大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 164

『法華玄義』現代語訳 164

 

②発せられる過程

②.a.教の本

仏は四悉檀をもって説いたが、言辞(ごんじ)が巧みであって、次第に多くの意義を語り、最初、中頃、最後もすべて良く、円満具足することは、海の水が陸から次第に深くなっていくようなものである。

教えを聞く者は、最初は世界悉檀を聞き、次第に受け入れていき、教えの相を分別し、わずかに理解を生じていく。その理解は次第に増長し、明らかに教えの深みに達していく。また遍くあらゆる異なった論書を読み、広く智者の意図を知り、多く聞き知識を増し、ついに成仏するに至る。これは教えが発せられる過程である。

②.b.行の本

最初に各各為人悉檀・対治悉檀を聞き、よく修行を起こす。始めは人・天の小さな行、次に戒・定・慧をもって無漏の行に入り、見道・修道の位において、ついに無学を証する。小さな行から大きな行に入り、妙覚の位に終わることは、修行が発せられる過程である。

②.c.義の本

最初に第一義悉檀を聞き、次第に増広して、教えを聞く段階から思惟する段階に進み、煗法・頂法・世第一法の位に入る。次に見諦の位に入り、真実の第一義を得る。次に修道に入り、無学に至る。小乗から大乗に入り、真理に似る中道を見る。このように、末端から入って最後に義の中心に至る。

この三種を合わせて法門とすることができるが、小乗によれば、慧解脱・俱解脱・無礙解脱の三種の解脱を起こす。大乗によれば、初住の位の中に教えを発し、それが般若である。そして修行を発し、それが如来蔵である。そして理法を発し、それが実相である。このように、義が発せられる過程において多くの事柄が含まれるために、翻訳することができない。

③泉のように涌き出るという意味

「泉のように涌き出る」ということは、喩えをもって名付けることである。仏は四悉檀をもって教えを説くが、文と意義は無尽であり、教えの流れは絶えない。もし世界悉檀の一句が説かれるのを聞いて、そこから無量の教えを理解するならば、すべて理解するのに一か月から四か月、さらに一年になるであろう。それは風が空中において自由自在であり、妨げがないことのようである。最初の理解でさえ泉のように涌き出るものであるなら、ましてや後の理解はなおさらである。さらに如来はどうであろうか。石の間から流れ出て、遍く利益を与えるようである(a.教の本)。もし各各為人悉檀・対治悉檀を聞いて、無量の行、大河の砂の数ほどの仏法、あらゆる法門、一行が無量行となる行を起こすならば、善の境界に入って、八正道の道をまっすぐに上る(b.行の本)。もし第一義悉檀の理法が虚空のような教えを聞けば、虚空の法は測ることができず、すべてのところに遍く広がる。これを「泉のようにわき出る」と名付ける(c.義の本)。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えの泉は、四無礙弁の法無礙弁、行の泉は辞無礙弁、義の泉は義無礙弁である。残りの楽説無礙弁は三種に通じる。「泉のようにわき出る」ということは、自ら多く含むために、翻訳することができない。

④墨の縄(注:いわゆる大工道具の墨壺と同じ)という意味

仏は四悉檀をもって教えを説くが、最初に世界悉檀を聞いて、愛・見の邪教を断ち、邪教の風に迷わされることなく、正しい教えに入ることができることは、すなわち教えの墨の縄(a.教の本)である。もし各各為人悉檀・対治悉檀を聞いて、非道を遠く離れ、正しく三十七道品の道を通るならば、すなわち行の墨の縄(b.行の本)である。もし第一義悉檀を聞いて、愛・見の迷いを断ち、悟りの岸に至り、生死を保たず、また無為に住むことがなければ、すなわち義の墨の縄(c.義の本)である。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えの邪教を断つことは、八正道の中の正語であり、行の邪教を断つことは、正業・正精進・正念・正定などであり、義の邪教を断つことは、正見・正思惟などである。墨の縄ということは、自ら多く含むために、翻訳することができない。

⑤花輪を結ぶという意味

教えと行と理法を結ぶことは、花輪を結んで落ちないようにするようなものである。世界悉檀は、仏の教えの言葉を結んで落ちないようにする(a.教の本)。各各為人悉檀・対治悉檀は、あらゆる行を結んで落ちないようにする(b.行の本)。第一義悉檀は理法を結んで落ちないようにする(c.義の本)。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えを結ぶことは、口に誤りがないことを成就し、行を結ぶことはすなわち身に誤りがなく、義を結ぶことはすなわち心に誤りがないことである。またこれは三種の共智慧の行である。またこれは三陀羅尼である。教えが落ちないことは、聞持陀羅尼、行が落ちないことは行陀羅尼、義が落ちないことは総持陀羅尼である。もし身を飾ることを用いて解釈するならば、教えについては智慧荘厳と名付け、行については福徳荘厳と名付け、義については所荘厳である。所荘厳とは、すなわち法身であり、禅定の智慧に荘厳されることである。すべての衆生はみな法身を持つが、法身の本体は荘厳とは関係なく、天龍から軽んじられるほどである。もし禅定の智慧を修学して法身を荘厳すれば、すべてのものに敬われるのである。

昔の説によれば、「経に五義を含む」という。ここでは以上見たように、十五の義を含む。「経」という中国語をもってどうやって翻訳することができるだろうか。多くの意義が含まれるということは、以上のようである。

「経」という文字を訓読みすれば、「常」となる。ここでその訓を解釈すれば、天の魔も外道も改めたり壊したりすることができないことを、「教常」と名付ける。真実に正しく、雑な所がなく、それを超越することがないことを、「行常」と名付ける。自然に動じることがなく、決して他の意義がないことを、「理常」と名付ける。また「法」と訓読みすることは、法の軌範・行の軌範・理法の規範である。このように訓読みを解釈すれば、六つの意義が含まれるのである。中国語のたった一つの文字でさえ、こうである。ましてや複数のインドの文字よって成り立っている言葉を、どうして中国語のたった一つの文字で翻訳できるであろうか。