大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  30

『法華玄義』現代語訳  30

 

第八項 権実(ごんじつ)

四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第八は、「権実」である。「権」とは仮(かり)という意味であり、「実」とは真理そのものという意味である。

四諦の一つ一つに四悉檀があるということは、全般的な視点から述べたのであり、各教えにおいてはそうではない。『大智度論』には、「あらゆる経典には四悉檀のうちの三つを説くだけであり、四番めの第一義悉檀は説かない」とあるのは、三蔵教を指すのである。しかし、三蔵教はすべての実在は因縁によって生じていると説くが、もしそれによって、五陰の最初の段階である色(しき)を滅して、完全な空の真理を体得すれば、完全ではないにしても、それは第一義悉檀となる。また、三蔵教の菩薩に対しては、四悉檀のうちの最初の三つを通して、四番めの第一義悉檀まで含めて示していることになるのである。また三蔵教を説く仏においては、もちろん四悉檀を備えているのである。しかし、あくまでも三蔵教は能力の劣った者に対するものなので、すべては程度の低いものであり、権なのである。

また通教における四諦の一つ一つに四悉檀を解き明かすということは、すべての実在はそのままで真理であるということを体得することである。その教えは巧みである。そのため、『大智度論』には「今、第一義悉檀を説くために、『摩訶般若波羅蜜経(=般若経)』を説くのだ」とある。通教においては仏も菩薩もみな四悉檀を保有している。しかし、通教においては方便を通して真理を明らかにするので、まだ権なのである。

また別教における四諦の一つ一つに四悉檀を解き明かすということは、空という教えにも、空という在り方によってすべてを認める仮という教えにも偏らない中道を説いているので、その意義は深いけれども、なお空と仮を経た中なので、まだ完全ではなく、その教えは権である。それは妙ではない。

そして円教における四諦の一つ一つに四悉檀を解き明かすということは、それは完璧に円満であり、最高の真理を明かすのである。そのためにその四悉檀は実であり、妙である。

この権と実を、乳製品の熟成過程に喩えて説いた五味(ごみ)の喩えによって説くならば、乳味(にゅうみ)にあたる教えには、権と実の四悉檀が共にあり、酪味(らくみ)にあたる教えには、ただ権の四悉檀があるのみであり、生蘇味(しょうそみ)にあたる教えには、三蔵教と通教と別教の四悉檀と円教の四悉檀があり、熟蘇味(じゅくそみ)にあたる教えには、通教と別教の四悉檀がある。最後の醍醐味(だいごみ)にあたる教えは『涅槃経』と『法華経』に分けなければならず、『涅槃経』には三蔵教と通教と別教の四悉檀と円教の四悉檀があり、『法華経』には円教の四悉檀があり、これはみな実なのである。

問う:三蔵教の菩薩に対しては、四悉檀のうちの最初の三つを通して、四番めの第一義悉檀まで含めて示していることになると述べられたが、結局、これは次の通教においては三つの悉檀を成就しただけになる。ならば、通教の四悉檀は、次の別教においてはどのようになるのか。

答える:これには二つの意味がある。通教においては四悉檀となるが、別教においては、三つの悉檀になるのである。

問う:では、別教の四悉檀は、次の円教においても同様なことになるのか。

答える:そうはならない。なぜなら、別教と円教においては、煩悩を完全に消滅し尽くした完全な悟りを得ることは同じだからである。

問う:三蔵教と通教においても真理を悟るのである。ならば、同じように四悉檀を得ることではないか。

答える:三蔵教における真理は同じ真理のであるが、三蔵教の菩薩は、煩悩を完全に消滅しきっていないので、四つめの第一義悉檀を得ていないのである。別教と円教においては、煩悩を完全に消滅し尽くした完全な悟りを得ているので、四悉檀を得ているのである。

問う:結局、三蔵教と通教では四悉檀と言っても、最初の三つの悉檀であるならば、確かにこれは権である。しかし、別教では、最初の三つだけではなく、完全に四悉檀であるならば、権とは言えないのではないか。

答える:三蔵教と通教では、教えも悟りも権であるため、最初の三つだけであり、完全な四悉檀ではない。別教は、教えは権であり、その悟りは実である。このように、悟りにおいては完全な四悉檀であるが、教えは権なのである。

問う:ならば、悟りにおいては完全な四悉檀であり、教えは最初の三つの悉檀ということになるのか。

答える:まだ完全な悟りを得ていない段階におけるものを教えとするならば、誠にその通りである。