大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  51

『法華玄義』現代語訳  51

 

①思議生滅の十二因縁

(注:人間の思考方法で理解できるので、「思議」という。これに対する言葉が「不思議」である)。

『中論』に「能力の劣った者のために、十二因縁の生滅の相を説く」とある。これは仏教以外の宗教である外道(げどう)と区別するためである。外道は、すべての実在はシヴァ神(=自在天)から生じていると誤った教えを説いている。あるいは、世性(せしょう)と名付けられる根本原理から生じていると言ったり、またその根本原理を微塵とか父母とか無因などと言ったりしている。いろいろ主張するが、どれも正しい道理に当たっていない。ここでいう正しい因縁は、誤った教えではない。

(注:ここから十二因縁についての説明となる。十二因縁は、人が現在の姿として生まれて来た過去世からの原因と、その過程と、未来世への結果を十二段階に分けて述べたものである。詳しくは「七番共解」の「起観教・26参照」で述べたので、ここでは名称だけあげると、「無明」「行業または行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」である)。

人は過去世において、無明の心のさまざまな働きを起こし、その結果、この世の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の苦しみの姿を生み出したのであり、その良い悪いの姿も実にさまざまである。『正法念処経』に、「画家は黒と赤と青と黄と白の五つの色を用いてすべての絵を描くが、その美しさや醜さや姿形は無限である。しかしその根本は、すべての画家の手から出たものである」とある。六道のさまざまな違いは、シヴァ神などが作ったわけではなく、すべて無明の一念の心から出る。無明は上品(じょうぼん・良い意味でも悪い意味でも最高という意味)の悪の行と合わさり、地獄の因縁を起こすことは、まるで画家が黒の色で描くようなものである。また無明は中品(ちゅうぼん・中ほどという意味)の悪の行と合わさり、畜生の因縁を起こすことは、まるで画家が赤の色で描くようなものである。また無明は下品(げぼん・良い意味でも悪い意味でも最低という意味)の悪の行と合わさり、餓鬼の因縁を起こすことは、まるで画家が青の色で描くようなものである。無明は下品の善の行と合わさって、修羅の因縁を起こすことは、まるで画家が黄色で描くようなものである。無明は中品の善の行と合わさって、人の因縁を起こすことは、まるで画家が白の色で描くようなものである。無明は上品の善の行となって、天の因縁を起こすことは、まるで画家が純白な色で描くようなものである。まさに知るべきである。無明はあらゆる行と合わさるために、それによって六道の名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死などが生じるのである。その上中下によって、そのさまざまな差別が生じるのである。人と天の苦楽は数えきれないほどであり、生まれてはまた死に、死んではまた生まれる。過去・現在・未来に転生することは、まるで火が付いた松明を回すようなものである。このために、『涅槃経』に「有(う・存在という意味)の川は流れ、衆生は溺れる。無明に盲目とされ、出ることができない」とある。またさまざまな経典には、この十二因縁のことを十二牽連(じゅうにけんれん・牽連とは連なり引かれるという意味)と名付けるものがある。さらに、まつわり束縛するという意味から、十二重城と名付け、また十二棘園(じゅうにきょくおん)と名付ける。この十二因縁は、次々に生滅し、一念として留まっていないので、生滅の十二因縁と名付ける。

さらに問答も含めて具体的に検討(=料簡)するならば、以下の通りである。

『菩薩瓔珞経(ぼさつようらくきょう)』の第四に、「無明は行によって十二因縁を生じ、生は老死によってまた十二因縁を生じる」とある。そのため百二十の因縁となる(注:この『菩薩瓔珞経』の引用文とされる文は、その経典の本文通りではない。そしてその経典の本文によるならば、百二十の因縁とはならない。また、ここに引用された方式でも、百二十の因縁とはならない。その理由は不明)。

最初の無明が癡(ち・悟らないこと)であるから、最後の老死に至るまで癡である。悟っていないので、癡である。最初も悟っていなければ、老死に至るまで悟りはない。癡であるために生じ、癡であるために死ぬ。もしよく因縁を悟るならば、因縁はすなわち働くことはない。そこに癡が働かないのであるから、未来世の生死も尽きる。これを黠(げち・癡の反対語)という。黠は道に従う。

また、十二縁起と十二縁生と同じであるのか、異なっているのか。これは共にこの世の次元についてのものなので、同じである。しかし、違いもある。因は縁を起こすもので縁起であり、果は縁によって生じたものなので縁生である。十二のうち、無明・行の二つは、過去世からの因であるので、縁起であり、識・名色・六処・触・受の五つは、過去世からの因が果となって現われたものなので縁生であり、愛・取・有は、現在世の因であるので、縁起であり、生・老死は、未来世の果であるので縁生である。また、無明は行の因であるので縁起であり、そのように最後の生は老死の因であるので縁起、老死は生の果であるので縁生である。

また、次の四句(①~④)がある。①縁起であって縁生でないものは、未来世の果である生・老死の二つであり、また、②縁生であって縁起でないものは、無明・行は、過去世では果であったということと、もうこの世で生まれ変わりをしない現在世の悟りを開いた聖者の死である。また、③縁起でもあり縁生でもあるのは、過去世や現在世の聖者の死を除いては、過去世や現在世における十二因縁(注:上にあげられた無明・行・生・老死以外の八つ)である。そして④縁起でもなく縁生でもないのは、真理そのものである無為法(むいほう)である。

法身経』に「あらゆる無明は必ず行を生じて離れることはなく、常に共に従う。これは縁起であって、縁生ではないと名付ける。もし無明が行を生じさせず、ある時は離れて共に従わなければ、これは縁生であって、縁起ではないと名付ける。さらに老死まですべて同様である」とある。尊者和須蜜(そんじゃわしゅみつ・世友(せう)ともいう。1世紀から2世紀のインドの仏教思想家)は、「因は縁起であり、因によって法を生じるのは縁生である。共に働き合うことは縁起であり、そこから生じるのは縁生である」と言っている。十二因縁の中の無明・行の二つは過去からのものであり、現在世において最初からあるものなので、ただ「常」である。生・老死の二つは、未来の因となるもので、現在世においてはこれ以上生じるものがないので、ただ「断」である。現在世のものである識・名色・六処・触・受・愛・取・有の八つは、どちらでもないので中道を表わす。この中道の中で、愛・取・有の三つを因とすれば、未来世を生じさせる生・老死の果を説くことになる。この中道の中で、識・名色・六処・触・受の五つを果とすれば、過去世からの因である無明・行を説くことになる。

このように、過去・現在・未来の三世においては、すべて十二因縁による因果でつながっている。因果について詳しく見るために、このように説いた。

また十二因縁を、一人の人間が受胎して出生する時の段階として「十二時」を説くならば、次の通りである。無明は過去世の煩悩の結果であるので、過去の時に属する。行も過去からの業となるので、過去の時に属する。識は過去から相続される心の働き(=認識作用)と、その心に付随するものである。名色とは、この時点ではすでに受胎して生を受けているが、まだ眼と口と鼻と耳が備わっていないので、それらの感覚はない。この名色の段階を分けて名付ければ、受胎してから七日間を歌邏羅(からら)といい、第二週を阿浮陀(あぶだ)といい、第三週を卑尸(ひし)といい、第四週を伽那(かな)、第五週を波羅奢訶(はらしゃか)という。六処(または六入)は、①眼と②口と③鼻と④耳が生じて、体の触覚の⑤身(しん)と心の動きである⑥意(い)の六入(①~⑥)が備わる。そして出生となり触の時となるが、その時は、まだ苦楽を選択することができず、危害が迫っても避けることができず、火をつかみ、毒に触れ、刃や不浄なものも触ってしまう。そして次の受の時になれば、苦楽を区別し、危害を避け、貪りが生じるが、まだ淫欲や物に対する執着は起きない。そして、愛の時となれば、貪り、淫欲、執着が起きる。さらに取の時となれば、それらを追求して動き回る。そして有の時は、体、言葉、心の三つの働きの身口意が盛んとなる。そして、上に述べた識が、さらに未来に向けて働いていることを生といい、名色・六処・触・受が未来に向けて働いていることを老死という。

また十二因縁を、瞬間的に起こるものとする「一刹那(いっせつな)の十二因縁」を説くならば、次の通りである。もし貪りの心を起こし、殺生するならば、その愚かさは無明であり、その衝動は行であり、その心は識である。意識的に行動を起こすなら、そこに名色があり、六入がある。触と受も同様である。その貪りは愛であり、その煩悩は取であり、その身と口は有である。このように、あらゆる事柄が起こることは生であり、これらが変化していくことが老であり、これらが滅びることが死である。

問う:なぜ病気についての十二因縁を説かないのか。

答える:病気というものが、すべての時と場所に必ずあるものならば説いたであろう。しかし、生まれてからずっと病気をしない者もあり得る。たとえば、薄拘羅(はくら・一生涯病気をしなかったと伝えられる釈迦の弟子)は、生涯、頭痛さえ知らなかったという。ましてや他の病気はなかったであろう。このために、十二因縁を説かないのだ。

問う:憂いや悲しみは十二因縁によるものなのか。

答える:そうではない。憂いや悲しみは最後の結果である。老死には必ず憂い悲しみが伴うようなものである。

問う:原初的な最初の時点での無明に因はあるのか。最後の時点での老死には果があるのか。もしあるならば、さらにその先に十二因縁が生じるであろう。もしなければ、因はなく果もないという異端の教えとなってしまう。

答える:因と果はあるが、十二因縁ではない。無明に因はある。それは真理に基づかない思惟である。老死に果はある。それはそれこそ憂いや悲しみである。また無明に因がある。それは老死である。そして老死に果がある。それは無明である。現在の愛・取は、過去の無明である。現在の名色・六入・触・受の四つは、未来における老死と名付けられる。受は愛の条件となる。このように、老死は無明の条件となるというのである。なお車輪のように回り続けて、互いの因となるのである。

一般の人間的次元である欲界(よっかい)には、十二因縁のすべてがある。欲望から離れた次元である色界(しきかい)には、名色がないので、十一である。物質的な束縛から完全に解放され、純粋な精神的次元である無色界(むしきかい)には、名色・六入がないので十である。しかし見方を変えれば、色界にも無色界にも十二因縁のすべてがあるとも言える。色界においてあらゆる器官がそろった状態で存在していても、それらが暴走するようなことがなければ、ただその物質と名称があるわけであるから、それは名色である。無色界において、物質的に認識される物がないと言っても、それらの名前が抽象的存在としてあることになる。まさに知るべきである。すべてに十二因縁はある。

問う:無明・行と取・有とは何が違うのか。

答える:無明・行は過去の因であり、取・有は現在の果であり、無明・行は常に因という在り方で新しく、取・有は果として現われたものなので古い。このように、無明・行は果を与えるが、取・有は果を与えない、という違いがある。