大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  27

『法華玄義』現代語訳  27

 

第三目 三蔵教に属する十二部経について

また、四教の中にそれぞれ十二部経(すべての経典を十二種類に分類したもの)」があり、それらは四悉檀によって分別できる。

まずは、三蔵教に属する十二部経(下記①~⑫)についてである。

(注:ここから十二部経について記されているが、この箇所は、日本の道元の『正法眼蔵』の中で十二部経を説明する箇所でそのまま書き写されている。このように、『法華玄義』は、後世の仏教の諸宗派の中で教科書のように用いられていたことがわかる)。

①もし十因縁によって生きるようになった人々が、十二因縁によって成り立っているこの世について知りたいと願うならば(注:すなわちこれが三蔵教を願うこと)、如来はただちに陰界入(おんかいにゅう・五陰、十八界、十二入(注:これらの説明は前述の通り)の三つを省略した名称)である人の認識によって、仮に存在するとされた世界における教えを説く。これを修多羅(しゅたら・経典を意味する古代インド語のsūtraの音写語)と名付ける。

②四・五・六・七・八・九などの韻文をもって、繰り返し陰界入の事象を誦す。これを祇夜(ぎや・古代インド語のgeyaの音写語。歌われるものという意味)と名付ける。

衆生の未来のことを記し、あるいは鳩への成仏の予言などを記す。これを和伽羅那(わからな・古代インド語のvyākaraņaの音写語。未来の予言という意味)と名付ける。

④孤起偈(こきげ・詩偈という意味。「祇夜」が散文形式であるのに対し、詩偈の形である)をもって、この世の陰界入などについて説く。これを伽陀(かだ・古代インド語のgāthāの音写語)と名付ける。

⑤問わず語りで仏自らがこの世の事象について語る。これを優陀那(うだな・古代インド語のudānaの音写語。「無問自説」ともいう)と名付ける。

⑥この世の不善のことに対応して禁戒(ごんかい)を記す。これを尼陀那(にだな・古代インド語の「因縁」「縁起」という意味のnidānaの音写語。仏が経典や戒律を語る由来を明らかにしたもの)と名付ける。

⑦譬喩をもってこの世の真理を説く。これを阿波陀那(あばだな・古代インド語のavadānaの音写語。譬喩は単なるたとえ話ではなく、古代インドにおいて重要な論法の一つに数えられる)。

⑧過去の世のことを記す。これを伊帝目多伽(いていもくたか・古代インド語のitivŗttakaの音写語。次にあげる仏の過去世の物語以外の過去世の物語)と名付ける。

⑨仏の過去世の物語。これを闍陀伽(じゃだか・古代インド語のjātakaの音写語。「本生譚(ほんじょうたん)」とも漢訳され、日本では「ジャータカ物語」とも言われる。法隆寺の玉虫厨子に描かれている、虎の子に身を投げる釈迦の物語もこのひとつである)。

⑩広くこの世の事象について説く。これを毘仏略(びぶりゃく・古代インド語のvaipulyaの音写語)と名付ける。

⑪仏の功徳や仏自身の不思議な事象について説く。これを阿浮陀達磨(あぶだだるま・古代インド語のadbhutadharmaの音写語。未曾有(みぞう)とも訳され、とても不思議なことを意味する日本語のひとつともなっている)と名付ける。

⑫この世の事象について論議する。これを優婆提舎(うばだいしゃ・古代インド語のupadeśaの音写語。広く「論」という意味で使われる言葉)と名付ける。

これらは世界悉檀に属し、この世の次元において語ることによって人々を喜ばすために、この十二部経が説き起こされたのである。この十二の項目によって、人々を修行に進ませ、迷いの悪を破り、悟らせるためである。これを世界悉檀によって三蔵教に属する十二部経を説き起こすと名付ける。

 

第四目 通教に属する十二部経について

もし十因縁によって生きるようになった人々が、空の教えを聞きたいと願うならば(注:すなわちこれが通教を願うこと)、如来はただちに陰界入はすなわち空でないことはないと説く。あるいは、四・五・六・七・八・九などの韻文をもって繰り返し陰界入がすなわち空であることを説く。あるいは、陰界入がすなわち空であるということに達した者には、このために将来仏になることを約束する。あるいは、仏自ら陰界入がすなわち空であると詩偈をもって説く。あるいは、問われることなく、仏は陰界入がすなわち空であると説く。あるいは、陰界入がすなわち空であると知ることを、禁戒を守っていると説く。あるいは、幻や妄想などの譬喩をもって、陰界入がすなわち空であることを喩える。あるいは、過去の世のこともすべて空であると説く。あるいは、仏の過去世の陰界入がすなわち空であることを説く。あるいは、広くこの世の事がらについて、すなわち空であると説く。あるいは、陰界入がすなわち空であることは不思議なことであると説く。あるいは、陰界入がすなわち空であることを論議する。これらを、随楽欲(ずいぎょうらく・前述したように、人々の願い(楽欲)に応じて(随)説くことをこのように表現する)の世界悉檀をもって、通教の十二部経を説き起こすとする。あるいは、この十二の項目によって、すべてはすなわち空であることを説き、人々を修行に進ませ、迷いの悪を破り、真理を悟らせるのである。これを四悉檀によって通教に属する十二部経を説き起こすとする。

 

第五目 別教に属する十二部経について

もし十因縁によって生きるようになった人々が、すべてのこの世について、すべての陰界入について、および言葉で表現することのできない次元について、言葉で表現することのできない陰界入の事象について聞きたいと願えば(注:すなわちこれが別教を願うこと)、如来はただちにすべての常識的世界そしてその陰界入、すべてのこの世の常識では理解できない世界そしてその陰界入、すべての上向きの世界そしてその陰界入、すべての下向きの世界そしてその陰界入、すべての汚れた国、すべての清らかな国、すべての普通の国、すべての聖なる国、これらの種々の世界、言葉で表現できない世界、種々の陰界入、言葉で表現できない陰界入などを説く。あるいは、四句または九句などの韻文をもって繰り返し説く。あるいは、詩偈の形で説く。あるいは、世界の陰界入について悟れば、このために将来仏になることを約束する。あるいは、悟れば禁戒を与える。あるいは、譬喩をもって説く。あるいは、過去の世のことを説く。あるいは、仏の過去世のことを説く。あるいは、広くこの世の事がらについて説く。あるいは、不思議なことを説く。あるいは、論議を説く。このような十二項目の教えは、その願う者を喜ばせ、人々を修行に進ませ、迷いの悪を破り、真理を悟らせるのである。これを四悉檀によって別教に属する十二部経を説き起こすとする。

 

第六目 円教に属する十二部経について

もし十因縁によって生きるようになった人々が、言葉で表現することのできない国土、言葉で表現することのできない陰界入はすべて真如であり実相であるということを聞きたいと願えば(注:すなわちこれが円教を願うこと)、如来はただちにすべての国土とその中に住む衆生は、そのまま、法身の仏の世界である常寂光土(じょうじゃっこうど)であり、すべての陰界入はそのまま悟りであって、これらを離れて悟りはなく、ひとつの存在に対する認識、そしてその香りに至るまで真理でないものはなく、これを離れて別の真理の道はなく、人間の感覚器官はみなそのまま悟りの世界、これを離れて別の悟りの世界はないと説く。韻文をもって繰り返し説き、あるいは詩偈の形で説き、あるいは仏自ら説き、悟れば将来仏になることを約束し、あるいは悟れば禁戒を与え、あるいは譬喩をもって説き、あるいは過去の世のことを説き、あるいは仏の過去世のことを説き、あるいは広くこの世の事象について説き、あるいは不思議なことを説き、あるいは論議を説く。これらは、願うところに応じて、世界悉檀をもって円教の十二部経を説き起こすとする。あるいは十二項目の教えを説いて、言葉に表現できない修行に進ませ、迷いの悪をすべて瞬時に破り、瞬時に真理を悟らせるのである。これを四悉檀によって円教に属する十二部経を説き起こすとする。

 

第七目 四教の組み合わせと五時について

また次に、別教と円教の両方の四悉檀を用いて十二部経を説くことは、五時教判における華厳時の教えを起こすことである。三蔵教の四悉檀を用いて十二部経を説くとは、鹿苑時の三蔵教を起こすことである。三蔵教と通教と別教と円教の四悉檀を用いて十二部経を説くとは、方等時の教えを起こすことである。通教と別教と円教の四悉檀を用いて十二部経を説くとは、般若時の教えを起こすことである。円教の四悉檀を用いて十二部経を説くとは、法華涅槃時の法華の教えを起こすことである。『大智度論』に、四悉檀に十二部経が含まれているとすることは、以上のことである。

(注:以前にも述べたが、これからも繰り返し述べられるので、「五時」の教判について整理してみる。釈迦一代の教えを、その教えが説かれた時期を中心として分類したものが「五時(①~⑤)」の教判である。まず、釈迦は悟りの境地から、いきなり高度な教えの『華厳経』を説いたため、ほとんどの聴衆が理解できなかった。これを「①華厳時」という。そのため、釈迦は誰でも理解できる教えから説くことにして、最初に鹿野苑(ろくやおん)という場所で、教えを説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)といい、歴史的事実でもある。この時の教えを鹿野苑で説かれたので、「②鹿苑時」という。またその代表的な経典である『阿含経』から「阿含時」ともいう。そして、次に大部分の大乗仏教の教えを説いた時を、その代表的な経典の『方等経』から「③方等時」という。そして、さらに高度な大乗仏教の教えを説いた時を、『般若経』から「④般若時」という。そして最後に究極的な教えである『法華経』を説き、釈迦が死ぬ間際に説かれたという『涅槃経』から「⑤法華涅槃時」という。これが「五時」であるが、今まで繰り返し述べられた、教えの内容から分類する「化法の四教」と、教えの形式から分類する「化儀の四教」の、合わせて「八教」といっしょにして、「五時八教(ごじはっきょう)」という。なお、この「五時」と「化法の四教」と「化儀の四教」は、ぴったり一致するかというと、まったくそうではなく、複雑に入り組んでいる。それを表にすることもできるが、そのような表を丸暗記したところで意味はない。あくまでも『法華玄義』の文に沿って理解していくだけである)。

 

第八目 四教の組み合わせと各論書について

『地持経』に、「菩薩は論蔵に入って『不顚倒論(ふてんどうろん・何を指すかは不明)』を著わして、禅を通して正しい教えが伝わるように論書を作った」とある。菩薩は、この禅に立って、衆生を観察し、仏がいなくなった後の世においては、人々の能力はさまざまとなるので、論書を作って経を理解させたのである。

(注:釈迦が死んだ後、かなり時を経て世に出た『大智度論』などを著わした龍樹(りゅうじゅ)や、『十地経論(じゅうじきょうろん)』などを著わした天親(てんじん・世親(せしん)ともいう)などの経典解釈家たちを、やはり「菩薩」という名称で呼ぶことがある)。

天親は別教と円教の両方の四悉檀を用いて『十地経論』を著わし、『華厳経』を解説した。舎利弗(しゃりほつ・歴史的釈迦の弟子の中で筆頭にあげられる弟子)は三蔵教の四悉檀を用いて『舎利弗阿毘曇論(しゃりほつあびどんろん・これは舎利弗の著書ではなく、このように伝えられているに過ぎない)』を著わし、五百の阿羅漢(あらかん・歴史的釈迦の教えによって悟りを開いた聖者を指す)は『阿毘曇毘婆沙論(あびどんびばしゃろん・これも阿羅漢たちの著書ではなく、釈迦没後かなりの時を経て成立した論書)を著わして、三蔵教におけるこの世の存在を通して悟りに至ることを伝えた。訶黎跋摩(かりばつま)もまた三蔵教の四悉檀を用いて、『成実論(じょうじつろん)』を著わして、三蔵教における空を観察して悟りに至ることを伝えた。迦旃延(かせんねん・歴史的釈迦の十大弟子のひとりの摩訶迦旃延のこと。実際は論書を著わしてはいない)もまた三蔵教の四悉檀を用いて、『昆弥論(こんろくろん・実在せず)』を著わして、三蔵教における空と存在を観察して悟りに至ることを伝えた。龍樹は三蔵教と通教と別教と円教の四悉檀を用いて『中論(ちゅうろん)』を著わして、大乗と小乗の思想を解説した。弥勒(みろく)は別教と円教の四悉檀を用いて、『瑜伽師地論』(ゆがしじろん)を著わし、『華厳経』を解説し、無著(むじゃく)もまた別教と円教の四悉檀を用いて『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を著わしたのである。また龍樹は通教と別教と円教の四悉檀を用いて『大智度論』を著わして『般若経』を解説し、天親は円教の四悉檀を用いて『法華経』を解説した。一般的に天親と龍樹はそれぞれ『涅槃論』を著わしたと伝えられており、まだ中国には伝わっていないが、以上のことと同じと理解すべきである。

また、五つの神通力をもった仙人が著わしたとされるあらゆる論書、帝釈天が天において戒律を説き、梵天は天において欲望の世から脱出することを説くとされるが、これらはみな三蔵教の四悉檀を用いて、方便(ほうべん・巧みな手段という意味)によって人々に功徳を与えるのである。『論語』に「学問は、教養と道徳と忠義と信義によって行なわれるべきである」、「礼儀を定めて詩を作り後世に伝えるべきである」などとあることは、世界悉檀のことである。また、人に官位を与えるのはその徳によるのであり、賞を与えてその徳を後世に伝えるのは、各各為人悉檀のことである。反逆者は罰し、罪には罰を与えるのは対治悉檀のことである。また、政治が滞りなく行われ、その道が天の命じることに合致して、王が最も立派な人物だとされることは、この世の次元における第一義悉檀のことである。