大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  34

『法華玄義』現代語訳  34

 

第二節 前後を定める

次に、妙法という名称の前後を定めるとは、妙法についてわかりやすく述べるために、先に法について解釈し、次に妙について述べるということである。

(注:経典名が『妙法蓮華経』であるから、「釈名」において、まず「妙」について述べ、次に「法」について述べるのが順番である。しかし、実際は先に「法」について述べられている。その理由をこの段落で述べているのである)。

法華経』に「私の教えは妙であり人間の思慮分別で知ることは難しい」とある。もし言葉の本来の順序からすれば、先に妙、次に法となるはずである。ある人をほめようと「良い人だ」と言い、「良い」という言葉が先に来るようなものである。しかし、もしその人がいなければ、どうやって「良い」という言葉が生じるであろうか。まずは「人」であり次に「良い」である。『法華経』の題名は、言葉本来の順序に従って、先に妙、次に法となっている。しかし解釈というものは、わかりやすさが重要なので、先に法、次に妙とする。このように前後が逆になるとしても問題はないのである。

 

第三節 旧(く)を出(いだ)す

次に旧を出すとは、妙法についての解釈において、今までの旧解釈をあげることである。それらは多いので、略して四人の説を出す。

道場寺慧観(どうじょうじえかん・南北朝時代の僧侶。『法華経』を翻訳した鳩摩羅什の弟子。五時教判を最初に唱えた人物と言われる)は、「人々の能力の違いに応じて、声聞(しょうもん・釈迦の声を聞くという意味であり、歴史上の釈迦の弟子を指す)、縁覚(えんがく・十二因縁を悟った者という意味で、釈迦の弟子ではなく、一人で修行して悟った者を指す)、菩薩(『法華玄義』において、ほとんどの場合は、菩薩とは大乗仏教における求道者を意味する。人々を導くために仏が化身した菩薩ではない)の各三種に相応する教えである三乗(さんじょう)を説く。三乗は真実ではないので、最終的に一仏乗(いちぶつじょう・誰もが仏になるという教え)に帰一する。これを無上という。無上であるから妙である」と言っている。また『法華経』から「この教えは微妙(みみょう・現在使われている意味はなく、ここでは妙の同義語である)であり、最も清浄である。この世のあらゆる事柄の中で、これ以上のものはない」という文を引用している。また「『法華経』は、言葉を用いて相対的次元を超越した次元のことを伝えているが、その伝えようとする正体は、精密だとか粗末だなどという言葉を超越している。そのために妙というのである」と言っている。また『法華経』から「この教えは示すことはできない。言葉の力の及ばないところである」という文を引用している。

会稽(かいけい・現在の浙江省紹興市)の慧基(えき・412~496)は、「妙とは、同一という意味である。『法華経』以前の三乗の修行は別々であり、その結果である悟りも別々なので、妙ではないのである」と言っている。

河北の論師(誰を指すかは不明)は「真理は三乗ではない。三乗の教えを粗末とし、三乗ではない、という意味で妙という」と言っているが、これは同じ意味だが言葉は不完全である。

光宅寺法雲(こうたくじほううん・467~529)の説は次の通りである。

(注:法雲は、日本の聖徳太子の『法華義疏(ほっけぎしょ)』の基となったと言われる『法華義記(ほっけぎぎ)』を著しており、『法華経』研究の代表的人物である。これから、法雲の解釈が詳しく紹介される箇所となる)。

妙とは一仏乗(いちぶつじょう・誰でも仏になるという教え)の教えと、修行である因と、悟りである果そのものである。『法華経』以前に説かれた経典の因と果に三つの麁(そ・妙と相対する言葉であり、粗雑という意味)があり、それに対して、『法華経』の因と果に三つの妙がある。

法華経』以前の因と果の三つの麁とは、まず因の正体が狭く、因の段階が低く、因の働きが劣っている。声聞は四諦を修し、縁覚は十二因縁を修し、菩薩は六波羅蜜(ろくはらみつ・大乗仏教の六つの修行項目)を修す。この三つの因はそれぞれ異なっていて、互いに通じることはないので、因の正体が狭いと名付ける。『法華経』以前に説かれた経典においては、煩悩を断じ尽くして仏となる一つ前の段階の者を菩薩と呼ぶので、煩悩を抑えている状態であり、まだ人間の精神世界の次元から脱却していないので、因の段階は低いと名付ける。この菩薩の段階では、煩悩を抑えるだけであり、煩悩の根本である無明(むみょう・すべての煩悩は結局ここから生じるとされる)を抑えることはできないので、因の働きは劣っているという。以上の三つがあるために、『法華経』以前の因は麁であるというのである。

法華経』以前の果の三つの麁とは、同じく果の正体が狭く、その段階が低く、その働きが劣っている。悟りを開き、肉体が残った状態と肉体も滅した状態とのあらゆる徳がすべて備わっていないので、果の正体が狭いという。その段階は、『法華経』に記されているところの、人々を休ませるための仮の町のようなものであり、肉体が死んでからも究極の悟りの次元に向かった生まれ変わりを繰り返すので、その段階は低いという。悟りの一段階前まで進んでいるとはいえ、まだ根本的な無明を断じ尽くしていない。『法華経』以前の仏は、あくまでも八十歳で亡くなった釈迦であり、永遠の存在としての仏は説き明かされていない。したがって、その働きは劣っている。以上の三つがあるために、『法華経』以前の果は麁であるというのである。

法華経』の因は、その正体が広く、段階が高く、その働きは優れているとは次の通りである。まず、声聞、縁覚、菩薩の三乗をそのまま一仏乗に導き、すべての修行を総括するために、広いというのである。ただ究極的悟りの一つ前の段階に進んでいるというだけではなく、この世の次元を超えた菩薩の道を行じることを説くために、その段階は高いという。究極的悟りの前の段階で煩悩を制圧することも、その根本原因である無明まで制圧することができるので、その働きは優れている。以上の三つがあるために、『法華経』以前の因は妙であるというのである。

法華経』の果は、この三つにおいて妙であるということは、その正体が広く、段階が高く、その働きは優れているからである。すべての徳を備え、あらゆる修行を一つの悟りに導くために、広いという。段階は宝のあるところに至るので高いという。すべての煩悩を滅ぼし尽くし、神通力をもって寿命を延長し、衆生を導くので、その働きは優れているという。以上の三つがあるために、『法華経』の果は妙であるというのである。これがすなわち、一仏乗の因と果の教え(=法)が妙であるということである。

以上が光宅寺法雲の解釈である。

一般的には、今までの解釈の中で、以上見た光宅寺法雲の解釈が最も優れているとされる。南の地域の大乗仏教の流れにおいて見るならば、その多くは、鳩摩羅什(くまらじゅう・『法華経』の翻訳者)と僧肇(そうじょう・鳩摩羅什の弟子)の解釈を受け継いでおり、その内容は、四教の内の通教の段階である。そして、光宅寺法雲の解釈もそれらとあまり違いはない。