大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  35

『法華玄義』現代語訳  35

 

(注:ここからは、先にあげられた光宅寺法雲の説を批判する内容となる。光宅寺法雲の解釈でも『法華経』を最も優れた経典とするということは、天台大師と同じように見える。しかし、『法華経』以前の経典を「麁」、つまり妙ではない不十分な教えとして、『法華経』を完全な教えの「妙」としており、この「麁」と「妙」が相対関係にある。天台大師の悟りに基づく教えは、真理は相対関係によっては表わすことができないとするものであり、そのため、『法華経』だけが優れており、他は不十分な教えだとするものではなく、『法華経』によって他の経典もすべて優れた教えであることが明らかとなる、ということなのである。以下、『法華経』だけが優れているとするならば、多くの矛盾が生じることを詳しく述べる内容となる。一見すると、かえって『法華経』は優れた教えではない、と読み取れる言葉が続くが、それは『法華経』だけが優れた教えではない、ということを表わすための言葉である。そして、この段落に続く非常に長い箇所において、天台大師が正しいとする教えが述べられることになる)。

 

前にあげた光宅寺法雲の因と果ついての解釈に対して、「行(修行)」、「教(教え)」、「人」、「理(理法)」の四つの点で批判すべきことがある。

(注:因の正体が広い、その位が高い、その働きが優れているという三つと、果についても同様に三つ説かれており、合計六項目となる。さらに各項目の中では、行・教・人・理の四つの点で述べる形となっている)。

 

第一項 因の正体の広狭の四つの難点について

まず、『法華経』以前の教えや修行である因の正体が狭いので麁だとするならば、いったい何を指して『法華経』以前とするのだろうか。もしそれが最も程度の低い三蔵教だとするならば、それは正しい。しかし、もし『法華経』以前のすべての経典を指すならば、それは誤りである。なぜならば、『般若経』に「すべての教えはみな究極的にはみな大乗の教えに通じるのである」とある。また『思益経』に「すべての実在の姿を解き明かすことは、大乗仏教の求道者である普遍的な菩薩の行である」とある。また『華厳経』においては、悟りの次元に入っても、場所は通常の修行道場である祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)から動いていない。また『維摩経』に「道場に座るということは、瞬間的に生じる一念においてすべての実在を知ることである」とある。『法華経』以前に説かれた経典の因が、このように無辺の広がりをもっているので、どうしてそれが狭いと言えようか。

もし『法華経』の因の正体が広いとするならば、どうして『法華経』は一仏乗を説くのでその教えは完全であり、すべての者に仏となる本性が備わっているという仏性(ぶっしょう)について説かないので不完全であるというのか。どうしてまた、『法華経』は縁因仏性(えんいんぶっしょう)を説いているので、これは円満な教え(=満字)であり、了因仏性(りょういんぶっしょう)を説かないので欠けたところがある教え(=不満。半字ともいう)というのか。

(注:「正因仏性(しょういんぶっしょう・仏性そのものが人々にもともと備わっているということ)」、「縁因仏性(えんいんぶっしょう・悟りに至る教えや修行のこと)」、「了因仏性(りょういんぶっしょう・仏性を覚知する智慧のこと)」を「三因仏性(さんいんぶっしょう)」といい、『法華玄義』でもこの後も繰り返し述べられる重要な用語である)。

また、仏が悟りを開いてから『法華経』を説くまでは、大河の砂の数ほどの多くの歳月が流れたとされ、『法華経』以降でもその数を倍にしたほどの多くの歳月が流れるであろうとされるが、それでもその歳月は無常の範囲にある。無常の因をもって、永遠の悟りである果を得ることができるだろうか。因と果が共に無常であるなら、その中にいる無常の人々はなぜ仏性を見ることができるだろうか。

このように、完全な教えでないので、因の正体に行が統一されていないことになる。また円満な教えではないので、因の正体に教が統一されていないことになる。また、人が永遠な存在ではないために、因の正体に人が統一されていないことになる。また、仏性を覚知しないので、因の正体に理が統一されていないことになる。まさに知るべきである。これでは、『法華経』の因は広いどころか最も狭いということになる。狭ければ麁である。『法華経』以前の経典がすでに広いことになり、かえってそれらが妙である。この一つの批判を通しても、すでに麁と妙という解釈に難点があることが明らかにされる。こうして、後の批判も明らかになるのである。

第二項 因の段階の高低の四つの難点について

次に、『般若心経』(注:現在広まっている玄奘訳ではなく、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒経』)にあるように、「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ・最高の智慧という意味)」は、「無上明咒。無等等明咒(この上ない呪文であり比べるものがない呪文という意味)」である。仏道の高みを目指す者はこの上ない教えを求めるべきである。したがって『法華経』以前の経典の因の教は低いということはない。『大智度論』に「菩薩は三界の外に出て、法性(ほっしょう)そのままの身体を受け、菩薩の行を行じる」とある。このように、『法華経』以前の経典の因である修行者の段階は低いということはない。『維摩経』に菩薩の徳を称賛して「菩薩の智慧は、比べるものがない仏の自由自在に変化する智慧に近い。あらゆる方角の魔王は、実は不思議な解脱の次元にいる菩薩の化身なのである」とある。このように、『法華経』以前の経典の因である人は低いということはない。さらに『維摩経』に「仏道を極め尽くして教えを説いているにもかかわらず、仏より一段低い菩薩の道にある」とある。また「諸仏の秘められた悟りの次元に入ることができないことはない」とある。このように、『法華経』以前の経典の因において、理を見ることは低くはない。このように、『法華経』以前の経典の因の段階は、行・教・人・理がみな統一されており、共にみな高いのである。なぜ麁というのか。

もし『法華経』の因の段階が高いとするならば、なぜ『法華経』の教えは五時教判の中の第四時とするのか(注:天台大師の「五時教判」では、『法華経』は「第五時」であるが、天台大師以前の道場寺慧観(どうじょうじえかん)の「五時教判」では「第四時」に該当するとされていた)。そしてその段階は、なぜまだ無明を断じ尽くしていない段階とするのか。そして聴衆の人もなぜ生死の次元にある者であって、それを超越した法性そのままの身体ではないのか。そして理法はあくまで無常であって、仏性を覚知できないのか。まさに知るべきである。これでは『法華経』の因は行・教・人・理の統一がなく、その段階は低く、麁となる。むしろ『法華経』以前の経典の因に行・教・人・理がすべて統一されていて、高く妙だということになる。