大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  32

『法華玄義』現代語訳  32

 

第十項 通経(つうぎょう)

四悉檀を解釈するにあたっての十種の項目の第十は、「通経」である。

問う:四悉檀を用いて『法華経』を解釈すると言うが、『法華経』のどこに四悉檀について記されているのか。

答える:『法華経』の多くのところにこの意味が記されている。一つ一つをあげることは不可能なので、今、略して迹門と本門を代表する文を引用する。

迹門の「方便品(ほうべんぽん)」に「仏は、衆生のあらゆる行ない、心の深い所にある念、過去行なってきた業、欲性精進力(よくしょうしょうじんりき)、および各人の能力の利鈍(りどん)を知り、さまざまな因縁、譬喩、または言葉をもって、まさにしたがって方便を説くのだ」とある。これはまさに四悉檀の言葉ではないか。「欲性精進力」の「欲」とは、真理を求める欲であり、世界悉檀である。「性」とは、智慧の本性であり、各各為人悉檀である。「精進力」は悪を破ることで、対治悉檀である。そして「利鈍」とは、すなわち能力の高い者と低い者は悟りを得ることが同じではない。これは第一義悉檀である。

また本門の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」に「如来はすべてを明らかに見て誤りがない。あらゆる衆生には、それぞれの本性、それぞれの真理を求める願い、それぞれの修行、それぞれの思慮分別があるために、それぞれ正しい修行へ進ませようとして、いくらかの因縁、譬喩、言葉をもって、さまざまに説法する。それらの仏のわざは、昔から今まで、少しも後退したことはない」とある。「それぞれの本性」とは各各為人悉檀である。「それぞれの真理を求める願い」とは世界悉檀である。「それぞれの修行」とは対治悉檀である。「それぞれの思慮分別」とは、真理を見上げて、今までの邪悪な思慮を転じて第一義を見ることができるということなのである。

このように、二か所の文に四悉檀が含まれている。そしてこれらはすべて衆生のために説かれたものである。まさにこれが、四悉檀をもって教えを説く証拠とならないわけがあろうか。

(注:これで、第一部が終わった。『法華玄義』を「通(通論)」と「別(各論)」に分けたうちの通論の箇所が終わったわけである。これからは各論に入るわけであり、全体の内容から見れば、前半部分が終わったと見ることもできるが、全体の分量から見れば、まだ六分の一程度が終わったに過ぎない)。