大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  31

『法華玄義』現代語訳  31

 

第九項 開顕(かいけん)

四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第九は、「開顕」である。権を開いて実を顕わすことを「開権顕実」といい、略して開顕という。開権顕実とは、すべての実在はみな、言葉に表現できない真理の表われであり、妙でないものはない。一つの色形や一つの香りさえも、中道として表わされる真理でないものはない。しかし、人間の常識的判断が、その妙を知ることを遮っているのである。

仏は人々を哀れみ、あえて世の常識に逆らわず、それに合わせて権と実の区別された教えを説いた。このために『無量義経』には、「私は四十年以上、さまざまな教えとさまざまな修行の段階と、方便と真実というそれぞれ違いと区別がある教えを説いて来た」とある。

まさに今、方便の門を解除して真実の姿を示すのである。ただ仏がこの世に現われた真実の因縁をもって、ただこの上ない道を説き、人々に仏の知見を開かせ、すべて究極的真理の次元に入らせるのである。『法華経』の中に記されているところの、人々を休ませるために仮に設けた町を消すことは、すなわち麁を退けることであり、人々を皆、宝のある場所に行くことができるようにすることは、すなわち妙に入らせることである。前の権実の段落で、乳味にあたる教えには、権と実の四悉檀が共にあると述べたが、そのように、その教えの実の四悉檀は、『法華経』の妙と同じなのである。ただ、その中の権の四悉檀を解除して、『法華経』の妙に入らせることが開権顕実である。したがって、『法華経』に「大乗の菩薩はこの『法華経』の教えを聞き、その疑いがみな除かれた」とあるのはこの意味である。そして、酪味にあたる教えの権の四悉檀と、生蘇味にあたる教えの権である三蔵教と通教と別教の四悉檀、および熟蘇味にあたる教えの通教と別教の四悉檀を解除して、『法華経』の妙に入らせることができるのである。したがって、『法華経』に「千二百人の釈迦の弟子たちもみなまさに将来仏になるであろう」とあるのである。また「声聞の教えを開く深い真理であり、あらゆる経典の王であるこの経を聞き、聞き終って明らかに思考をめぐらせるならば、まさに知るべきである、このような者たちは、仏の智慧に近づいたのである」とあるのである。方等時の教えや般若時の教えで述べられる妙もまた、『法華経』の妙と違いはない。開権顕実はこのような意味である。

問う:あらゆる権の四悉檀を、結局同じ妙の第一義悉檀とすることは正しいのか。

答える:そもそも、権を通して妙に入れば、自由自在であり妨げるものは何もないのである。たとえ妙の第一義悉檀でも、他の三つの悉檀と隔たっているのではなく、三つの悉檀も第一義悉檀と隔たっているのではない。この第一義悉檀と他の三つの悉檀は互いに自在である。

さらに五重玄義をもって解釈するならば、次の通りである。

もし各権の世界悉檀を妙の世界悉檀であるとするならば、すなわちこれは釈名における妙にあたるのである。また人間の生まれ変わる十通りの世界である十法界(じっぽうかい)の中の、最初の地獄界から九番めの菩薩界までの九法界の十如是(じゅにょぜ・すべての実在を十種類の見方に分けて見たもの。『法華経』に記されている言葉であり、天台教学では中心的な教理となっている。このことについては、後の箇所に詳しく述べられているので、ここでは言葉だけをあげることにする)における本性とその姿は、同じく十法界の十番めの仏界の本性とその姿となり、結局、すべての名称を包括することになるのである。たとえば、『法華経』に記されている「長者窮子の喩え(ちょうじゃぐうじのたとえ・ある長者の息子が父親の本を離れ、困窮した末に記憶も失う。その息子が偶然、父親の屋敷に来たが、父親は巧みに息子を雇い入れ、次第に息子を訓練して後継者にふさわしい人格まで仕上げて、最後に後継者とするという喩え話)」でそれを見ることができる。長者の本性は息子の父親であり、息子の本性は長者の子であり、その本性が両者を再び結びつけた。長者は最後には改めて子に本来の名前を与え、公に自分の子であるとし、私はお前の本当の父親であり、お前は本当の私の子なのだとするようなものである。

もし各権の第一義悉檀を妙の第一義悉檀であるとするならば、すなわちこれは、弁体における妙にあたるのである。これは仏の知見を開かせて、真実の姿を示し、宝のある場所に導くのである。

もし各権の各各為人悉檀を妙の各各為人悉檀であるとするならば、すなわちこれは、明宗における妙にあたるのである。『法華経』に「それぞれ各子供に等しく最高の大きな車を与える」とある通りである。

もし各権の対治悉檀を妙の対治悉檀であるとするならば、すなわちこれは、論用における妙にあたるのである。『法華経』に「与えられた宝の珠を売って商売をする」とあり、また「この良い薬をここに置くので、これを飲むがよい。治らないのではないかと心配するな」とある通りである。また、「まさに方便を捨てて、この上ない道を説くのである。もし執着が働いて疑いが生まれるなら、仏はそれを除き断じて、残るところがないようにする」とあり、また「私は悟りを開いて煩悩を断ったが、さらにこの教えを聞いて憂い悩む心を除いた」とある通りである。

もし各権の四悉檀の同異を判断して、『法華経』の妙の四悉檀に入るならば、もはやその同異は見ることがない。『法華経』に「昔も聞いたことのない教えを、今ここに聞くことができた」とある通りである。これはまさしく妙であって、同異ではない。すなわちこれは、判教における妙にあたるのである。『法華経』に「あらゆる道を示すと言っても、それはただすべての人が仏になるという一仏乗(いちぶつじょう)のためだ」とある通りである。あらゆる教えの同異を判断すると言っても、究極的には、それらの教えの同異はないのだ、ということを表わすために、判断の領域を越えた教えを説くのである。