大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  33

『法華玄義』現代語訳  33

 

第二部 各論

 

第二に各論をもって五重玄義について述べる。

 

第一章 釈名

はじめに、五重玄義の最初の釈名を四つに分けて述べる。一つめは、通と別を判別する。二つめは、前後を定める。三つめは、旧(く)を出(いだ)す。四つめは、正しく解釈する。

 

第一節 通と別を判別する

第一項 概略

妙法蓮華経』という経典名について見るならば、「妙法蓮華」という名称は、他の経典とは異なっているということが「別」であり、「経」という部分は他の経典と共通するということが「通」である。この二つの部分について、「教」「行」「理」という三つの面から見ることができる。

「教」は、聴衆の能力に応じて説かれたため、経典名に「別」が生じる。これが「教別」である。教え(=教)が説かれたということは共通するわけであるから「教通」である。経典に説かれる実践、つまり経典名に含まれている「行」について見るならば、聴衆の能力に応じた実践が異なるので、「行別」であり、その実践を生み出している真理は同じなので、「行通」である。また、「理」は経典名に表現されているので「別」であり、その経典名が理法(=理)に基づいていることを見るならば、やはり理法はどの経典でも同じなので「通」である。以上が、これから説こうとしている「妙法蓮華経」という経典名に基づく解釈の概略である。

 

第二項 教について

教えは聴衆の能力に応じて説かれ、また聴衆が正しく受け入れられるかどうかということも各人異なっているので、教はその各部分で異なっている。しかし、教はすべて仏の尊い御声によるので、すべて仏説(ぶっせつ)である。このために、通と別の名称があるのである。

(注:何度も繰り返すが、大乗経典は歴史的釈迦の言葉ではないので、正確には「仏説」ではない。しかし、大乗経典には霊的真理が豊かに記されており、霊的真理を人間に提供する霊的存在を「仏」と名付けるならば、確かに「仏説」である。もちろん、『法華経』ばかりではなく、他の大乗経典も、また『法華玄義』のような注釈書も、そのように見るべきであり、各経典から霊的真理を読み取ることができるならば、大乗経典が歴史的釈迦の教えでない、ということも関係ないこととなる)。

 

第三項 行について

行について見るならば、悟りの境地に至る宝のような真実の教えは、それぞれの修行の違いによって、その名称として表現されるのである。たとえば、『涅槃経』において、釈迦の弟子である五百の弟子たちは、この世に肉体を持って生まれて来る因についてそれぞれの説を出し、仏はすべての説に対して、誠にその通りであると言った。また、『維摩経』において、三十二人の大乗仏教の求道者(=菩薩)が、真理においてはすべての区別はないという不二法門(ふにほうもん)について語り、文殊菩薩がそれを讃えた。また、『大智度論』には、「数息観(すそくかん・息を数えることによって精神統一をする方法)はみな大乗の教えである。それ自体が空であるからである」とある。このように、まさに知るべきである。修行の形体について見ればいろいろあって別であるが、目指すところは、仏が認めたり、文殊菩薩が讃えたり、大乗の真理である空だと言われるところから明らかなように、みな同じなのである。求那跋摩(くなばつま・四世紀ごろの西域出身の経典翻訳僧)が、「多くの論書で主張する内容はそれぞれ違っているけれど、修行によって得られる真理は二つあることなし」と言っている通りである。

(注:各経典が大乗仏教のそれぞれのグループによって創作されたものであるので、それぞれの主張が違っていて当然であり、それらの経典の解釈書の主張もそれぞれ違ってくるのも当然である。各経典解釈家は、その違いを、釈迦が聴衆の能力の違いに応じて異なった教えを説いて、最終的に同じ真理、同じ悟りに導いた結果であると結論付けている。もちろん、その解釈は歴史的に見れば誤りである。しかし、それぞれ異なっている教えに基づいた実践修行によって得られる悟りが同じならば、それらの教えはすべて同じ真理から出て来たものであるということになる。そのように見るならば、ここで天台大師が結論付けている主張も正しいことになる)。

 

第四項 理について

理について述べるならば、理法(=理)は二つあることはない。しかし、その名称はひとつではない。『大智度論』に「般若(はんにゃ・最高の智慧という意味)は一つだが、仏はさまざまな名称で説く」とあり、『涅槃経』に「解脱(げだつ・悟りに至り煩悩から解放されること)もまた同じである。あらゆる名称が多い。帝釈天に千種類もの名前があるようなものである」とある通りである。名称が異なるので別といい、真理は一つであるから通というのである。この『妙法蓮華経(=『法華経』)』が、妙法の経であるとするのは、教の通別である。『法華経』の中に「それぞれの子供に同じ大きな車を与え、この宝の車に乗ってすぐに修行の場に至る」とあるのは行の通別である。真理を表現して、実相(じっそう・真理の姿という意味)といい、仏知見(ぶっちけん・仏の悟りの知見という意味)といい、大乗(だいじょう・古代インド語で「マハーヤーナ」であり、優れた教えという意味)といい、家業(かごう・『法華経』の中に記されている仏を象徴する長者の職業を指す)といい、一地(いちじ・『法華経』の中に記されている薬草を育てる唯一の土地を指す)といい、実事(じっち・『法華経』に記されている真実の事がらを指す言葉)といい、宝所(ほうしょ・『法華経』に記されている宝のある目的地を指す言葉)といい、繫珠(けいじゅ・『法華経』に記されている衣の裏に縫い付けられた宝石を指す言葉)といい、平等大慧(びょうどうだいえ・『法華経』に記されている偉大な仏の智慧を指す言葉)というのは、すなわち理(=真理)の通別である。

この教・行・理の三つの義を表現するために、通別を立てるのである。

(注:真理は絶対的であるため、本来、人間の相対的な言葉で表現することはできない。しかし、表現しなければ伝わらないので、人間が理解できる相対的な言葉で表現せざるを得ない。そのため、権と実、通と別などの区別が生じるのである。「実」や「通」が真理そのものを指し、「権」や「別」が相対的な人間の言葉で表現されたものを指す。これは『法華玄義』を理解するうえで重要なポイントとなる)。

 

第五項 問答

問う:蔵教・通教・別教・円教の四教ごとに、教主の教えの説き方は違っている。なぜ仏の尊い御声を一様に「教通」と呼ぶのか。

答える:これについては、二つの意義がある。一つは「当分(とうぶん)」、もう一つは「跨節(かせつ)」である。

「当分」とは、その範囲内で理解することである。たとえば三蔵教における仏を考えればよい。さまざまな状況や聴衆の能力に応じて教えを説く。さまざまに状況や人が異なるので教別であり、教主は一人であるので教通である。各教えに従って修行するところに、さまざまな教えと修行がある。それらはみな理法に基づいてさまざまに名付けられるが、理法にさまざまな種類があるわけではない。『法華経』の「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」に、「豪華な服を脱ぎ、粗末な衣を着て、記憶を失った我が子に近づき、『よく働いて、他のところには去るな』と言った。そして賃金を与え、足に油を塗ってやった」とあるが、これは、本来は親子であるにもかかわらず、我が子の状況に応じて姿を変え、言葉を選んでいる。親子ということが変わらない理であり、その行は変えている。このような事例は多いのですべて説くことはできない。そして、他の通教・別教・円教の教・行・理もまた同様である。この当分は、表面的には理解しやすいが、真理そのものを説明することは難しい。

次に「跨節(かせつ)」とは、範囲を越えて理解するということである。つまり、すべてにおいて同じ仏がわざをなしていることを見抜くことである。四教それぞれに、異なった仏の姿があり、異なった御声があり、異なった説教がある。仏の本身は無量の功徳に満ちたものであるにもかかわらず、その本身は隠して、一尺六寸の輝く肉体の姿となり、人々を喜ばす甘露な教えは説かずに、すべてのものは無常であるという辛辣で厳しい教えを説く。それはまさに、記憶を失った息子に近づくために、王のような長者の服を脱ぎ、粗末な衣を着て、便所掃除の道具を持つことを、方便というのである。この方便の門を解除して、真実の姿を表わすならば、その身体が表現する姿は完全円満の仏の姿、その示す教えは円満の教えである。その示す行も、その示す理も、みなすなわち真実なのである。このように、仏の教え自体は一つであるが、相手に応じてさまざまな違いがある。相手の能力に長短はあっても、教える主はただ究極的な真理の次元に立っているのである。あらゆる名称をもって、この究極的な真理を表現しているまでである。究極的真理はあらゆる名称に応じているのである。

このように、教・行・理の通別を論じるならば、表面的には理解しにくいが、真理そのものを説明することは容易である。