大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  90

『法華玄義』現代語訳  90

 

〇二十五有三昧の各名称を解釈する

まず、二十五有三昧の各名称を解釈するにおいて、四悉檀(ししっだん)を用いる。四悉檀は、前に述べたように、世界悉檀(せかいしつだん)・各各為人悉檀(かくかくいにんしつだん)・対治悉檀(たいじしつだん)・第一義悉檀(だいいちぎしつだん)」の四つであり、仏が人々を導く四通りの方法であるこの四つをもって述べて行く。

第一は、この世界の在り方をそのまま用いて、それぞれを受け入れ、各名称を一つ一つ立てられたのである。子供が多くいても、それぞれの名前を呼んで各子供を平等に対応すれば、その兄弟も混乱しないようなものである。二十五有三昧についても同じである。各名称をひとつひとつあげることによって、それぞれの迷いの世界に対する教えが混同しないようにする。ましてや、一つの教えに固執することがないようにする。これが世界悉檀である。また第二は、各名称については、それぞれの意義内容に応じて名を立てられた。これが各各為人悉檀である。そして第三は、それぞれに対して行なわれる適切な対応によって名称を立てられた。これが対治悉檀である。最後の第四は、本来、真理に名称などないが、その真理の表現として名を立てられた。これが第一義悉檀である。

このように四つの意義があるといっても、それぞれが対治を用い、真理の表現として二十五有三昧が立てられているのである。この二十五種を解釈するにあたって、共通した形として、次の四つの形式による。まず、それぞれの存在の破られるべき悪しき面を指摘し、次に三昧の功徳を明らかにし、そして実際にその三昧を修した時の成就について述べ、最後に慈悲をもってその存在から離れるように導く。すべて、みな同じ形式で述べる。

(注:ここから、すでに述べられた二十五有に対する二十五三昧について述べられる。前に二十五有が述べられた箇所と同じように、二十五有には①~㉕の番号を付ける)。

1.無垢三昧(むくざんまい)

二十五有の①地獄の有は、無垢三昧によって破る。地獄は重い煩悩の汚れによる報いの世界である。その報いの原因は汚れである。悪業の汚れ、誤った見解と生まれ持った迷いである見思惑(けんじわく)の汚れ、数えきれないほど多くそして細かい塵沙惑(じんじゃわく)の汚れ、そして無明惑(むみょうわく・見思惑、塵沙惑、無明惑を三惑という)の汚れである。

菩薩はこの悪しき状態を知り、これらの汚れを除くために、前に述べた根本業清浄戒を修して悪業の汚れを除き、前に述べた八背捨などの禅定を修して見思惑の汚れを抑え、生滅四諦・無生四諦智慧を修して見思惑の汚れを除き、無量四諦智慧を修して塵沙惑の汚れを除き、無作四諦智慧を修して無明惑の汚れを除く。

見思惑の汚れが除かれたために真諦三昧(しんたいざんまい・真理を完全に得る禅定)を成就し、悪業の苦、塵沙惑の汚れが除かれたために俗諦三昧(ぞくたいざんまい・俗世間にいる衆生を導くための智慧を完全に得る禅定)を成就し、無明惑の汚れを除かれたために中道王三昧(ちゅうどうおうざんまい・身も心もすべて真理と一体となる禅定)を成就する。

菩薩は自ら地獄の有のあらゆる汚れを除く時、その言葉にすべて慈悲と四弘誓願があって深くすべての世界に入る。この地獄の有において機縁あって菩薩の慈悲にあずかる者があれば、中道王三昧をもって菩薩の真理における本性をそのままに、よくこれに応じる。仙人でありながら殺生の罪で地獄に堕ちたとされる婆藪(ばす)や、仏の身から血を流させた提婆達多(だいばだった)のような者でも、菩薩は適切な身を現わし、適切な教えを説くのである。また、その地獄の中に良い機縁を持つ者があるならば、菩薩は根本業清浄戒の中の慈悲をもってこれに応じ、苦を離れて楽を得させる。また入空の機縁を持つ者があるならば、生滅四諦・無生四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、真諦三昧を得させる。入仮の機縁を持つ者があるならば、無量四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、俗諦三昧を得させる。もし入中の機縁を持つ者があるならば、無作四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、中道王三昧を得させる。菩薩はもとより汚れなく、そしてこのように他の者の汚れを取り除くので、この三昧を無垢三昧と名付けるのである。

2.不退三昧(ふたいざんまい)

二十五有の②畜生の有は、不退三昧によって破る。畜生は慚愧する心なく、善道から退転(たいてん・一度得た位から退き落ちること)している。それは、悪業・見思惑・塵沙惑・無明惑のために善道から退転しているのである。

菩薩はそれらの退転を除くために、前述べたように持戒を修して悪業の退転を除き、禅定を修して見思惑の退転を抑え、生滅四諦・無生四諦智慧を修して見思惑の退転を除き、無量四諦智慧を修して塵沙惑の退転を除き、無作四諦智慧を修して無明惑の退転を除く。

見思惑が除かれたために、位不退転(いふたいてん・すでに得た位から退かないこと)を得て真諦三昧を成就する。悪業・塵沙惑が除かれたために、行不退転(ぎょうふたいてん・すでに修した行から退かないこと)を得て俗諦三昧を成就する。無明惑が除かれたために、念不退転(ねんふたいてん・正しい念から退かないこと)を得て中道王三昧を成就する。

菩薩はあらゆる行を修するのに際し、すべて慈悲と四弘誓願があって深くすべての世界に入る。この畜生の有において機縁あって菩薩の慈悲にあずかる者があれば、中道王三昧をもって菩薩の真理における本性をそのままに、そこに赴きこれに応じる。菩薩はどのような身を現わし、どのような教えを説くのかすべて知っている。龍となり、象となり、鳩、大鷲などになる。また良い機縁を持つ者があるならば、菩薩は根本業清浄戒の中の慈悲をもってこれに応じ、苦を離れて楽を得させる。また入空の機縁を持つ者があるならば、生滅四諦・無生四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、有為(うい・煩悩によって生じたもの)を離れて無為(むい・真理に根差したもの)を得させ、真諦三昧を成就させる。入仮の機縁を持つ者があるならば、無量四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、空への執着を離れさせ仮を得させ、俗諦三昧を成就させる。もし入中の機縁を持つ者があるならば、無作四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、空と仮の両極端から離れて中に入らせ、中道王三昧を成就させる。菩薩はもとより退転することなく、そしてこのように他の者も退転させないために、不退三昧と名付けるのである。

3.心楽三昧(しんらくざんまい)

二十五有の③餓鬼の有は、心楽三昧によって破る。餓鬼は常に飢え乾いている。そこには悪業の苦、見思惑の煩悩の苦、空中に無秩序に浮遊する塵のような塵沙惑の苦、根本的な煩悩である無明惑の苦がある。

菩薩はそれらの苦を除くために、前述べたように持戒を修して悪業の苦を除き、禅定を修して見思惑の苦を抑え、生滅四諦・無生の四諦智慧を修して見思惑の苦を除き、無量の四諦智慧を修して塵沙惑の苦を除き、無作四諦智慧を修して無明惑の苦を除く。

見思惑の苦が除かれたために、無為の心楽三昧を成就し、悪業・塵沙惑の苦が除かれたために、多聞分別楽三昧(たもんぶんべつざんまい)が成就し、無明惑の苦が除かれたために常楽三昧を成就する。

菩薩はあらゆる行の慈悲をもって、深くすべての世界に入る。この餓鬼の有において機縁あって菩薩の慈悲にあずかる者があれば、中道王三昧をもって菩薩の真理における本性をそのままに、そこに赴きこれに応じ、適切な身を現わし、適切な教えを説く。また良い機縁を持つ者があるならば、菩薩は根本業清浄戒の中の慈悲をもってこれに応じ、手より香乳を出し、それを施して満足させる。また入空の機縁を持つ者があるならば、生滅四諦・無生の四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、無為の岸に至らせる。入仮の機縁を持つ者があるならば、無量四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道に自由に出入りさせる。入中の機縁を持つ者があるならば、無作四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、貪瞋痴の三毒の根を清めて仏道を成就することを疑うことがないようにさせる。菩薩は自らすでに楽を得、また他の者にも楽を得させるために、これを名付けて心楽三昧とするのである。

4.歓喜三昧(かんぎざんまい)

二十五有の④阿修羅の有は、歓喜三昧によって破る。阿修羅は猜疑心や怖畏が多いために、すなわち悪業の疑怖、見思惑の疑怖、塵沙惑の疑怖、無明惑の疑怖がある。

菩薩はそれらの疑怖を除くために、あらゆる行を修す。持戒を修して悪業の疑怖を除き、あらゆる禅定を修して見思惑の怖れを抑え、生滅四諦・無生四諦智慧を修して見思惑の怖れを除き、無量四諦智慧を修して塵沙惑の怖れを除き、無作四諦智慧を修して無明惑の怖れを除く。

見思惑が除かれたために、空法喜三昧を成就し、悪業・塵沙惑が除かれたために、一切衆生喜見三昧(いっさいしゅじょうきけんざんまい)が成就し、無明惑が除かれたために喜王三昧を成就する。

菩薩はあらゆる行の慈悲・四弘誓願をもって、深くすべての世界に入る。この修羅の有において機縁あって菩薩の慈悲にあずかる者があれば、中道王三昧をもって菩薩の真理における本性をそのままに、そこに赴きこれに応じ、適切な身を現わし、適切な教えを説く。また良い機縁を持つ者があるならば、菩薩は根本業清浄戒の中の慈悲をもってこれに応じ、悪業の怖れを除かせる。また入空の機縁を持つ者があるならば、生滅四諦・無生四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、見思惑の怖れを除かせる。入仮の機縁を持つ者があるならば、無量四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、無知の怖れを除かせる。入中の機縁を持つ者があるならば、無作四諦智慧の慈悲をもってこれに応じ、無明惑の怖れを除かせる。菩薩は自らすでに三喜(さんき)を証し、また他の者にも三怖を除かせるために、歓喜三昧と名付ける。ここまでは、対治悉曇を用いて名称を立てるのである。