大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  28

『法華玄義』現代語訳  28

 

第六項 説黙(せつもく)

四悉檀を解釈するにあたっての十種類の項目の第六は、説黙である。「説」は人々に教えを説くことであり、「黙」は言葉によらず人々に真理を示すことである。このことについて、『思益梵天所問経(しやくぼんてんしょもんぎょう)』に「仏は多くの修行僧に語った。『あなたたちはふたつのことによって修行すべきである。ひとつは聖説法(しょうせっぽう)、もうひとつは聖黙然(しょうもくねん)である』」とある。この「聖説法」とは、ここまで述べて来た言葉に表現された説法のことである。「聖黙然」とは、たとえば先に述べた四種の四諦は、これは声聞と縁覚と菩薩の三乗の聖人のための教えである。俗人が聞いても理解できないので、説かないのである。もし説いても、盲人のために燭台を設けるようなものである。そのようなことをしても盲人のためにはならない。このようなことで、説くことができないので、説かないということを聖黙然というのである。

華厳経』に、この世のすべての実在の数は数えきれない、ということを表わす「不可説不可説」という数が記されているが、これは、究極的な真理はとても言葉で表現できないということに通じる。

(注:『華厳経』に記されている「不可説不可説」は、あくまでも恒河沙(ごうがしゃ・ガンジス川の砂の数を表わす単位)などと同じく、数えきれないほどの大きな数を表わす単位である。しかし、ここでは不可説ということをそのまま「究極的真理つまり諸法実相は説くことができない」という意味に通じさせている。数字の単位としての不可説と、説くことができないという意味としての不可説を混乱させないようにしなければならない)。

また四つの四諦の中の無量の四諦と無作の四諦の不生生・不生不生の法(注:このことについては後に詳しく述べられる)も言葉に表現できないことであるので不可説であり、したがってそれは聖黙然と名付けられる。

また、三蔵教において、釈迦の一番弟子である阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ)が最初に真実の智慧を得たが、それは言葉で表現できないとあり、同じく釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)が、悟りである解脱(げだつ)の中には言葉はないと仏から聞いたと述べていることは、四つの四諦の生滅の四諦において、生滅を繰り返す在り方(=生生の法)について、不可説を明らかにしていることである。不可説ならば、聖黙然である。

また『維摩経』には、究極的悟りの境地を表わすために、言葉は発せられなかったということと、『大集経』に無言菩薩が「人間の知恵をもって知ることはできず、知識をもって知ることはできない。言葉の道は絶え、心の働きも終わった。不生不滅にして、真理は火の消えた涅槃のようである」と述べているが、これは四諦の不可説を集約したものであり、不可説ならば聖黙然である。

また『般若経』には、「空の真理は言葉で得ることはできない。それは、身をもって得ることはできず、心をもって得ることはできず、口をもって得ることはできない」とある。これは、無生の四諦・無量の四諦・無作の四諦の教えによって、得るということのない真理の不可得を明らかにしているのであり、不可得ならば不可説であり聖黙然である。

また『法華経』には、「やめよやめよ、説くべきではない。私の教えは不思議にして思いを超越している。この教えは示すべきではない。言葉の形式を超越している。言葉をもって説くべきではない。思慮分別の届くところではない」とあり、これは、無作の四諦の教えによって不可説を明らかにしているのであり、不可説であれば聖黙然である。

問う:他の人の求めに応じて聖なる説法の聖説法がある。しかし、他の求めでもなく、自らの意志で説くことのない聖黙然は、他の人を導くことはあるのか。

答える:聖黙然の第一の目的は自らの悟りの境地に立つことであるが、それによって自然と他の人々も導くのである。もし、文章を嫌い、言葉を好まない人がいれば、この人のために聖黙然を用いるのである。また戒律を記した律に、人に福を与えるために、供養を受けても仏は黙っていたとあり、馬鳴(めみょう・インドの仏典解釈家)が、脇比丘(きょうびく)という僧侶のも黙然によって論破された、ということもこれである。仏が結跏趺坐(けっかふざ・足を組んで座ること)して瞑想に入り、身も心も動かず、多くの人々を仏の道に導くために黙然するのである。これらはみな四悉檀によって黙然を起こし、すべての人を導くのであるから、黙然が無益であるはずがない。

問う:『大智度論』に、「四悉檀に八万四千あるという多くの教えを含む」とあるが、それは具体的にはどのようなものであるか。

答える:『賢劫経』に「仏が最初に出家しようと思った時から、死んで火葬されるまで、およそ三百五十の教えの種類がある。そのひとつひとつの教えに六波羅蜜(ろくはらみつ・大乗仏教の修行の六つの方法)があるので、合わせて二千百となる。そして、それによって四つの煩悩(真理に無知である我痴(がち)、実体としての我があるとする我見(がけん)、我を中心として高ぶる我慢(がまん)、我に執着する我愛(があい)の四つを指すか)を破るので、合わせて八千四百となる。そしてそれに、すべての実在を形成する四大である地水火風と、煩悩を起こすもととなる眼耳鼻舌身意の六つを加えた十があるので、八万四千となる」とある。このように、八万四千という教えの数をあげるのは、世界悉檀に含まれる。また、迷いの入り口としての八万四千の門をあげれば各各為人悉檀に含まれるのであり、八万四千の三昧(さんまい・精神統一のこと)や八万四千の陀羅尼門(だらにもん・陀羅尼は真理をそのまま表現したとする翻訳されることのない言葉)といっても同様である。八万四千の対治、八万四千の空門というならば、対治悉檀に属するのであり、八万四千の諸波羅蜜(「波羅蜜」は最上の智慧という意味)、八万四千の度無極(どむごく・「波羅蜜」と同じ意味)というならば、第一義悉檀に属するのである。

また一説には、仏の次元に三百五十の教えの門があり、一つ一つの門に十種類の戒律(=十善・じゅうぜん)があり、合わせて三千五百となるという。そこに四つの煩悩を破ることを合わせれば、一万四千となり、そこに眼耳鼻舌身意の六つに対処すれば八万四千となる。

(注:『法華玄義』において、このように掛け算によって非常に大きな数字を示す箇所が多いが、これは、教えについてならば、仏の教えの豊かさを表わす表現方法であるので、その数字自体にあまりとらわれる必要はない)。