大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  43

『法華玄義』現代語訳  43

 

〇第二に、人、天の十如是について述べる

人と天が、前に述べた地獄、餓鬼、畜生、阿修羅の四趣と異なるところは、善や楽という言葉があるというところだけである。相は清らかな次元を表わし、性は黒に対する白ということで表現でき、体は安楽の心身であり、力は良い器に働き、作は悪を抑制し善を作り出し、因は清らかな業であり、縁は善の自我意識、善の所有、それに付随するものなどであり、果は自然と善に応じて生じ、報は自然と楽を受け、等とは前に述べた通りである。

〇第三に、二乗の十如是について述べる

声聞と縁覚の二乗の十如是は、真実に煩悩を抑えた状態であることを表わしている。相は涅槃を表わし、性は白でもなく黒でもなく、体は聖者にふさわしい心身であり、力は自由自在に働き、作は自ら努め自ら成し遂げ、因は煩悩に左右されない正しい智慧であり、縁は智慧を助長させる行であり、果は聖者にふさわしい悟りである。ただし、二乗の悟りは、すべてのものに実体がないということであるから、その悟りは何も生じさせないので、報はない。なぜなら、二乗における果である真実に煩悩を抑えた状態は、あくまでもそれは修行の果に過ぎず、それ以上の報はないことになる。それでも、煩悩が抑えられた状態は、煩悩の根本が滅ぼし尽くされていないわけであるから、修行の惰性が働いて、その惰性の果が生じることはある。しかし、煩悩を抑え、目に見える生(しょう)を減少させるということを目的とする二乗は、それ以上の次元の生を対象としないわけであるから、その後の報はないのである。二乗は、後天的に得た考え方や信念が生じさせる迷いである見惑(けんわく)と、生まれながらに持っている感覚的または感情的の迷いである思惑(しわく)を断じることが目的であるが、その見惑を断じても、思惑を断じていない状態の報として、七回生まれ変わったり、一度生まれ変わったり、そのように生まれ変わるが、欲望の世界には生まれ変わらないなどの果は生じる。しかし、それは真実の二乗の悟りによる報ではない。したがって、報を欠いた九種類の如是であって、十ではない。これをもし、大乗仏教において見るならば、二乗における煩悩を抑えた状態は、まだ煩悩がある状態なのである。『涅槃経』に「悟りによる福徳の優れた形は、未だに迷いと煩悩によるものであり、それを得るのは声聞である」とある通りである。大乗仏教の求道者である菩薩は、最終的に残る塵沙惑(じんさわく・塵のように認識できないほど細かく数の多い煩悩)と無明惑(むみょうわく・業による煩悩であって、すべての煩悩の根元にあるもの)は滅ぼさずに、自らの意志によってこの世に生まれ変わる。すなわち、煩悩を抑えた状態を因として、無明を縁としてこの世に生まれて人々を導くことは、報なのである。

〇第四に、菩薩の十如是について述べる

菩薩に、三蔵教の菩薩と通教の菩薩と別教の菩薩の三種がある。

三蔵教の菩薩は、その福徳に応じて、相・性・体・力などがある。そして善業を因とし、煩悩を縁とし、修行段階における三十四段階に分けられる心(=三十四心・『法華玄義』68と69の注を参照)を制することを果とする。仏は究極的次元に達しているので報はない。菩薩には十のすべてがある。

通教の菩薩は、煩悩を抑えているということに応じて、相・性などがある。そして見惑を断じ尽くしても、まだ思惑が残っている段階では報を受け、思惑を断じ尽くして報として生まれ変わることはなくなる。しかし、人間の世に生まれなければ人々を導くことができないので、その衆生救済の誓願によって煩悩の惰性を用いて人間の世に生まれるが、あくまでもそれは実際の業による報ではないので十にはならず、九である。

別教の菩薩は、空・仮・中の三諦を順番に観察して、中道に至る行を修することに応じて十如是がある。この菩薩は、見惑と思惑を断じても、自ら誓願して生まれ変わろうとするならば、十を備える。

そのように、この世に生まれることにおいては三種の違いがある。一つは、全く煩悩を断じ尽くすことなく、この世に生まれる菩薩であり、それは三蔵教の声聞と縁覚、および通教の声聞と縁覚と菩薩である。たとえば、この世における一般人が、全く見思惑を抑えていないような存在となる。二つめは、煩悩を抑えてこの世に生まれる菩薩であり、それは別教の十住・十行・十廻向の位の人で、中道を修して、無明は抑えるだけでまだ断じ尽くしていない状態である。たとえば、一般人と同じ生死における小乗仏教の方便の道のようである。三つめは、無明を断じ尽くしたうえでこの世に生まれる菩薩であり、たとえば、初果の位において見惑を断じても、なお七回生まれ変わるようなものである。まだ煩悩を完全に断じたり制御したりせずに生まれることは、方便の行である空と仮を観じる行によって得られる真無漏を因として、無明を縁とするのである。また煩悩を完全に断じ尽くしたうえで生まれることは、中道に対する執着を因として、無明を縁として、この世に生まれるのである。

〇第五に、仏界の十如是について述べる

仏界の十如是については、すべて中道ということにおいて明確にできる。『維摩経』に「すべての衆生はすべて悟りの相である。また獲得することのできないものである」とある。これは、仏性(ぶっしょう)を表わすための教えや修行である縁因仏性(えんいんぶっしょう)を仏の相」することである。そして性は本性のことであるから、もともと内にあって失われるものではない。そのため、内に備わっている悟りの智慧自体が、その者がその智慧を得ることを願うのである。この智慧がすなわちもともと備わっている智慧を照らし出す了因仏性(りょういんぶっしょう)であり、仏の性である。また、清らかさを獲得するのではなく、もともと清らかである自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)が、衆生に仏性として備わっているという正因仏性(しょういんぶっしょう)であり、それは仏の体である(注:この「正因仏性」「縁因仏性」「了因仏性」の三つを「三因仏性(さんいんぶっしょう)」という)。またこれを三軌(さんき)という(注:三軌とは、本来備わっている霊的真理を意味する真性軌(しんじょうき)と、真理を照らす智慧である観照軌(かんしょうき)と、智慧が働くことを助ける資成軌(しじょうき)の三つである。このことも後に詳しく述べられる)。次の力とは、最初にこの上ない悟りを求める心(=菩提心・ぼだいしん)を起こして、声聞乗と縁覚乗を越えさせる働きのことである。作とは、四弘誓願(しぐせいがん)の重要な誓いのことである(注:四弘誓願とは、人々は数が多いがすべて悟りに導こうという衆生無辺誓願度、煩悩は無量だがすべてを断とうという煩悩無尽誓願断、法門は尽きることがないがすべて学ぼうという法門無量誓願学、仏道は無上だが成就しようという仏道無上誓願成の四つの誓いのこと)。そして因とは荘厳なる智慧であり、縁とは荘厳なる福徳であり、果は、一念における完全な悟り、この上ない明朗な悟りの体験である。そして報は、果である悟りによって得られるところの、煩悩を滅ぼし尽くした完全な涅槃である。そこに、禅定、三昧のすべてが備わっている。これが報果である。そして、本末等とは、最初の相・性の空・仮・中の三諦は、究極的な三諦と異ならないために等という。空諦の等とは、衆生の真如(しんにょ・真理と同じ意味)と仏の真如は等である。また俗諦(ぞくたい・この世のすべてのありのままの事柄を指す)における等とは、この世の次元に生きる悟りを求める心のない人々に対しても、仏は遠い将来、そのような人々も仏になると授記(じゅき・将来に仏となるという予言を授けること)することである。仏はすでに成仏しているわけであるから、仏が前世のことを説くならば、最初と後の相は異なることになる。これは仮諦の等である。さらに中諦の等とは、一般人も仏もそのままで真理の姿として等ということである。