大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 182

『法華玄義』現代語訳 182

 

第三項 麁妙を示す

門の麁と妙を述べるにあたって、二つの項目を立てる。一つめは、能所について麁と妙を判断し、二つめは、あらゆる門について麁と妙を判断する。

 

第一目 能所について麁妙を判断する

能と所について、四種がある。門は能通(通る主体という意味)であり、理法は所通(通って至る所という意味)である。自ら能通が麁であり、所通もまた麁であるものと、能通が妙であり、所通は麁であるものと、能通が麁であり、所通は妙であるものと、能通が妙であり、所通もまた妙であるものの四種がある。

三蔵教の四門は、事象的なことにおいて明らかにされ、浅く卑近な教えのために、能通を麁とする。ただその至るところも偏った真理なので、所通もまた麁である。通教の四門は、大乗の体空観であるので、如実の巧な観法であり能通を妙とし、三乗が同じく証するので所通を麁とする。別教の四門は、教えの道は方便なので、能通を麁として、円満な真理を明らかにして入るので、所通を妙とする。円教の四門は、悟りも道も真実の教えなので、能通を妙とし、事象も円満であるので、所通もまた妙である。

また、自ら麁の能通と所通を帯びるものがある。生蘇味の教えがそれである。麁の能通と所通を帯びていないのは、乳味の教えである。自ら麁の所通を帯びて麁の能通を帯びていないものがある。熟蘇味の教えがそれである。自ら麁の能通を帯びて麁の所通を帯びていないものがある。円入通教と円入別教がそれである。『涅槃経』の中のあらゆる門がこれである。

問う:『法華経』に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とある。麁であるので一つで小さいとするのか。妙であるので一つで小さいとするのか。

答える:この意義はまさに共通して用いるべきである。一つの門に限るべきではない。なぜなら、三蔵教の四門は、聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。しかしこれも同じく仏の教えなので一門という。各門の方便が異なっているので四門という。しかし同じく涅槃に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。文字の中に悟りはない。この文は教えについて狭く小さいということを論じている。たとえば、狭い道が二人並んで行くことを受け入れないようなものである。すなわち修行について狭く小さいということを論じている。教えと修行の二つの門は、真理を悟ることにおいて、狭い道を二人並んで行くことが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいということを論じている。

通教もまた同じである。聞く相手の能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。観法は同じでないので四門ある。しかし共に無生に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。通教は事象について真理であるので、文字の中に悟りがある。善と悪を共に観じれば、みな不可得であるので、教えと修行が共に並んで行く。この意義について狭く小さいということを論じない。ただ教えと観法をもって真理を悟ることが難しいように一致することが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

別教の四門もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。実相に入る観法は同じでないので四門という。しかし共に一実に向かうので一門という。所通は能通に従うために四門という。しかし能通は所通と一つになるので一門という。生死即涅槃を説かないので、教えは狭く小さい。煩悩即菩提ではないので、修行も狭く小さい。教えと修行をもって真理を悟ることが難しいのである。これはすなわち理法について狭く小さいという。

円教の四門もまた同じである。四つの能力に応じてそれぞれ異なった教えを説くので四門という。同じくこれは仏の教えであるので一門という。実相に入る観法は同じでないので四門という。しかし四つの観法は一実に向かうので一門という。門をもって理法を名付けるために四門という。理法をもって門に応じるために一門という。この教えは生死即涅槃を説かないので、教えは狭く小さいことはない。煩悩即菩提ではないので、修行も狭く小さいことはない。しかしこの教えと観法をもって理法を悟ることが難しいのである。理法を狭く小さいと名付ける。『法華経』の文に「ただ一つの門だけがあって、しかもまた狭く小さい」とあることによれば、正しく教えと修行の門をもって、理法を悟ることが難しいことをいうのである。このために狭く小さいという。

今、円教の一つの句を開くにあたって、ところどころ同じではない。どうして執着して一つの文を守るべきであろうか。もしこの意義を知れば、麁と妙は自ら明らかとなる。

法華玄義 現代語訳 181

『法華玄義』現代語訳 181

 

B.円観を明らかにする

すでに円教の四門を述べてきたが、今、有門による円教の観法について述べる。並べて記せば十の意義がある(注:「蔵教」「通教」「別教」と同様に、ここから「十法成乗観(=十乗観法)」について記されることとなる)。

 

第一.観不思議境

前の蔵教・通教・別教のそれぞれ四門、合計十二の門が思議の門であるのに対して、不思議境と名付けられる。不思議境は、すなわち一実の四諦である。つまり、生死の苦諦は、不可思議であり、即空・即仮・即中である。即空であるために方便浄、即仮であるために円浄、即中であるために性浄である。この三つの浄は一心の中に得るということを大涅槃と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち大涅槃である」とある。このために、不可思議の四諦と名付ける。滅ぼすべきものではないのである。これはすなわち生死の苦諦であり、無作の滅諦である。

またこれは集諦・道諦である。煩悩の集諦は不可思議であり、即空・即仮・即中である。即空であるために一切智と名付け、即仮であるために道種智と名付け、即中であるために一切種智である。この三智は一心の中に得るということを大般若と名付ける。『維摩経』に「すべての衆生は、すなわち菩提の相である。また得ることはできない」とある。これはすなわち煩悩の集諦であり、無作の道諦である。またこれは苦諦であり滅諦である。このために、不思議の一実の四諦と名付ける。またこれは真善妙色である。なぜなら、生死は即空であるために真と名付け、生死は即仮であるために善と名付け、生死は即中であるために妙と名付ける。これを有門の不可思議境と名付ける。

 

第二.真正発菩提心

すべての衆生は、すなわち大涅槃である。どうして楽をもって苦とするのだろうか。すなわち大悲を起こし、二種の誓願を起こして、まだ導かれていない者を導き、まだ煩悩を断じていない者を断じさせる。すべての煩悩は、すなわち菩提である。どうして闇の中の愚者のように、道をもって道でないとするのか。すなわち大慈を起こし、二種の誓願を起こして、まだ知らない者に知らしめ、まだ得ていない者に得させる。その二種の誓願とは、どのようなものにも左右されない無縁の慈悲と清浄の誓願である。慈善根の力をもって、自由にすべての衆生を救い取るのである。

 

第三.善巧安心止観

すでに真理の体解を成就し、発心を備えれば、どうして池に臨んで魚を見て、あえて網を使わず、また食べ物を用意せず足を縛って旅に出ないのだろうか。修行の要は禅定と智慧を出ない。たとえば、陰陽が適度に調い、万物が茂って実が結ばれるようなものである。雨季と乾季が適切でなければ、乾いたり腐ったりしてしまう。もし車の両輪が均等ならばよく走り、鳥の二つの翼がそろえば飛び回ることに耐える。生死即涅槃を体得することが禅定であり、煩悩即菩提であると達することが智慧である。一心の中において巧みに禅定と智慧を修し、すべての修行を具足するのである。

 

第四.破法徧

この妙慧をもってすれば、金剛の斧はすべてを砕くように、陰りのない太陽が臨むところはすべて明るくなるようなものである。もし生死即涅槃ならば、分断生死(三界内の凡夫の生死)、変易生死(三界外の菩薩の生死)の苦諦はみな破られ、もし煩悩即菩提ならば、四住・五住の集諦はみな破られる。またよく破るといっても、また破られるところがあるわけではない。なぜならば、生死即涅槃であるために、破るところはないのである。

 

第五.識通塞

優れた将軍は適切な進退を選ぶことに喩えられる。強い敵の前には留まり、弱い敵の前では進む。生死の災いを知ることを塞と名付け、生死即涅槃を通と名付ける。煩悩が悩乱することを塞と名付け、煩悩即菩提を通と名付ける。外道の四見から始まって円教の四門に至るまで、そのすべての通と塞を知るのである。その一つ一つに執着することを塞とし、その一つ一つが幻であり思議を離れたものであると達することを通とする。もし諸法の平地や山を知らなければ、ただ修行や教えが進まないだけではなく、重要な宝を失うことになる。

 

第六.道品調適

生死即涅槃を観じれば、十界の生死における色陰(しきおん・五陰の最初。認識の対象)は、みな浄ではなく不浄ではなく、五陰の最後の識陰も、常ではなく常でないことはないと達し、よく凡夫の四顛倒と小乗の四顛倒を破ることは、すなわち法性の四念処である。四念処の中に、三十七道品・三解脱およびすべての教えを備える。

また涅槃即生死であると知ることは、空・苦・無我・不浄を顕わし、生死即涅槃を知ることは、常・楽・我・浄を顕わす。生死と涅槃は不二であると知ることは、すなわち一実諦である。空・苦・無我・不浄でもなく、常・楽・我・浄でもないと知ることは、大涅槃に住むことである。

 

第七.対治助聞

もし正道に障りが多ければ、まさに助道を用いるべきである。生死即涅槃を観じれば、過去世からの報いの障りを対治する。煩悩即菩提を観じれば、業の障りと煩悩の障りを対治する。

 

第八.知次位

生死の理法において、その本性そのままが涅槃であるということは、理法の涅槃である(理即)。生死即涅槃を理解し知ることは、文字の上での涅槃である(名字即)。努めて生死即涅槃を観じることは、観行の涅槃である(観行即)。善根功徳が生じることは、相似即の位の涅槃である。真実の智慧が起こることは、すなわち分真即の位の涅槃である。生死の底を尽くすことは、究竟即の位の涅槃である。煩悩即菩提を観じることも同様である(注:理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即を六即という)。

 

第九.能安忍

よく内外強弱の妨げを安んじて受け、以上の観心を壊さない。もし生死即涅槃を観じれば、陰入境・病患・業・魔・禅・二乗・菩薩などの境によって動かされたり壊されたりしない。もし煩悩即菩提を観じれば、諸見・増上慢の境によって動かされたり壊されたりしない。

 

第十.無法愛

すでに障りの難を過ぎ、四善根が成立し、あらゆる功徳が生じ、生死即涅槃を観じるために、諸禅三昧の功徳が生じる。煩悩即菩提を観じるために、あらゆる陀羅尼・無畏・不共、あらゆる般若が生じる。生死と涅槃が不二であると観じるために、法身・実相が生じる。相似即の功徳は、理法に従順して生じるために、喜んで道に従順する法愛(悟ったことなどに執着すること)を起こす。生を法愛と名付け、それ以上上らず退くこともないことを頂堕という。この法愛が起こるならば、すぐに滅ぼすべきである。法愛が滅ぼし尽くされれば、無明を破り、仏知見を開き、実相の体を証する。生死即涅槃を観じるために、解脱を証得する。煩悩即菩提を観じるために、般若を証得する。この二つは不二であるので、法身を証得する。一身がそのまま無量身であり、この上ない宝聚(ほうじゅ)・如意円珠、あらゆる法が具足する。これが、有門から実相に入り、『法華経』の体を証得することである。他の三門も同様である。

この十種の観法は、『法華経』の中に具足している。「この教えは示すことはできない。言葉の相は寂滅している。その他の衆生は理解できる者がない」とある。また「私の教えは妙であり思い計ることは難しい」とある。これは観不思議境である。

「すべての衆生の中において大慈心を起こし、菩薩ではない人々の中において大悲心を起こす。私が最高の悟りを得る時、神通力、智慧力をもってこれを導き、その法の中に住むことができるようにさせる」とある。これは真正発菩提心である。

「仏は自ら大乗に住む。その得る法は、禅定と智慧の力をもって荘厳されている」とある。これは禅定と智慧の二法の力に安んじて、自ら成就し、他も成就させるのであり、善巧安心止観である。

「有を破る法王」とあり、また「日月の光明のように、よくあらゆる幽冥を除き、この人は世間において行じて、よく衆生の闇を破る」とある。これは破法徧である。

「一人の導師があって、多くの人々を導き、明らかな心を完成させて、危険な場所においてあらゆる困難を救う」とある。これは識通塞である。

法華経』の中に登場する浄蔵菩薩と浄眼菩薩はよく三十七道品をはじめ、あらゆる波羅蜜を修す。これは、道品調適と対治助聞である。

「増道損生(ぞうどうそんしょう・智慧を増して苦を減らすこと)してあらゆる方角に遊戯する」とあるのは、識次位である。

「安住して動かないことは、須弥山のようである」とあり、また「如来の衣を着る」とある。これは能安忍である。

「あらゆる声を聞くとしても、それを聞いて執着しない。その意根などの六根は、みな清浄であることはこのようである」とある。また「真実の清浄の大いなる教え」とある。これは無法愛である。

この十種の観法は、このように経文に散見されるが、人は知らない。ここで、十種を挙げて、有門においての観法を示した。他の三門も大同小異である。十種の観法が実相に入ることも同様である。

また次に、この十種の観法は、ただこの『法華経』だけに記されているわけではない。大乗小乗の経論に、みなこの意義が記されている。摩黎山(まりせん・最高の香木である栴檀を産出する山とされる)がもっぱら栴檀(せんだん)を出すようなものである。外道のヴェーダ聖典老荘の書物に記されていることとは異なっている。世の人は共に読むが、文に対して真意を知らない。もし道を学ぼうと願っても、全く方便はない。悲しむべきことである。

いたずらに牛の乳を搾って、その乳の発酵方法を知らないようなものである。もしこの十種の意義を知れば、小乗の四門において共に用いて実相に入り、大乗の四門において共に用いて実相に入る。すでに実相を知れば、乳がゆを食べて、それ以上することがない(注:釈迦が悟りを開く直前の様子を指す)ようなものである。如意宝珠の半分または全部をすべての人々に布施するようなことはある。しかし、このような尊い布施があったとしても、人が命を惜しまず道を重んじて、熱心に修行する姿を見ることはできない。受けたとしても用いなければ、いたずらに布施して何の利益があるだろうか。私は残念である。利益がないとしても、毒鼓(どっく・生死を減らす仏の教えを、人を殺す毒の太鼓に喩えている)の原因となる。具体的にこれを知ろうとすれば、『摩訶止観』に記されている通りである。

法華玄義 現代語訳 180

『法華玄義』現代語訳 180

 

第四.次第・不次第

もし有をもって門とすれば、門によって修行する場合、次第する段階の差がある。微かなことから著しいことに至るまで、一つの行の中に無量の行が含まれることはなく、最後の非空非有門までこれは同じである。これは別教の四門の相である。

もし有をもって門とすれば、すべての法は有門に赴く。門によって修行する場合、同じくすべての行は有門の行に赴く。一つの行がそのまま無量の行であることを、遍行と名付ける。最後の非空非有門までこれは同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門に円教の行があり、円教の門に別教の行がある。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第五.断の断・不断の断

至極の真理は虚無(こむ)であり、無明の本来の性質はもともと自ら有ではない。どうして智慧を用いるのであろうか。智慧による理解と煩悩の惑が共になければ、どうして円教や別教を用いるのであろうか。『涅槃経』に「誰に智慧があり、誰が煩悩を破るのだろうか」とある。『維摩経』に「貪りや怒りや愚痴の本性は、そのまま解脱である」とある。また「愚痴や愛着を断じないまま、智慧と解脱が起こる」とある。これはすなわち煩悩の断と不断を論じないことである。『涅槃経』に「闇の時に明るさはなく、明るい時に闇なし。智慧ある時にはすなわち煩悩はない」とある。これは智慧を用いて煩悩を断じることである。別教の有門は、多く固定的に分類して、次第に五住煩悩(見一処住地(間違った見解)、欲愛住地(この世的な迷い)、色愛住地(欲望は離れているが物質が存在するという誤った見解による迷い)、有愛住地(無色愛住地ともいう。欲望も物質的なことからも解放され、ただ精神性に対する迷いが残っている状態)、無明住地(=無明)の五つ)を断じて除く。すなわちこれは思議の智慧による断である。その他の三門もまた同じである。これは別教の四門の相である。

円教の有門は、智慧の理解と煩悩が不二であって、多く不断の断を明らかにし、五住煩悩もみな不思議である。すなわちこれは不思議の断である。その他の三門もまた同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、円教の門において断を説き、別教の門において不断を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第六.実位・非実位

もし有門に三界の中の見思惑を断じれば、三十心(「十住」「十行」「十回向」のこと)の位を判断し、三界の外の見思惑・無明惑を断じれば、十地の位を判断し、等覚の最終的段階で無明を断じ尽くして、妙覚の常住の果が煩悩の外にあって何事もないと明らかにすれば、これは他の位の因をもって、自らの位の果とすることであり、みな方便であり、実質的な位ではない。後の三門も大同小異である。みなこれは別教の四門の相である。

もし有門に初めて発心する時から始まって、一心三観によって三界の中の惑を断じ、円満に三界の外の無明惑を抑えれば、十信の位を判断し、進んで、真実の智慧を発して、円満に三界の外の見思惑無明惑を断じれば、四十心(「十住」「十行」「十回向」「十地」のこと)の位を判断し、等覚の最終的段階で無明を永遠に尽くして、妙覚が煩悩の外にあるならば、これは究竟真実の位である。後の三門もまた同じである。これは円教の四門の相と名付ける。

また次に、別教の門において実位を説き、円教の門において不実位を説く。別教の門において実位を証し、円教の門において不実位を証す。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第七.果縦・果不縦

もし有を門とし、門に従って果を証するならば、三徳に縦(時間的経過)と横(空間的広がり)がある。法身は、もともと備わったものであり、般若は修行して身に付けるものであり、解脱は初めて満了するものであるということは、ただ果の徳が縦に成就するのみならず、因もまた限定されることである。地論宗の人が「初地に布施波羅蜜を具足する」ということは、他において修行しないということではない。能力に従い分に従うのである。布施波羅蜜は初地に満了しても、それより上の位には通じない。他の法はそれぞれの分に従って具足しないのは、この意義が不完全であるからである。他の三門も同じである。これは別教の四門の相である。

もし有を門とし、門に従って果を証するならば、三徳が備わって不縦不横である。また因も同じである。一つの法門にすべての法門を具足して、通じて仏地に至る。『華厳経』に「初めの一地より諸地の功徳を具足する」とある。『大品般若経』に「最初の阿字に四十一字の功徳を具足する」とある。他の三門も同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門において果の不縦を説き、円教の門において果の縦を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第八.円詮・不円詮(注:詮とは経文として表わされた教えのこと)

もし有を門とすれば、門は円融しない。あるいは一つが融合し、あるいは二つが融合するのみである。経文の区分(序分、正説分、流通分)について述べれば、門の序分は、偏った教えの方便である。門の正説分は、不融不即の菩薩の智慧から始まり、偏った教えの譬喩などを述べる。門の流通分は翻って不融不即などの教えを結ぶ。他の三門も同じである。これは別教の四門の相である。

もし有を門とすれば、一門はそのまま三門である。門の序分は、円満な教えの方便である。門の正説分は、融即の仏の智慧から始まり、円満な教えの譬喩などを述べ、門の流通分はひるがえって融即などの教えを結び成就させる。他の三門も同じである。これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門における円教を明らかにし、円教の門における別教を明らかにする。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

 

第九.問答

もし有門の意義を明らかにする際に、円教と別教を論じることがなければ、問答を立てて、自ら円教と別教の趣旨を知ろうとすべきである。他の三門も同じである。

 

第十.譬喩

あらゆる門の前後について、金銀や宝物を喩えとしてあげ、あるいは如意宝珠や日や月を喩えとしてあげる。それらを別教に当て、あるいは円教に当てれば、円教や別教の相は自ら明らかになる。

 

以上のように、十種の項目をもって広くあらゆる経典を見るならば、円教と別教の二つの門は歴然と明らかとなる。

また五つの味の喩えをもって分別すれば、乳味の教えは両種(別・円)の四門であり、酪味の教えは一種(蔵)の四門であり、生蘇味の教えは四種(蔵・通・別・円)の四門であり、熟蘇味の教えは三種(通・別・円)の四門であり、『法華経』(醍醐味の教え)は一種(円)の四門である。

法華経』の十種の意義(①~⑩)とは、①「すべての法は空であり、如実の相であると観じる」、「声聞の教えを決了すれば、諸経の王である」、「方便の門を開く」とあるのは、凡夫、小乗、大乗の人の法を融合することである。②「すべての世の産業などは、みな実相と異なることはない」、「すなわち客となっている者は、実は長者の子である」とあるのは、即法の意義である。③「仏の知見に開示悟入する」、「今、まさに行じるところは、ただ仏の智慧のみである」とあるのは、すなわち仏の智慧である。④「如来の衣を着て如来の座に坐り如来の部屋に入る」などは、すなわち不次第の行である。⑤「五欲を断じないまま、しかも諸根を清める」、「五百由旬を越える」とあるのは、すなわち不断の断の意義である。⑥「五品、六根清浄」「宝の乗り物に乗ってあらゆる所に遊ぶ」とあるのは、すなわち実位である。⑦「仏は自ら大乗に住み、禅定と智慧の力をもって荘厳し、これをもって衆生を悟りに導く」とあるのは、すなわち果不縦である。⑧「合掌して敬う心をもって、すべてが具足している道を聞くことを願う」とあるのは、すなわち釈迦仏が『法華経』を説く前に説いた円詮(円教を表わすこと)である。「諸法実相の義はすでにあなたたちのために説いた」とあるのは、すなわち日月燈明仏が『法華経』の後に説いた円詮である。⑨智積菩薩と龍女との問答は、円教を表わす。⑩「転輪聖王の頭の珠」「この車は高く広い」というのは、みな円教の喩えである。この十種の意義がすべて備わっているので、円教の門は明らかである。

今ここで、融門の四つの相について述べる。「仏の智慧は、微妙第一である」とある通りである。また「私は如来智慧をもって、久遠を観じれば、なお今現在のようである」とある。智慧をもって妙法を知ることは有門である。「すべての法は空であり、常に寂滅の相であり、ついに空に帰す」とあるのは空門である。「あらゆる実在は常に無性であり、仏の種は縁より起る」とあるのは亦空亦有門である。「如ではなく、異ではなく、虚ではなく、実ではない」という二重の否定は、すなわち非空非有門である。

四つの相をもって門を表わし、十種の意義をもって別教と円教を分ける。このために、この『法華経』は円教の四門を明らかにすることを知る。

法華玄義 現代語訳 179

『法華玄義』現代語訳 179

 

Ⅳ.円教について

(注:これ以降、「第二目 概略的に門に入る観法を示す」の最後の四番目の「円教」について述べられるが、この箇所は非常に長い)。

円教における実相に入る門の観法を明らかにするにあたって、第一に、円門を明らかにし、第二に、円観を明らかにする。

 

A.円門を明らかにする

前に述べた蔵教の門は、実在に対する認識を滅して真理に通じる(析空観)。その意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる。通教の体空観は、実在を幻と見て真理に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す。別教の門は、生死の認識を体空観によって滅し、次第に理法的な認識を滅して中道に通じる。これもその意義を得ることができなければ、多くの争いが起こる(注:以上、争いが起るとされる原因は、この三つの教えはみな相対的な次元のものだからである。相対的な次元においては、他との衝突は免れない)。円教の門は、生死の認識をそのまま理法的な認識とする。理法的な認識そのままに、中道に通じ、人に争いが起こりようのない法を示す(注:円教は絶対的次元の教えであるため、衝突するものがもともとない)。このために『法華経』の文には「無上道(むじょうどう)」とある。また「しかし深妙の道を行ず」とあるのは、この意義である。

蔵教と通教は、中道に通じないので論じる必要はない。別教と円教の両種は、共に中道に通じる。その別教と円教の同異を論じれば、概略的に十の項目が立てられる。第一に融・不融、第二に即法・不即法、第三に仏智・非仏智を明らかにし、第四に次第・不次第を明らかにし、第五に断の断惑・不断の断惑を明らかにし、第六に実位・不実位を明らかにし、第七に果縦・果不縦、第八に円詮・不円詮、第九に問答、第十に譬喩である。この十の項目に従って、明らかに別教の四門と円教の四門の合計八門の同異を知る。

第一.融・不融

別教の四門(空門、有門、亦空亦有門、非空非有門)は、その拠り所は固定している。妙有・真善妙色は空門とは関係ない。畢竟空を拠り所とすることは有門に関係しない(注:妙有・真善妙色・畢竟空などは、すべて実相の体の別名である)。それに始まって最後の非空非有門もまた同じである。

この別教の四門は歴別(りゃくべつ・段階的)であり、それぞれの分に通じる。その意義を得ることがなければ、固定的なものとして執着してしまう。実体的な性質に似ているので、ほぼ冥初(みょうしょ・古代インド哲学における根本的原質)が、覚(かく・古代インド哲学における精神原理による観照)を生じるということと混同してしまう可能性がある。

前に述べた三蔵教の四門の内の有門は、外道の誤った見解を破ることを優先している。次の空門などの他の三門は、誤った見解を破る働きは小さい。また通教の巧みな四門は、この三蔵教の劣った教えを破る。また別教の四門は、通教の四門の浅い教えを破る。すでにここでは声聞と縁覚の二乗とは共にしない。どうして外道の冥初や覚を妙有と混同することがあろうか。妙有は如来蔵によって四門を分別するのである。どうしてジャイナ教などの性実(本質的実体)に同じだろうか。周璞(しゅうはく・死んだ鼠のこと)と鄭璞(ていはく・玉の原石のこと)の「璞」の文字は同じであるが、指し示す物は天と地の違いがあるようなものである。

今、『十地経論』を学ぶ人は、正しい道に背いて俗に還り、ひそかにこの意義を用いて老荘思想の中に置いている。金と石が混じって、正しいものと誤ったものを混同させ、盲目のような人はきれいな水と濁った水の区別がつかない。あらゆる四門の意義を得て、詳しく真と偽を選べば、この盗みのようなことは生じない。

しかし、別教は、その拠り所は固定しているといっても、このような論争は諸仏の次元である。声聞と縁覚の二乗は知らない。ましてや外道が同じであろうか。円教の門は虚空に融合しないところがないように微妙であり、拠り所は固定していない。有を説いても無と隔たっていないので、有において無を論じる。無を説いても有と隔たっていないので、無において有を論じる。有と無が不二であり、固定する相はない。仮に有において言葉の発端とする。しかし、あくまでもこの有門はそのままで他の三門である。一つの門が無量の門であり、無量の門が一つの門である。一でなく四でなく、四であり一であり、一であり四であるのは、円教の門の相である。

また次に、さらに誤りを破ることと、すべてを開会することについて、融・不融の相を明らかにする。もし外道の誤った見解を破っても、二乗の誤りを破らず、大乗の方便も破らない。

また、別教において開会が説かれても、それは円教の開会とは異なっていることについては、『維摩経』の中に見られるようなことである。別教においては、凡夫は開会できても、声聞はできない。煩悩一般を開会して如来の種とすることができても、無為を目的とするものは開会できない。生死の悪人や煩悩の悪法もみな開会できても、二乗の善法や四果の聖人は開会することができない。また『般若経』の中に見られるように、二乗の行じる四念処や三十七道品はみな大乗であり、貪欲・無明・見愛はみな大乗であると明らかにして、善悪の法はみな開会できても、また悪人および二乗の者は開会しない。これらが仏になることを述べないのは、これは別教の門に属するからである。

円教における誤った見解を破ることについて述べれば、別教より下の教えは方便である。このために摩訶迦葉は自らを損ねて、「この教えを聞く前の私たちは、みな邪見の人と言わねばなりません」と言っている。しかし、このよう邪見の人と言ってしまえば、円教の正しい道の法ではない。すなわち人と法と共に損ねてしまう。別教の人と法すらこのようである。ましてや二乗の人と法はなおさらである。二乗すらこのようである。ましてや凡夫の人と法はなおさらである。さらにもしそうであるならば、円教においては、すべての誤った見解が際限なく損ねられてしまうことになり、もちろんそのようなことはあり得ない。

円教における開会は、あらゆる凡夫で法に執着する人々を開会する。『法華経』に「あなたたちはみな仏になるであろう。私はあえてあなたたちを軽んじない」とある。五逆の提婆達多もまた授記を受け、龍のような存在もまた授記を受ける。どうして二乗や菩薩が受けないことがあろうか。また「世間の産業もみな実相と異なることはない」とある。すなわちすべての悪法を開会するのである。また「あなたたちの行ずるところは、菩薩の道である」とある。蔵教の二乗ですら開会させられる。どうして通教や別教がそうでないことがあろうか。「あなたたちは私の子、私は父である」とある。このように人も法も開会させられないことはなく、みな共に円融する妙である。これがすなわち円教の門に属することである。

また次に、さらに経文の前後について、融・不融の相を明らかにする。先に不融の門を明らかにするものは、十地より下の位の三十心(十住・十行・十廻向)の教えであり、後に不融の門を明らかにして、融の悟りを説くものは、十地以上の位の教えである。あるいは先に融の悟りを明らかにして、十地以上の位の教えを説き、後に不融の門を明らかにするものは十地より下の位を説く教えである。これらはみな別教の門に属する。

先に融の門を明らかにして、悟りも融であるものは、十信より上の十住以上の教えであり、後に悟りの不融を明らかにするものは十住より下の位の教えである。あるいは先に不融の悟りを明らかにして十住より下の位の教えを説き、後に融の悟りを明らかにするものは、十信より上の十住以上の位の教えである。これらはみな円教の門に属する。

(注:「別教」の「位」においては、「十地」以上は「円教」の「十住」と同じとなる。つまり、「融」の門は、「別教」においては「十地」以上、「円教」においては「十住」以上に属するということである)。

第二.即法・不即法

もし有を説いて門とすれば、この有は生死の有とは別ものである。生死とは関係のない真善妙有を説くのである。空の門は、二乗の真諦とは関係のない畢竟空を説くのである。四番目の非有非無門もまた同じである。これは別教の四門の相である。

円教においては、もし有を門とすれば、生死の有そのまま実相の有である。すべての法は有に赴く。有はそのまま法界である。法界とは関係なく、さらに法について論じることはない。生死即涅槃であり、涅槃即生死であり、二つではなく別ではない。有をあげて門の発端とするだけである。真実においてはすべての法を備え、円融無礙である。これを有門とする。他の三門もまた同じである。これは生死の法そのままに、円教の四門とすることである。

また次に、法について遍・不遍があって、円教と別教の相を判断することは前に説いた通りである。五住地惑についても遍・不遍がある。

また次に、即法、不即法、あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

第三.仏智・非仏智

有を門として、一切智が空の法に了達し分別し、道種智が大河の砂の数ほどの仏法の差別不同を照らし分別することは、菩薩の智慧であり、別教の四門の相である。

有を門として、一切種智が五眼を備え、円満に法界を照らし分別し、正しく遍く知ることは、諸仏の智慧であり、これは円教の四門の相である。

また次に、別教の門に円教の智慧を説き、円教の門に別教の智慧を説く。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

また次に、別教の門に円教の智慧を証し、円教の門に別教の智慧を証する。あるいは経文の前後について、円教と別教の相を判断することも前に説いた通りである。

法華玄義 現代語訳 178

『法華玄義』現代語訳 178

 

Ⅱ.通教について

次に通教の有門の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義(=十乗観法①~⑩)がある。以下、簡単にそれを列挙する。

すべての実在はみな幻が作り出した幻化であると体得し理解する(①観境)。声聞と縁覚と菩薩の三人の発心(②起慈悲心)が同じとしても、また細かな違いがある。『中論』の師が「この中は大乗の菩薩である」と言っている。しかし今、それは間違いであると言う。『般若経』には「声聞、縁覚を得ようとすれば、まさに般若を学ぶべきである」とある。『大智度論』に「声聞および縁覚の解脱と涅槃の道は、みな般若より出る」とある。経論には「これは大乗である」とはいわない。この師は誤っている。

禅定と智慧は不可得であると知るといっても、心を禅定と智慧の二法に安んじるべきである(③巧安止観)。幻化の智慧をもって、遍く四見(有見、無見、亦有亦無見、非有非無見)、六十二見およびすべての実在に対する誤った見解を破る(④破法徧)。幻化の中の苦諦・集諦を知ることを塞と名付け、幻化の中の道諦・滅諦を知ることを通と名付ける(⑤識通塞)。不可得の心をもって、三十七道品を修す(⑥修道品)。治すべき対象は本来ないが、それを以って、あらゆる対治を学び(⑦対治助開)、乾慧地(けんねじ)からはじまって仏地を知る(⑧識次位)。幻化の智慧は、外道の魔や内なる妨げによって影響は受けない(⑨能安忍)。あらゆる実在は不生であって、しかも般若は生じ、また執着はなく、すなわち真理に入ることを得る。また智慧の徳と煩悩を断じる徳は無生法忍(むしょうほうにん・すべては生じることはないという悟り)である(⑩無法愛)。

前の蔵教に比べれば、みな巧みである。これ以上は前に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。他の三門(注:空門・亦空亦有門・非空非有門のこと)の十種の意義も、大同小異である。その意義は知るべきである。また煩わしく文を記さない。

 

Ⅲ.別教について

次に別教の有門の観法を明らかにするに際して、並べて記せば十の意義(=十乗観法)がある。

第一.観境

凡夫の四見・四門の外に超出して観じる。またこれは声聞と縁覚の二乗の四門の法ではない。また通教の法でもない。あらゆる四門の法を境とし、それらを実相とは名づけない。生死・涅槃ではない如来蔵は、すなわち妙有と名付け、そこに真実の法がある。このような妙有は、すべての法のために拠り所となる。この妙有からあらゆる実在が生じる。これが別教の観法の対象の境である。

第二.起慈悲心

菩薩は深く実相の妙有を観じて、生死の流れに乗ることはない。『涅槃経』に記されている喩えのように、金は貧しい女の家の雑草に埋もれたままになり、額に珠がある力士は、それに気づかず、格闘する中で体内に埋没してしまい、そのような者たちは貧しく家もなく、哀れむべき存在である。菩薩はそのような人々のため、大慈悲・四弘誓願を起こす。『思益経』に三十二の大悲について記されている。『華厳経』には、「一人、一国、一界、微塵の人のためにするのではなく、法界の衆生のために、菩提心を起こす」とある。このような発心は、大いに力がって獅子吼のようである。

第三.巧安止観

発心し終われば、心を安んじ修行に進む。前に説いたあらゆる禅定と智慧の通りである。このような時にはこのような行をすべきである。このような時にはこのような智慧を修すべきである。禅定から生じる正しい愛と、智慧から生じる鞭をもって、心を安んじ道を修す。この禅定と智慧を拠り所として、他を拠り所としない。これこそ、安心の法とする。

第四.破法徧

妙有の智慧をもって、遍く生死のすべての見、六十二見などを破る。裕福をもたらす功徳天と老死をもたらす黒闇天は対となっているので、どちらも受けない。遍く涅槃を虚無とすることや小乗の悟りを破る。たとえば、大樹が毒を持った木から飛んできた鳥を宿さなかったようなものである。

第五.識通塞

一つ一つの法の中において、あきらかに通と塞を知る。雪山の中に毒草もあり薬草もあるようなものである。菩薩は必ず知るべきである。このような心が起こるのは、すなわち六道の苦諦と集諦である。これを塞と名付ける。このような心が起こるのは、すなわち二乗の道諦と滅諦である。これを通と名付ける。またこのような心の起こるのは、二乗の苦諦と集諦である。これを塞と名付ける。このような心が起こるのは、菩薩の道諦と滅諦である。これを通と名付ける。このような心の起こることを、菩薩の苦諦と集諦とし、このような心が起こることを、仏の道諦と滅諦と名付ける。苦諦と集諦の中において、よく非道を知って、仏道に通達する。よく仏道を知って、塞がりを起こす。このように明らかに知って滞りがない。これを通と塞を知るとする。

第六.修道品

三十七道品は、菩薩の修すところの宝炬陀羅尼(ほうこだらに・『大集経』で説かれる菩薩の陀羅尼)である。顛倒を破る四念処・四正勤・四如意・五善根が生じ、五力をもって五悪を排除し、七覚分によって禅定と智慧が適切に調えられ、八正道によって、安らかで平穏の中に修す。十相(色相、声相、香相、味相、触相、生相、住相、滅相、男相、女相)を離れるために空三昧と名付け、また空相を見ないことを無相三昧と名付け、願い求めを起こさないために無作三昧と名付ける。これは修行の道の法であって涅槃に近づく門である。

第七.対治助開

諸法の対治の門を修すことは、いわゆる常無常・恒非恒・安非安・為無為・断不断・涅槃非涅槃・増上非増上である。常に願って対治門を観察して、実相を助け開くのである。

第八.識次位

初めの十信から十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚などの位がある。聖なる位の深い浅いは、すべて知って誤ることはない。そのため、みだりに上の位を究めたのだとも決めつけない。

第九.能安忍

内に善悪の二つの感覚、自分に逆らう賊と従う賊とを忍び、外界から来る八風(はっぷう・利、哀、毀(悪く言われること)、誉、称、譏(謗りや責め)、苦、楽)を忍ぶ。忍の力を用いるために、動揺させられない。

第十.無法愛

たとえ悟りに相似する法を悟っても、その法に対する愛着が起こらなければ、菩薩の頂からは堕落しない。生を法愛と名付ける。この愛がないために、菩薩の位に入る。無明の悪い雑草を破り、妙有の金の蔵を見いだし、仏性を見ることができ、実相に入る。これを有門に入る観法を修すとする。あらゆる門の方便は、それぞれ同じではないといっても、共に円満な真理に会い、理法に二つの差別はない。他の三門の観法は、有門に準じて知るべきである。また詳しくは記さない。

法華玄義 現代語訳 177

『法華玄義』現代語訳 177

 

第四.破法徧

有を見て道を得ることを成就することは、心を禅定と智慧に安住させることである。五停心の後、共念処(ぐうねんじょ・戒律と禅定の中において智慧を明らかにすること)を修す時は、不浄観などを帯びて、遍くあらゆる実在に対する認識を破れば、事象と理法の観法を共に成就する。五停心の後、単に性念処(しょうねんじょ・単に智慧のみを明らかにすること)を修す時は、一向に理法の観法である。無常の智慧をもって、遍くあらゆる誤った見解を破る場合、この観法は『中論』の下巻の二つの章で明らかにされている通りである。仏は最初、教えを説いた時、他の教えは説かず、ただ無常を明らかにして、遍くすべての外道の有あるいは無、そして非有非無・神および世間・無常などの六十二見(外道の邪見を六十二通りに分類したもの)を破って、清浄に至ることを得させた。

今、『阿毘曇論』の師は、他の師に破られて、「無常は小乗であり、常は大乗である。常は無常を破ることはできても、無常は常を破ることはできない」と言っている。もしここまで見た意義からすれば、それはそうではない。まだ道を得ていない執着の心が作り出す常・無常・亦常亦無常・非常非無常などの法に対する境が、意根に対してあらゆる誤った見解を生じさせる。誤った見解は縁から生じる。縁から生じるものは、すべて無常である。どうして外道に常楽我浄があるだろうか。このような無常・苦・無我・不浄であるものを常・楽・我・浄とする四倒は、すべて無常を用いて破るのである。このために、五百人の比丘は提婆達多に「ただ無常を修するなら、道を得ることができ、神通力を得ることができる」と語った。六人の悪比丘のような者は、他の人に教えを説く場合、もっぱら無常を説く。まさに知るべきである。誤った見解に深い浅いの違いはなく、すべて無常によって破られる。古い医者が、どんな病にも盲目的に乳薬を使用するのとは異なっているのである。

第五.識通塞

前に遍くあらゆる誤った見解を破ると述べたが、まだこの徳を見ない。誤りはすなわち塞であり、徳はすなわち通である。もし有見の八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする教え)から始まって、非有非無不可説の見の八十八使は、すべて縁から生じる。これを塞と名付ける。塞であるから必ず破るべきである。またこの通を知るということは、いわゆる有見の中の道諦と滅諦から始まって、非有非無不可説の道諦と滅諦である。このような道諦と滅諦は因縁から生じる。これを通と名付ける。通はどうして破る必要があろうか。

もしあらゆる誤った見解を知らなければ、これは真実であれは偽りだという。誤った見解に執着すれば、業が生じ、愛による働きにより果を感得する。どうしてこれが塞でないことがあろうか。あらゆる誤った見解の一つ一つがみな無常の顛倒だと知れば、誤った執着を生じることはない。執着しなければ業はなく、業がなければ果はない。このように達すれば、道諦と滅諦がある。これをどうして通と名付けないことがあろうか。虫が木を食べて、たまたま文字のような模様を作ったとしても、虫はそれを文字だとは知らないようなものが外道であるが、それとは異なっているのである。

第六.道品調適

どうして通と塞を知るだけで良いのか。まさに三十七道品(ここでは、四念処、四正勤、四如意、五根、五力、七覚分、八正道を立てる)を修して、あらゆる法門に進むべきである。この有見から始まって、非有非無不可説の見を観じれば、みな(五蘊の)色によることを知る。それは汚れていて不浄であるので、すなわち身念処である。有の(五蘊の)受を受けることから始まって、不可説の受を受けるようなことは、みな三受(さんじゅ・苦受、楽受、不苦不楽受の三つ)による。受は苦であるので、受念処と名付ける。あらゆる誤った見解が起こす(五蘊の)想・行を観じれば、すべて無我であるということを法念処と名付ける。あらゆる誤った見解の心(=五蘊の識)を観じれば、一念一念が無常であることを心念処と名付ける(注:「四念処」はすなわち身念処、受念処、法念処、心念処の四つとなる)。

この四つの観法を観じることを、有為法の中に正憶念を得ると名付ける。この念を得るために四倒が抑えられる。これを念処と名付ける。この四つの観法を勤めて修すことを四正勤(ししょうごん・四正断ともいう。断断、律儀断、随護断、修断の四つ)と名付ける。禅定の心の中に修すことを四如意(しにょい・四神通ともいう。欲、念、精進、思惟の四つ)と名付ける。五善根(ごぜんこん・信、精進、念、定、慧の五つ)が生じるので五根と名付ける。五根が増長して、あらゆる悪法を遮断するので、五力と名付ける。禅定と智慧が和合することを七覚分(しちかくぶん・七覚支ともいう。択法、精進、喜、除、捨、定、念の七つ)と名付ける。安らかで平穏の中に修すことを八正道と名付ける。

これは位についての三十七道品ではない。ただここでは、共通の修行項目として三十七を論じるのみである。もし五停心の一つに三十七品を設ければ、他の五停心もまたそのようになる。『阿毘曇論』の道諦の中に詳しく記されている通りである。

この三十七道品は、修行の法である。まさに涅槃の城に至ろうとするならば、三解脱門(空解脱門(くうげだつもん・すべては実体がないと見ること)、無作解脱門(むさげだつもん・再びこの世に生まれ変わる業をなくすこと)、無相解脱門(むそうげだつもん・自分を中心とした相対的存在はすべて存在しないと見ること)の三つの門)がある。いわゆる空と無我は空解脱門である。苦諦に続く集諦・道諦に、それぞれ因・集・生・縁と道・如・行・出の四つずつあることは無作解脱門である。滅諦に滅、静、妙、離の四つがあることは無相解脱門である。

第七.対治助聞

能力の高い人はすぐに修行に入る。もし入ることができなければ、まさに助道を修すべきである。このために『大智度論』に「十二禅(四禅、四無量心、四空定)などは、すべてこれは修行の門を開く補助の法である。正しい智慧が弱ければ、煩悩の妨げが起こることがある。助道を修して補助とする」とある。また「貪欲がおこれば、不浄観、八背捨などを修することを教える。観法の対象の中で自在でなければ、八勝処を教えるべきである。対象の中で広く普遍でなければ、十一切処を教えるべきである。もし福徳が少なければ、四無量心を教えるべきである。もし色界を出ることを願うならば、無色界の四空定を教えるべきである」とある。これらは助道であり、修行の門を開く補助の法である。外道が根本禅において、かえって愛・見・慢を起こすこととは異なっている。

第八.識次位

このような正しい助道の法を修しても、私は聖人だと言うことはできない。真実と相似を混同することは、賢人と聖人の区別を知らないことである。ここで明らかに真実と相似の段階の違いを知り、自ら聖人ではないとしれば、高ぶった慢心は生じることはない。外道が誤った戒律を持つことや、あやまった見解を持って、生死の法を涅槃としてしまうこととは異なっているのである。

第九.能安忍

別相念処(べっそうねんじょ・「五停心」に次ぐ「七賢位」の二番目。身体(身念処)、感覚(受念処)、心(心念処)、すべての実在(法念処)を別々に観じ、身体は不浄であり、感覚は苦であり、心は無常であり、あらゆる存在は中心的実体がないと観じること)を修す力が弱く、未だ通じて安泰になることができない。その場合、進んで総相念処(そうそうねんじょ・「七賢位」の三番目。身体、感覚、心、すべての実在の四つを総合的に観じること)を修す。あるいは身念処と受念処、あるいは身念処と受念処と心念処、あるいは身念処と受念処と心念処と法念処のすべてを修す。その時、まさに安らかに忍び、諦を観じて成就させ、進んで煗法(なんぽう・「七賢位」の四番目。煩悩を断ち切る働きが次第に生じて来た段階)に入り、相似の道の煗(暖かいという意味)が生じる。『涅槃経』に「煗は有漏、有為であるといっても、かえってよく有漏、有為を破壊する。仏の弟子にはあり、外道にはない」とある。

またよく安らかに忍ぶならば、頂法(ちょうぼう・「頂法(ちょうぼう・「七賢位」の五番目。心の視界が開け、山の頂上から見渡すかのような境地になること)を成就する。頂法が忍法(にんほう・「七賢位」の六番目。修行を忍び悟りの楽を求める境地)を成就し、世第一法(せだいいちほう・「七賢位」の七番目。蔵教の悟りの直前の境地)の側まで至る。もし忍法が成就しなければ、頂法に戻る。このために「頂法から退いて五逆(母を殺すこと、父を殺すこと、聖者を殺すこと、仏の身体を傷つけること、仏教教団を分裂させること。無間地獄に堕ちるという)となり、煗法が退いて一闡提(仏となれない者)となる」という。このために、この中でよくすべての内外のあらゆる妨げを安忍すべきである。外道が、細かな心の動きさえ安忍することができないこととは異なっている。

第十.無法愛

ここまでの煗法・頂法・忍法・世第一法の四善根を生じさせることはできたが、もし法に対して執着の愛を起こしてしまえば、退いて五逆・一闡提とはならないまでも、見諦(けんたい・「四善根」の次の段階で、この段階から聖人と呼ばれる)に入ることはできない。(注:これ以降の記述は、すでに見た「智妙」の最初の段落である「総合的に諸智を解釈する」の中の、第三「相」の三番目の「四善根の智」において詳しく述べられている内容を、省略して用語だけを並べて述べた箇所となる)。見諦に入るということは、すなわち、集諦・滅諦・道諦を次第に除いていって苦諦だけを残し、進んで忍法の最終段階である上忍から世第一法を成就する。苦忍の真明を発して、十六刹那において初果を成就することができる。あるいは、果を超越する超果を成就し、あるいは段階的に観法を用いて、五下分結・五上分結を断じて、無学を成就することができるのである。

もし能力の高い人が観法を用いれば、その段階のあらゆるところに入ることができる。能力の劣っている人が観法を用いれば、以上述べた十種の観法を段階的に修す。『阿毘曇論』の中に詳しく解釈されていると言っても、この十種を出ることはない。

五百人の阿羅漢は、『毘婆沙論』を作って、正しく有門で道を得ることを述べている。どうしてこれが心を整える方便だと言うのだろうか。四門が適度に調えば、まさによく道を得る。もし執着を生じれば、道を得ることはできない。もしただ有だけを見て道を得て、空を見て道を得ないといえば、どうして外道の人と異なるのだろうか。このために『大智度論』に「もし般若の方便を得なければ、有と無に堕ちる」とある。ここでは十種の法をもって方便とし、ただちに真実の門に入る。これも外道と異なる。これを有門から真理に入る門の観法という。

他の空門・亦空亦有門・非空非有門の真理に入る観法の始終の方便は、有門に比べるとそれぞれ同じではない。しかし、共に偏真に合い、三界の惑を断じることは違いがない。この三門は、有門を基準にすれば、やはり十種はるはずである。大同小異である。意義は知るべきである。ここで煩わしく記すことはしない。

法華玄義 現代語訳 176

『法華玄義』現代語訳 176

 

第二項 門に入る観法を示す

門に入る観法について述べるにあたって、二つの項目を立てる。まず概略的に門が通じる場所を示し、次に概略的に門に入る観法を示す。

 

第一目 概略的に門が通じる場所を示す

通じるところの教えの門は、四教にそれぞれ四門があって、合計十六あるとしても、通じる対象である理法はただ偏真(偏った真理)と円真(円満な真理)の二つのみである。前の八門はみな偏真に入り、後の八門はみな円真に入る。それはどうしてであろうか。偏真といっても理法は一つであって、その門が八つあるとしなければならないのではないか。三蔵教の四門は、迂回しており曲がりくねっているので、拙度(せつど)とする。通教の四門は、大乗の教えであって、広く真っすぐな巧度(ぎょうど)である。このように、門に拙と巧の異なりがあるので、通じる門を八門としても、真理は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、州都の城の四面に門があるようなものである。四面の偏門は三蔵教を喩え、四面の直門は通教を喩える。偏と直は異なっているので、通じる門は八つあっても、主君からの勅使は一つなので、門が通じる場所は二つあるわけではない。

別教の四門は偏真であり、円融していない。円教の四門は円真であり、円融している。偏と円は異なっているので、通じる門を八門として、円真は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、皇帝の住む城の四面に門があるようなものである。四面の偏門は別教を喩え、四面の直門は円教を喩える。偏と直は異なっているので、通じる門は八つあっても、皇帝は一人なので、門が通じる場所は一つである。

問う:小乗は一種類の四門であり、大乗はどうして三種類の四門なのか。

答える:小乗は浅く深遠ではないので、一つの生の間だけの煩悩を断じるのである。たとえば、小さな家のようなものである。大乗は深遠なので、通じる対象は長い間のこととなる。たとえば、大きな家には多くの家族や人がいるようなものである。通教・別教・円教の四門も多すぎるということではない。

問う:大乗の門によって、なぜ声聞と縁覚と菩薩が真理を見ることができるのだろうか。

答える:この門は、中心は大乗に通じ、補助的に小乗に通じる。たとえば、王国に通門と別門があるようなものである。別門は朝廷の使節を通し、通門は朝の市場のために通す。庶民が通るからといって、民門とすることはできない。大乗の通門もまた同じである。真っすぐに実相に通じ、補助的に真諦に通じる。このために、三乗の人の灰身滅智は、この門が兼ねる。兼ねて偏真に通じるために、小乗の門とすることはできない。

 

第二目 概略的に門に入る観法を示す

(注:これ以降、蔵教・通教・別教・円教の四教それぞれの観法について述べられる。これは天台教学においても修行項目として重要なことなので、以前に説かれたことを再編成しながら、非常に長い紙面を費やして説かれている。特に蔵教と円教の記述は長い)。

 

Ⅰ.蔵教について

まず三蔵教の有門の観法を明らかにする。この有門の中に、信行と法行が備わっている。信行は教えを聞いて即座に悟れば、この心は能力が高いことになる。真理を得る方法は、人に示すことは困難である。

しばらく法行の観法の門について述べるにあたって、十種の意義(=十乗観法)を立てる。第一に観境、第二に真正発菩提心、第三に善巧安心止観、第四に破法徧、第五に識通塞、第六に道品調適、第七に対治助聞、第八に識次位、第九に能安忍、第十に無法愛である。『阿毘曇論』の中に、この十種について述べられているが、その文はまとまっていない。論師は道を行じることは知っていても、何によって修すべきかを知らない。岐路に迷って、従うところがわからないようなものである。ここで、その意義の要点を取って、最初から最後まで通じて明らかにすれば、有門に入る道の観法を知ることができる。

第一.観境

第一は、観法の対象となる境を明らかにする。すなわちこれは、正因縁である十二因縁に説かれるように、無明の因縁によって、すべての実在が生じることを知ることである。ある教えでは、世間の苦楽の在り方は、ヴィシュヌ神から生じるといい、またある教えでは世性というものから生じ、また微塵より生じるなどというが、これらはすべて邪因縁の生である。もし自然法爾であり、誰かが作ったということでもない、といえば、これは無因縁の生である。無因縁の生は、因を破るだけで果を破ることはできない。邪因縁は、正しい因縁そのものを破る。これらは正因縁の境ではないので観じるべきではない。『阿毘曇論』は極微(ごくみ・存在の最も小さい単位とされるもの)を述べ、『成実論』は極微を破る。これは無因縁と邪因縁が混じり合ったものであり、正因縁の境とは言えない。

なぜならば、極微の有無は、未だに有と無の両極の見解を免れていないので、なお無明の顛倒である。無明の顛倒であるために、すでに集諦であり、集諦であるために、麁や細などの認識の対象を生じる。無明の顛倒はすでに不実であるので、感じるところの苦諦の果報はどうして有や無であると定めることができようか。このために『大智度論』に「認識の対象が麁あるいは細など、すべてこれを観じれば、無常であり無我である。無我であるので主体はない。麁、細、因、縁、苦、集、依、正など、みな無常であり主体はなく、すべて無明の顛倒が作るところである」とある。『阿毘曇論』の教えが詳しく説く通りである。これを正因縁の観じる対象の境を知ると名付ける。外道の邪因縁や無因縁とは同じではないのである。

第二.真正発菩提心

すでに無明の顛倒が流転し、十二因縁における行・識、そして最後の老死までの展開は、松明の火を回す時に見える輪のようなものであることを知る。このような業の結果から脱したいと願い、正しく涅槃を求める。声聞と縁覚の二乗の心を発して、見・愛を出離し、名利を求めず、ただあらゆる有を破り、苦諦・集諦を増長させない。ただ無余涅槃を求めるのみである。その心は清浄であり、雑ではなく誤りもない。この心を真正発菩提心と名付ける。外道や天魔と同じではない。

第三.善巧安心止観

修行者は、すでに有を出ることを誓い求め、戒律によって道を修す。しかし罪の障りは盛んであり、心は安らかではない。道にあってどのように克服すればよいであろうか。このために四念処を修すために、五停心(ごていしん・禅定に入る前の心を落ち着かせる段階の観法。不浄観・慈悲観・数息観・因縁観・念仏観の五つ)を学び、貪欲・瞋恚・散乱心・愚痴・煩悩の五種の障りを破る。五停心の事象に対する観法は、すなわち禅定である。禅定は四念処を生じるので、すなわち智慧である。智慧と禅定が等しく留まるために、安心と名付ける。

また、禅定と智慧とがほどよく整うので、停心と名付ける。禅定と智慧がなく、また禅定だけ、あるいは智慧だけ、または整っていない禅定と智慧では、賢人とは名づけられない。世間の賢人が智と徳を備えている場合、智は成熟していないところがなく、徳は美しい行ないに欠けたところがない。許由(きょゆう)や巣父(そふ)は賢人とすべきである。もし智ばかりが多く徳が少なければ狂人であり、徳が多く智が少なければ痴人である。狂人と痴人は賢人ではない。賢人は賢能によって名付けられ、賢善によって名付けられる。善であるために徳があり、能力があるために智がある。智と徳が備わっているために賢人である。修行者も同じである。四念処の智慧を修し、五停心の禅定を学んで、禅定と智慧が備わるのである。

数息観はどのように禅定と智慧が備わり、あらゆる心の拡散を制御するのであろうか。一から十に至って、息とその数を知り、それらが無常生滅して、念念に留まることはない。また、不浄観を修するなら、まさに深く汚れの悪を厭うべきである。観じる主体と観じる対象は無常生滅して、早々に滅んで虚妄であり、あらゆる衆生をだます。観法を嫌い瞋恚を起こすならば、そのような場合には慈悲観を修すべきである。他の者が楽を得ることを見れば、禅定も楽の相も無常生滅することを知る。因縁観の時は、胎生・卵生・湿生・化生の四生はすべて因縁によって生じた在り方であると観じ、三界もまた因縁によって生じた在り方であると観じる。因縁により生じるものは、すべて無常・無我である。あらゆる障りが起こるならば、まさに念仏観を修すべきことは、また上に説いたことと同じである。

これを五停心を備えて禅定と智慧を修すことと名付ける。禅定があるために狂人ではなく、智慧があるために愚かではない。これによって安心することをあらゆる修行の基礎とする。煗法と頂法を発して、苦・忍の真実の智慧に入り、聖人の前段階を賢人とする。この意義はここにある。外道は乳から酪を得ることを知らないどころか、酢の生成も知らない。ましてや酪や蘇などについてはなおさらである。