大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  05

『天台四教儀』現代語訳  05

 

第六節「法華涅槃時」

(注:前回見たように、化儀の四教はすでに終わった。ここからは、五時と五味のみの範囲となる。五時は法華涅槃時であるが、本文ではまず『法華経』について述べられるので、第六節第一項として「法華経」とする)。

 

第一項「法華経

 

次に『法華経』について説く。前に述べた頓教と漸教を開いて、非頓非漸に会入(えにゅう)する。このために、開権顕実(かいごんけんじつ)という。また廃権立実(はいごんりゅうじつ)という。また会三帰一(えさんきいつ)という。これらの名称は、『法華経』以前に説かれた経典でも見られるが、その意義は『法華経』では異なっているのである。

(注:ここにあげられた四文字熟語の内容については、この後の箇所で詳しく述べられるが、ここでは用語的な説明をする。

まず、「開」と「会」という言葉についてであるが、これは「開会(かいえ)」という言葉をもって、天台教学で多く使われる非常に重要な用語の一つである。開とは、対象となる概念や教えの本質を明らかにすることである。つまり、閉じられて中が見えないようになっていた扉を開いて中を見せる、というような意味である。そして会とは、表面的には異なっているように見える概念や教えであっても、本質を開くならばみな同じであり、それらをみな究極的な真理そのものとする、という意味である。

「頓教と漸教を開いて非頓非漸に会入する」とは、ここまで説かれてきた頓教と三つの漸教の本質を明らかにして、その頓教でもなく漸教でもない本質において一つの真理とするということである。「開権顕実」とは、見た目には仮の教である権と言わざるを得ないが、その本質を明らかにすれば、真実の教えと同じであるので、その権がそのまま真実であることを顕わす、ということである。また「廃権立実」とは、そのように権も真実であるので、もはや仮のものだとは言わず、真実の真理であることを表面に立てる、ということである。そして、「会三帰一」とは、『法華経』以前の諸経典では、声聞と縁覚と菩薩の「三乗」はそれぞれ別々とされてきたが、『法華経』ではそれらの区別を廃止して、「一仏乗(すべての人々がみな仏になれるという教え)」に帰すという意味である)。

 

つまり、『法華経』以前の諸経典では、仮の教えの権と真実の教えの実(じつ)が異なっており、教えを聞く聴衆の能力もさまざまなのである。

まず「華厳時」においては、権と実が別々であり、権と実が円融せず、大乗と小乗の間には隔たりがある。そのため、小乗の能力しかない者にとっては、その座にいても、耳の聞こえない人や口のきけない人のようであった。『華厳経』で説かれる教えは、広大円満であり、すべての人々に対するものであるといっても、実際はすべての人が受け入れられるものではなかったので、それでは如来がこの世に出現された意義が成就しないことになる。それはなぜであろうか。最初の頓教には、一つの麁(そ・妙と対照となる言葉であり、「荒い」という意味を持つ。これも天台教学においては非常に多く用いられる用語である)である別教と一つの妙である円教がある。ここで「一つの妙」といわれる『法華経』の教えには、もともと二つとか別とかいう概念はない。したがって、ここで「一つの麁」といわれる教えは、『法華経』の教えにおける開会を待ってこそ、麁が廃止されて妙と称されるのである。

次の「鹿苑時」においては、ただ麁の蔵教の教えだけがあり、妙の教えはない。そして続く「方等時」においては、三つの麁の教えである蔵教と通教と別教があり、また一つの妙の教えである円教がある。次の「般若時」においては、二つの麁の教えである通教と別教があり、また一つの妙の教である円教がある。そして、『法華経』が説かれる時に至って、すべてが開会されて、前の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味に喩えられる教えが廃止されて、一仏乗の妙とされるのである。この四味の教えの中にある円教は、開かれる必要はない。本来自ら円融しており、開かれることを待つ必要はないのである。円教と別教が兼ねられている華厳時や、蔵教だけがある鹿苑時や、四教が相対している方等時や、通教と別教と円教が備わっている般若時の教えは、純一無雑の『法華経』の教えには及ばないのである。そのために、円教だけが妙という名称を得ているのである。

したがって、『法華経』の経文には、「あらゆる方角の仏国土には、ただ一仏乗の教えのみがある。二乗なく、また三乗もない」とある。これは、真実の教えはただ一つであることを表わしている。また「まさに正しく方便を捨てて、ただ無上の道を説く」とある。これは、真実の修行はただ一つであることを表わしている。また「ただ菩薩のために説き、小乗の人のためではない」とある。これは、究極的な教えの対象となる人はただ一人であることを表わしている。また「世間の姿は常住(じょうじゅう・常に変わらないという意味)である」とある。これは、究極的な理法はただ一つであることを表わしている。

ある人は、「『法華経』は妙なる真理をまだ得ていない教えである。ただその中に、三車の喩え、窮子(ぐうじ)の喩え、化城(けじょう)の喩えなどがあるだけで、他の経典に及ばない」と言う。

しかしそうではない。三車の喩えは、『法華経』が説かれる以前の頓教と三つの漸教の四教の権の教えを、声聞と縁覚と菩薩を指す三つの車に、そして『法華経』を大きな車に喩えて、究極的にすべての人々に『法華経』の教えが与えられるのだ、ということを述べているのである。また窮子の喩えは、乞食となってしまった息子に、最終的には父親の全財産が託されるという喩えをもって、究極的にはすべての人々に、仏の真理が余すところなく与えられるのだ、ということを述べているのである。また化城の喩えは、宝を求めて旅をする人々が、途中で疲れてしまった時に、仮に現わされた町(=城)で休んで、疲れが癒された後に、その町は消され、宝のある場所にすべての人が向かって行く、という喩えをもって、『法華経』以前に説かれた教えは、この仮に現わされた町のようなものであり、仏の本当の目的は、すべての人々が究極的な真理に至ることなのだ、ということを述べているのである。したがって、このような『法華経』に対する誹謗は、その喩えの本当の意味を知らないためであり、このような誹謗はやめるべきである。

また、太陽が昇る喩えを用いるならば、『法華経』は、正午の太陽のようなものである。それは、すべての人々に影がないことをもって、すべての人々が仏となるということであり、これは第五時である。

また、五味の喩えを用いるならば、熟蘇から醍醐(だいご)が作られるようなものであり、これは般若時の教えから『法華経』の教えに至ることであり、第五の醍醐味(だいごみ・これは「最高のもの」ということを表わす現代語にもなっている。しかし実際は、この醍醐味がどのような乳製品なのかは不明であるが、現代的に言えば、牛乳から作ったお菓子のようなものであろう。確かに、バターやチーズよりも保存がきいて、かつ手軽に食べられるものならば、最高の乳製品であろう)である。

また、『法華経』の「信解品」にある喩えによるならば、長者が親族すべてを集めて、「これは実に私の子であり、実に私はその父親である。私が今所有しているすべては、この子のものであり、私の家業はこの子に託される」と言い、乞食にまでなってしまっていたこの子は「このようなことがあるのだろうか」と非常に喜んだ、ということに相当する。これは何を意味するのだろうか。それはすなわち、般若時の次に『法華経』が説かれたということである。先に倉庫にあるすべての物をよく領知させ終わって、長者の死が迫って来た時に、家業を子に託したということは、『法華経』の前に説かれた教えを理解させ、『法華経』の教えが説かれる時になって、仏の知見に開示悟入(かいじごにゅう・『法華経』の中の言葉。真理を開いて、示して、悟らせて、入らせる、という意味。天台教学の中心的な用語の一つ)させ、将来に仏になるという授記を授けることである(注:もともと授記とは記を授けるという意味である。記とは、将来仏となることを指す。しかし、授記という言葉もすでに独立した用語として用いられているので、意味が重なることとはなるが、授記を授けると訳した)。