大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  29

『法華玄義』現代語訳  29

 

第七項 用不用(ゆうふゆう)

四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第七は、「得用不得用」であり、略して「用不用」という。そもそも四悉檀は、如来のみがそれを完璧に得て、完全に用いるものである。これを「得用(とくゆう)」という。如来以下の位の者たちは、その得用は同じではない。そこに四種ある。まず四悉檀を得ることもなく用いることもないことであり、これは「不得不用(ふとくふゆう)」である。また、得ても用いることはないことであり、これは「得而不用(とくにふゆう)」である。また、得ることはないが用いることであり、これは「不得而用(ふとくにゆう)」である。また、得て用いることであり、これは「亦得亦用(やくとくやくゆう)」である。

第一目 不得不用

仏教以外の者や一般の人々は、苦しみとその原因である執着に陥ったままで生まれ変わりを繰り返すのみであり、四悉檀の言葉さえ聞くこともない。誰がこのことを論じることができようか。誰がこれを得ることを論じるだろうか。得ることがなければ用いることがあろうか。これが不得不用である。

第二目 得而不用

四教の三蔵教における声聞と縁覚の二乗は、正しく修行することにより、すべてが苦しみであることを知り、苦しみの原因である執着を断じ、正しく道を修し、苦しみを滅ぼすことを証して悟りを得る。これを「得」と名付ける。しかし、自分だけが悟った状態のままであり、人々を導くことをしないので、「不用」である。たとえ悟り得たことを用いても、相手の能力に応じることをしないので、『維摩経』に釈迦の弟子の富楼那(ふるな)に対して、「人の能力を知らなければ、教えを説くべきではない。貧しい食物を宝の器に盛ることはするな」と言っている。富楼那は九十日間にわたって仏教以外の者たちを教化しようとして、かえって嘲笑を受けたが、文殊菩薩は少しの間そこに行っただけで、人々はみな信伏した。これは人々の願いを知らないことであり、世界悉檀を用いることができないのである。同じく釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)は、二人の弟子を教えるも正しく修行に導くことができず、かえって疑う心を生じさせてしまったという。これは、各各為人悉檀を用いることができないことである。五百の阿羅漢(あらかん=羅漢・悟りを得た聖者という意味)は、迦絺那(かちな)という修行者に四諦を説いたが、すべて無駄であったという。しかし仏はこの者に不浄観(ふじょうかん・人体は汚れていると観察して執着を離れること)を説いて、その者が悪から離れるようにされた。このことは、対治悉檀を用いることができないことである。また舎利弗は、福増(ふくぞう)という長者を導くことができなかったという。偉大な医者が治さなければ、普通の医者はどうすることもできない。五百の羅漢は導けなかったが、仏は悟りに導くことができた。これは、第一義悉檀を用いることができないということであり、得而不用である。

一人で悟りを開いた縁覚(=独覚・どっかく、辟支仏・びしゃくしぶつ等の呼称)は、最初から一人であり、弟子もいないのであるから、得ても用いない。これも得而不用である。

第三目 不得而用

次の三蔵教の菩薩について述べるならば、すべては苦しみであると知って、その苦しみの原因である執着を断ち、修行の道を歩むとはいえ、ただ煩悩が起こらないように制御しているのみであり、まだ完全に煩悩の本を断ち切っているのではない。ただ世界悉檀と各各為人悉檀と対治悉檀の三つを得るのみである。しかし、まだあと一つを得ていないとはいえ、四悉檀のすべてを用いる。なぜなら、自らは煩悩から解放されていない状態であっても、人々を導く船や筏(いかだ)を持っていて、自分はまだこちら側の岸にいても、人々を彼の岸(=彼岸・悟りの次元のこと)に渡すようなものである。他の人が悟りを開くようにすることをそのわざとし、自らはまだ悟らないまま、他の人を悟らせる。これを不得而用と名付ける。

第四目 亦得亦用

通教の声聞と縁覚の二乗は、空(くう)を体得することは巧みであるが、得ても用いないので三蔵教と同じであり、得而不用である。しかし、通教の菩薩は、修行の段階である最初の乾慧地(けんねじ)から第六番めの離欲地(りよくじ)では、四悉檀を得て同時に用いるので亦得亦用である。しかしその用い方が巧みではないのである。そして、次の段階である第七番めの已弁地(いべんじ)に入り神通力を得るならば、その用い方も優れるのである。

別教の菩薩で、真理の境地に入ってそこから退くことがなくなった十住(じゅうじゅう)の位に入れば、三蔵教と通教の両方の四悉檀を得るのであるが、まだ用いることはできないので得而不用である。さらにそこから、他の人を導く段階である次の十行(じゅうぎょう)の位に進んでこそ、よく用いることができるのであり、亦得亦用である。そして、次の段階の十廻向(じゅうえこう)の位では、自他ともに仏の悟りに近づき、仏に相似する四悉檀を得て用いるのである。さらに、煩悩を完全に断じ尽くして、仏の境地に上った最初の位においては、すぐに真理を完全に表現するようになるのではないが、段階的に真理を身をもって表わし、仏の四悉檀も段階的に得て、段階的に用いるのである。

円教の菩薩の最初の段階である五品弟子(ごほんでし)の位では、まだ得ることも用いることもできないので、得而不用である。そして、感覚器官が仏と相似する位である六根清浄(ろっこんしょうじょう)の位においては、仏と相似する四悉檀を用いるのであり、亦得亦用である。そして次の段階である初住(しょじゅう)の位においては、仏の四悉檀を段階的に得て、段階的に用いるのである。ただ仏だけが、究極的に四悉檀を得て、究極的に用いるのである。