大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  54

『法華玄義』現代語訳  54

 

第三 四諦

諸境についいて詳しく述べるにあたっての第三は四諦の境である。

この四諦について述べるにあたって、四つの項目を設ける。一つめは、四諦について解説する。二つめは、麁と妙を判別する。三つめは、麁を開いて妙を表わし、四つめは、観心を述べる。

 

四諦について解説する

ここにおいても、二つの項目を設ける。一つめは他の解釈を出し、二つめは四種類の四諦について述べる。

 

○他の解釈を出す

まず、ある論師は、「『勝鬘経』に有作聖諦と無作聖諦が述べられているが、これはまだ究極的な悟りを開いていない声聞と縁覚の二乗に対して、仏の究極的な悟りを表わしている。二乗は有作の四聖諦である」(注:聖諦=四聖諦=四諦)と言っている。「有作」とは「有量の四聖諦」のことである。「無作の四聖諦」とは、「無量の四聖諦」のことである。「有作」と「無作」は行における言葉であり、「有量」と「無量」は教えにおける言葉である。二乗の者は四諦を観じても、すべての教えを網羅できず、さらに得るべき教えがあるために、有作という。教えをすべて網羅できないならば、量に限りがあることになる。同じ『勝鬘経』にこの二乗は「他によって知る」とある。「知る」とは有作の行である。さらに「他によって知る」とは、すべてを知ることではない。無量の教えを知らないのである。したがって、有作・有量という。これに対して、無作・無量とは、仏の智慧に限界はなく、さらに得るべきものもないために、無作という。「自力をもってすべてを知る」とあるように、「知る」とは、無作の行である。「すべて」とは無量の教えのことである。このように解釈すれば、有作・無作・有量・無量と四つあるようであるが、ただ二つの意義をなすのみである。したがって、ここではこのような表現を用いない。

 

○四種類の四諦について述べる

四種類の四諦とは、一つは「生滅の四諦」であり、二つめは「無生の四諦」であり、三つめは「無量の四諦」であり、四つめは「無作の四諦」である。これは『涅槃経』の「聖行品(しょうぎょうほん)」に記されている。この四つは「偏」「円」「事」「理」によって四種類の四諦を分ける。

 

○生滅の四諦

霊的真理を知らない迷いの重い者たちのために、生滅するこの世の次元に即した教えであることから、このように名付けられる。したがって、苦諦と集諦は同じことであっても(注:結局、苦しみの世の苦を対象としているので同じことである)、因の集諦と果の苦諦の二つとして説いている。そして、道諦と滅諦も同じことで(注:同様に、苦の解決を指していることなので同じことである)、道諦が因で滅諦が果である。『雑阿毘曇心論(ぞうあびどんしんろん)』の偈に「すべての果性を苦諦と説き、因性を集諦と説き、すべての煩悩の要素を究極的に滅ぼすことを滅諦と説き、すべての悟りへの行を道諦と説く」とある。『涅槃経』には「認識と感覚から来る重い束縛に迫られることが苦諦であり、内面の思いや感情が苦しみという果をもたらすということを教えるのが集諦であり、戒め、禅定、智慧、無常、苦、空の教えが苦しみの根本を除くということを教えるのが道諦であり、輪廻する中での煩悩と苦しみの滅ぼされることが滅諦である」とある。『遺教』に「集諦は真実の因であり、さらに別の因はない。苦しみ(苦諦)を滅ぼす(滅諦)道(道諦)は、真実の道である」とある。これらはみな生滅の四諦を明らかにするのである。

四諦の苦諦・集諦・滅諦・道諦という順番は、現実を先にし、教えを後にしているのである。苦諦は苦しみの現実を教えるので、先にする。滅諦は真理そのものではないが、苦しみが滅ぼされることを通して真理に出会うのである。滅びるということは現実であるので、先にする。またこの世の苦しみの果(苦諦)をあげて、この世の欲望(集諦)を嫌わせ、苦しみが滅ぼされること(滅諦)は、この世の次元から出る果に導くことであり、これによって修行(道諦)を願わせるので、このような順番があるのである。

四諦は四聖諦というが、この聖(しょう)とは、誤った教えを対破するので、正聖(しょうしょう)と名付けられる。諦とは三つの解釈がある。一つめは、その自性が虚妄ではないために、真諦という意味で諦という。二つめは、この四つの諦を見て、迷いを明らかにし悟りに至るので、諦という。三つめは、この教えをもって他に教え示すことができるので、諦と名付ける。『涅槃経』に「一般の人々は苦しみだけあって諦はない。声聞と縁覚は苦しみがあるが、苦諦がある」とある。まさに知るべきである。一般の人々は聖なる真理を見ず、智慧を見ず、説くことができない。ただ苦しみだけを持ち、その諦がない。声聞には聖なる真理と智慧があり、またそれを説くことができるので、諦があるというのである。この解釈は他の経典にも共通している。