大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  12

『天台四教儀』現代語訳  12

 

②「縁覚」

次の縁覚は、またの名を独覚(どっかく・一人で悟るという意味)という(注:独覚については後述される。まず述べられる十二因縁の教えを受けた縁覚は、厳密には独覚とは言えない)。

縁覚は、仏がこの世にいる時代にあって、仏から十二因縁の教えを受けた者である。十二因縁とは(注:これから十二因縁の説明の箇所となるが、ここでの説明は、十二因縁を、人間が過去世の因によって受胎し、そして生まれてから死ぬまでの段階を表現するものという解釈に立っている。しかし、そのような生物学的にも思える解釈ではなく、あくまでも魂の働きという目に見えない霊的動きを十二段階に分けて表現するものとする解釈もある。私的には後者を取りたいが、もちろんここでは原文に従う)、一に無明であり、煩悩障または煩悩道ともいう。二に行であり、業障(ごっしょう)または業道ともいう。この二つは過去に属する(注:過去世の因という意味)。三に識であり、人が母胎に受胎して命ある人となった瞬間を指す。四に名色(みょうしき)であり、名は心のことで色は肉体のことである。五に六入(ろくにゅう)であり、六根(ろっこん・眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官)が生じることである。これまでは母胎の中のことである。六に触(しょく)であり、胎から出ることである。七に受であり、外界に対して好き嫌いの判断をすることである。識から受までの五つを現在の五果と名付ける。八に愛であり、姿形あるものを愛することであり、たとえば、男女、金銀、金錢や物などを愛することである。九に取(しゅ)であり、およそすべての外界を見て、それらに所有欲を生じさせることである。この愛と取は未来に対する因となり、みな今生(こんじょう)における煩悩に属する。これは未来世から見れば、過去の無明と同じとなる。十に有(う)であり、未来世に対する業(ごう・未来世の苦しみの果をもたらす因のこと)はすでに成り立ち、これも未来世の因であり業道に属する。未来世から見れば、過去の行と同じとなる。十一に生(しょう)であり、未来世で生を受けることである。そして、十二に老死である。これらはみな、苦諦と集諦の境界であり、煩悩が断たれることにより滅ぼされるべき対象である。

前に述べた四諦と十二因縁は同じことを明らかにしており、ただ、その表現が異なっているのみである。ではどのように同異するのだろうか。

まず、無明・行・愛・取・有の五つは、集諦に相当し、他の七種は苦諦に相当する。このように名称は異なっているが、意義は同じである。ではどうして重ねて他の表現としなければならないのだろうか。それは、人はそれぞれ能力が異なっており、またその各人にふさわしい説き方があるからである。

縁覚の人は、先に集諦を観じるのである(注:集諦を先に観じるとは、人生は苦しみであるということはよく知っているので、そもそもどうしてその苦しみがあるのか、ということから求めるということである)。つまり次の通りである。無明によって行が生じ、行によって識が生じるというように、十二因縁の最後まで観じ、未来世の生は老死によって生じるということである。これはすなわち生起(しょうき)ということである。もし逆に滅びる方向に観じるならば、無明が滅すればすなわち行が滅するというように、十二因縁の最後まで観じ、生が滅すればすなわち老死が滅すということである。十二因緣を観じることによって真諦の理法を悟るために、緣覺というのである。

また、独覚という名称は、仏が世にいない時代において、ただ一人山に籠って、すべての存在が移り行くことを観じ、自ら無生(むしょう・すべては生じもせず滅しもしないということ)を悟るために独覚と名付けるのである。縁覚も独覚も名称は異なっているが、行位は別ではない。この人は、三界の見思惑を断じるということは、声聞と同じであり、さらに習気(じっけ・煩悩が断じられた後に残る煩悩の余韻や習慣のようなものを指す)を侵すために(注:本来、習気は菩薩の行位において断じられるが、縁覚もその習気さえ消そうとするという意味で、侵すという言葉が使われている)、声聞の上に位置するのである。