることと門が退けられることと麁と妙に優劣はない。これは一概に判断できない。もし法に従って言葉を発せば有門は俗であり、道に入るためには拙い。空門は真理に近く、道に入るためには巧みである。このために『大智度論』に「能力の劣った人のために生空(しょうくう・事象的に空を説くこと)を説き、能力の高い人には法空(ほうくう・理法的に空を説くこと)を説く」とあるのはこの意義である。亦有亦無門は、前の門に比べれば巧みであるが、後の門に比べれば拙い。非有非無門は巧みである。『大智度論』に「半有半無の者は能力が劣った人とする」とある。これは四門の法について麁と妙を判断することである。

今、能力に応じて適切に説くことについて述べれば、もし有門にふさわしいならば、有門が成就して、他の三門が退けられる。もし無門(=空門)にふさわしいならば「無門が成就して、他の三門が退けられる。最後の第四門まで同様である。

もし一つの門について述べれば、みな四悉檀を得る者を成就とし、四悉檀を失う者を退けられることとする。各四悉檀について述べれば、世界悉檀においては、欲を満たすことを得とし、情に背くことを失とする。各各為人悉檀においては、その者にふさわしければ得とし、ふさわしくなければ失とする。対治悉檀においては、病を治すことを得とし、治さないことを失とする。第一義悉檀においては、第一義を見ることを得とし、第一義を見ないことを失とする。この見方において、さらに成就と退けることがある。これについて麁と妙を論じることができる。

また、十乗観法について麁と妙を判断すれば、第一の観境においては、因縁を観じて境が正しいならば得とし、境が邪悪ならば失とする。第二の真正発菩提心においては、真実で正しい心を発することを得とし、そうでなければ失とする。第三の善巧安心止観においては、心を安んじる所を得ることを得とし、心を安んじるにふさわしくなければ失とする。第四の破法徧においては、法を遍く破ることを得とし、遍く破らないことを失とする。第五の識通塞においては、通と塞を知ることを得とし、通と塞を知らないことを失とする。そして最後の第十の無法愛においては、道に従った法についての愛着が生じないことを得とし、道に従った法についての愛着が生じることを失とする。もし一門の十法が成就すれば、その門を妙とし、他の門を麁とする。もし他の門の十法が成就し、その門が成就しなければ、それを麁とし、他の門を妙とする。

通教の四門の麁と妙は、通教の理法はただ一つである。唯一の理法は説くことができない。どのような麁と妙とに表現して論じることができようか。聞く相手の能力に応じて説くことにおいては、優劣がないわけではない。四門の深浅を判断すれば、三蔵教の中に説いた通りである。また一つ一つの門について、もし四悉檀の対象となる者に合うことを説けば、これを妙とする。もし四悉檀の対象となる者に背けば、麁とする。また一つ一つの門について、十乗観法の修行において、一つ一つの句が適切であれば、妙と名付け、一つ一つの句が適切でなければ、麁と名付ける。麁であるために、四門は火に焼かれて清涼地に入ることができない。そうとはならない者を妙とする。

別教の四門の麁と妙は、もし法相について述べれば、有門は事象的なことについてであり麁とする。空門は理法的なことについてであり妙とする。空門は単一的な理法なので麁とし、亦空亦有門は空と有に通じるために妙とする。亦空亦有門は空と有が存在するために麁とし、非空非有門は空と有を排除するために妙とする。もし相手の能力に応じることにおいて述べれば、上に述べたことと同じではない。有門は欲に応じるために妙であり、他の三門は欲に応じないために麁とする。有門は悪に対するために妙とし、他の三門は対しないので麁とする。有門は第一義を見るために妙とし、他の三門は第一義を見ないので麁とする。他の三門においても同じである。

また十乗観法について述べれば、第一の観境においては、有門の真善妙色の境を知ることは、鎮頭迦(ちんずか・食べるにふさわしい柿という意味)と名付け、境を知らないことは迦羅迦(からか・毒の実という意味)と名付ける。(注:この鎮頭迦と迦羅迦の喩えは、『涅槃経』に記されている。この二つの実は非常によく似ているという。ある女がこれらを採取して市場で売ったが、その中で食べられる鎮頭迦は十分の一しかなかった、という話が記されている)。第二の真正発菩提心においては、正しく発心するために鎮頭迦と名付け、正しく発心しないのを迦羅迦と名付ける。第三の善巧安心止観においては、心を禅定と智慧に安んじることを鎮頭迦と名付け、禅定と智慧に安んじないことを迦羅迦と名付ける。第四の破法徧においては、あらゆる法を遍く破ることを鎮頭迦と名付け、法を遍く破らないことを迦羅迦と名付ける。第五の識通塞においては、よく通と塞を知ることを鎮頭迦と名付け、通と塞を知らないことを迦羅迦と名付ける。第六の道品調適においては、三十七道品を修することを鎮頭迦と名付け、三十七道品を修することをしないことを迦羅迦と名付ける。第七の対治助聞においては、よく対治を理解することを鎮頭迦と名付け、よく対治を理解しないことを迦羅迦と名付ける。第八の知次位においては、よく次位を知ることを鎮頭迦と名付け、次位を知らないことを迦羅迦と名付ける。第九の能安忍においては、安忍して動じないことを鎮頭迦と名付け、安忍できないことを迦羅迦と名付ける。第十の無法愛においては、道に従った法についての愛着が生じないことを鎮頭迦と名付け、道に従った法についての愛着が生じることを迦羅迦と名付ける。

迦羅迦の果は十分の九であり、鎮頭迦の果はわずかに十分の一である。もし十乗観法が成就すれば、十のすべてが鎮頭迦であり、十種の観法はすべて妙である。十分の九の迦羅迦は麁である。十分の一の鎮頭迦は妙である。花びらが千枚重なり合ったとしても、それは本物の金の一両に過ぎない。このように麁と妙を判断する。有門は以上述べた通りであり、他の三門も同様である。

円教の四門については、すべて妙であって麁はない。なぜならば、有門が法界であるので、すべての法を摂取して不可思議である。すなわちこれがすべての法である。どうして他の三門があるのだろうか。空門はすなわち法界であり、すべての法を摂取する。どうして他の三門があるのだろうか。他の二門も同様である。法相は平等であり、また優劣はない。

もしそうであるならば、四門の差別はない。ただ相手の能力に応じて四種の教えを説くのである。四つの指で一つの月を指し示すならば、月は一つだが指は四本あるようなものである。なぜなら、衆生は三世に転生する中で、この四門をそれぞれ習い、それによってそれぞれの本性を作っているからである。昔、四門の中に理法を見て、無明を翻そうとして智慧の本性を作る。昔、四門の中に善を修して、悪業を翻そうとして福徳の本性を作る。その福徳の智慧の因縁をもって、今の世の名色・触・受を感じ、それぞれもともと持つ習において、愛・取を起こす。これを十乗観法をもって円教の本性の衆生を成就することとする。

各人の願うところは同じではない。その対処に異なりがある。仏の智慧は明らかに見抜いて、相手の能力を照らすにあたって誤りはない。世界悉檀をもって、四つの本性に対応して、この四門を説くのである。各各為人悉檀をもって四つの善を生じ、対治悉檀をもってその四つの執着を治し、第一義悉檀をもってその四人に真理を見せる。この四つの縁がなければ、仏は説法をしない。縁は一つではないので、概略的にこの四つをいうのである。みな方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのである。門の相は円融して、四門はみな妙となる。

さらに教門について麁と妙を判断する。なぜなら、もし四悉檀の意義を得なければ、あらゆる主張がぶつかって、誰も融通することがなくなる。『十地経論』には、南北の二派がある。さらに『摂大乗論』が出た。それぞれ自らが真理だと言って、互いに排斥し合い、論議に負ける。もし真実の意義を得なければ、四門が共に失われる。

ただ円教の門は清浄に融合して、その教えは虚空のように玄妙である。経論を詮索してばかりでは、どの争いが止むであろうか。もし道に入ろうとするならば、どの門が通じるだろうか。真理を悟る時、どんな四つの区別があるだろうか。修行する時、どんな門の閉塞があるだろうか。

ただ四つの門の閉塞に軽重の区別がる。別教は門を隔てる。悟る者は背くことはなく、悟らなければ争いを起こす。その執着はとても重い。たとえば、愚かな馬が、手が痛くなるほど鞭で打ってようやく走るようなものである。円教の門は幽玄である。悟らない時の執着は軽い。たとえば、賢い馬が鞭の影を見ただけで走るようなものである。このような軽い執着は、まだ第一悉檀の利益を得ていなくても、四悉檀の他の三つの利益は失わない。

このために『大智度論』に「この四悉檀はみな真実であり虚偽ではない」とある。なぜなら、世界悉檀が世界であるために真実であり、最後の第一義悉檀が第一義を見るために真実である。共に真実であるけれども、真実に深浅がある。また共に虚偽である。なぜなら有門に世界悉檀を説く場合、欲望や願望においては真実であるが、他の門においては虚偽である。有門では善を生じることを真実とするが、他の門においては虚偽である。有門では悪を破ることを真実とするが、他の門においては虚偽である。有門では第一義を見ることを真実とし、他の門においては虚偽である。そして他の三門も同様である。有門の三悉檀は、世界悉檀において真実であり、第一義悉檀においては虚偽である。第一義悉檀は第一義において真実であり、世界悉檀においては虚偽である。真実であるために妙とし、虚偽であるために麁とする。

もしこの麁と妙をもって、五味の喩えについて述べれば、乳味の教えに八門がある。そのうち、四門は麁であり、四門は妙である。所通は共に妙である。酪味の教えは四門すべてを麁とする。理法もまた麁である。生蘇味の教えは十六門ある。そのうち、十二門は麁であり四門は妙である。二つの所通を麁とし、二つの所通を妙とする。熟蘇味の教えは十二門ある。八門は麁であり四門は妙である。一つの理法を麁とし、一つの理法を妙とする。醍醐味の教え、すなわち『法華経』の四門は妙とする。一つの理法もまた妙である。

あらゆる声聞の人は、この法華(注:「法華涅槃時」の「法華」)以前は、門も理法も共に麁である。この法華に至って、門も理法も円融して妙である。菩薩は定まっていない。あるいは方等・般若においては門も理法も妙である。非常に能力の劣った者は、二乗と同じである。涅槃(注:「法華涅槃時」の「涅槃」)においては十六門ある。十二門は麁であり、四門は妙である。所通は共に妙である。

なぜならば、これまでのさまざまな門は、麁と妙それぞれに通じるが、なお仮の理法がある。涅槃はそうではない。すべての実在の中に、すべて安楽の本性がある。この多くの衆生に、みな仏性がある。また仮の理法もなく、ただ真実の妙理だけがある。しかしさらに麁門があって、それを妙理の方便とし、みな真実に入ることを明らかにする。

『涅槃経』の中に、婆羅門教の師が仏に次のように質問したことが記されている。「因は無常であるのに、果はなぜ常なのか」と。仏はこれに反論して答えた。このために知ることができる。百もの川はすべて海に入るように、あらゆる門は真実において合わさる。真実の理法は重要である。このためにすべて融合する。能力の劣った者を導き、麁の方便を残しておく。法華は誤りを破り、仮の門の理法を破る。金の砂を持つ川は曲がりくねるようなことがないようなものである。涅槃は摂取して受け、さらに仮の門を許す。それぞれ因縁のため、残すことと廃棄することの異なりがある。しかし、金の砂を持つ川が海に入ることには変わりない。