大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  36

『法華玄義』現代語訳  36

 

第三項 因の働きの優劣の四つの難点について

大智度論』に「多くの所で無明を破る禅定である破無明三昧を説く」とある。これは、教えの働きが優れていることである。このことを知らないことを無明という。また「仏は一切種智(いっさいしゅち)をもってすべてのことを知る。明と無明というふたつのものがあるわけではない。もし無明というものが得たり捨てたりするものではないと知れば、また無明もないのである。これを不二法門(ふにほうもん・相対を越えた絶対を体得する境地)に入るという」とある。これは、行が優れていることである。また一日、般若の智慧を行じるならば、太陽の光のもとでは蛍の光は見えないようなものである。また『維摩経』に記されているように、もし優れた香木の林の中に入れば、他の香りは感じられないようなものである。すぐれた菩薩の教えを受ければ、誰がそれより劣った声聞や縁覚の教えの功徳を求めるだろうか。また、菩薩は偉大な仏の前でも礼拝せずに座に着けたとあり、天から花が降って来ても菩薩の身には張り付かないということは、菩薩が最高の悟りに向かう道から退くことのない状態にいることである。これは、人の働きが優れているということである。また『般若経』に「五陰の色(しき)が無辺であるために、般若の智慧をまた無辺である。同じく色に続く受、想、行、識が無辺であるために、般若の智慧をまた無辺である」とある。これは説かれる真理が優れているということである。まさに知るべきである。『法華経』以前の経典の教・行・人・理は共に優れている。優れているので妙である。もし『法華経』の因の働きが優れているというならば、なぜ教判において、『法華経』を真理が隠されて明らかにされていない教えである覆相教(ふくそうきょう)とするのか。それでは教が劣っていることになり、行は覆い隠すのであるから、劣っていることになる。覆い隠して仏性を明らかにしないのであれば、理は劣っている。このように、行・教・人・理の統一が欠けているのであるなら、『法華経』は劣っていることになり、麁である。かえって『法華経』以前の経典の働きは優れており、優れているなら妙である。

第四項 果の正体の広狭の四つの難点について

もし『法華経』以前の経典の果の正体が、煩悩を完全に滅した有余涅槃(うよねはん)と、有余涅槃に至った者が、さらに死によって身体的な苦からも脱した無余涅槃(むよねはん)であり、あらゆる功徳を完全に備えていないので、狭いとし麁とするならば、それは正しいであろうか。般若はあらゆる仏の母であり、あらゆる方角の仏はみなこの智慧を守っている。『維摩経』に「今までこのようなすべての実在に対する深い教えは聞いたことがない」とある。まさに知るべきである。『法華経』以前の経典の果の正体には、すべての功徳が備わっているのである。もし『法華経』の果の正体が広いとするならば、まさに円満の教えであり義の解釈を完了しているとすべきであろう。しかしなぜ、『法華経』を亦満不満(やくまんふまん・円満でもあり円満でもないという意味)とし、亦了不了とするのか。大乗では、如来は入滅してもこの世に常住し、涅槃こそ真の楽であり、人間の我を超えた仏の我があり、悟りの境地は浄らかであるという常・楽・我・浄を説くが、なぜ『法華経』の仏の悟りの境地は無常だとするのか。同様に、我も楽も浄もない。あらゆる功徳が欠けているならば、なぜ広いと言えるのか。もし、果の正体が広ければ、真理そのものである法身(ほっしん)はすべてのところに遍満するであろう。なぜ仏の寿命は八十とするのか。仏の寿命は数えられないほど長く、やがてその身も完全に消えて、特定の場所に縛られないとしないのか。もし果の正体が広いとするならば、まさに人や天や聖者や菩薩の持っている智慧をすべて兼ね備えた仏眼(ぶつげん)をもって仏性を見るべきであろう。まさに知るべきである。これでは『法華経』の果の正体は、行・教・人・理の統一が欠けているので狭く麁である。このことをもって『法華経』以前の経典を見るならば、かえって妙である。

第五項 果の段階の高低の四つの難点について

法華経』の果の段階が高いならば、なぜ教判において、第五時の下の第四時に該当するとされるのか(注:前にも述べたように、慧観の五時教判による)。その修行はなぜ無常を超越しないのか。人はなぜ生まれ変わりを出ないのか。説かれる真理はなぜ秘められた智慧の蔵を究めないのか。まさに知るべきである。『法華経』の果の段階は、行・教・人・理の統一が欠けているので低く麁である。このことをもって『法華経』以前の経典を見るならば、行・教・人・理の統一が備わっていて高く妙である。

第六項 果の働きの優劣の四つの難点について

法華経』の果の働きが優れているならば、その教えはなぜ真理が常に存在するということを明らかにしないのか。その修行は一瞬にして無明を破らないのか。人はなぜ法身である毘盧遮那(びるしゃな)ではないのか。真理はなぜ秘められた教えではないのか。まさに知るべきである。それでは『法華経』の果は妙法ではないことになる。どうして麁でないことがあろうか。しかし、また神通力をもって仏の寿命は延びるとする。ではそれは何の神通力か。もし意図的な神通力であるなら、仏教以外の宗教と同じである。もし初歩的な悟りによる神通力ならば、小乗仏教と同じである。もし、真理の在り方に基づく神通力ならば、それは延びることではなく、延びないことでもなく、延びることでもあり、同時に延びないことである。なぜただ寿命を延ばすことだけで、智慧の眼をもって仏性を見せないのか。なぜ優れた舌をもって真理は常に存在し続けることを説かないのか。その眼が仏性を見なければ、真理の在り方に基づく神通力ではない。麁でなければ何なのであろうか。

最初の非難で麁を知って、後はそれを繰り返したのみである。法雲は因と果に三つずつ合計六種の説を立てて、麁と妙を論じ、また行・教・人・理の統一をもって妙としている。それに対して、ここまで、麁はみな行・教・人・理の統一を備えているので、『法華経』以前の麁は麁ではないと批判した。また、法雲の言う妙に行・教・人・理の統一がないので、それでは『法華経』の妙は妙ではないと批判した。このように、法雲の六種の説に、それぞれ行・教・人・理の統一の四つをもって批判を設ければ、四の六倍で二十四になる。矛盾という言葉の通り、盾と矛が互いに攻撃し合うので、それ以上のこともなくそれ以下のこともない。以上説いた通りである。