大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  56

『法華玄義』現代語訳  56

 

四諦について麁と妙を判別する

大乗と小乗の真理の教え(諦)について述べることにおいて、この四諦の他はない。教え(教)と修行(行)と悟り(証)の「教行証」が別々であるものは麁であり、教だけが一つとなっていて、行と証が別々なものも麁であり、すべて一つとなっているものは妙である。

(注:これも非常に抽象的な表現であるが、この後の文を読めば意味が明らかとなる。つまり、真理は絶対的なものであり「妙」であり、「教」「行」「証」が相対していて別々ということは、「妙」でないことは明らかであるので「麁」である。そしてこの「教」とは、具体的には「空」「仮」「中」の「三諦」を指している。そして、「三諦」は円融して一つであると説かれる。この「教」だけが一つとなっていて、「行」と「証」が別々である、ということも「妙」ではない。絶対的な「妙」の次元においては、そもそも「教」「行」「証」の三つが別々であるわけがない、ということである)。

五つの味で喩える五味の分類によれば、乳味の教えは別教と円教の両方である。声聞と縁覚はそれを聞いても理解できない。大乗の教えが小乗の教えを隔てていれば、麁と妙が一つずつあることになる。酪味の教えは蔵教だけであり、これは大乗の教えではない。これは小乗の教えが大乗を隔てている。この小乗の教えは、大乗から見れば、能力が劣っていて、たとえ優れた教えを聞いても、目が見えず耳が聞こえないようなものである。このために麁とするのである。生蘇の教えは蔵教・通教・別教・円教の四つがすべて含まれる。円教の教えは蔵教・通教・別教の教えを更新するものであるが、蔵教・通教の教えは、空・仮・中の三諦の教えを説かず、別教・円教は空・仮・中の三諦を説く。しかし別教の教えは、三諦が一つにはならないので麁であり、こうして生蘇の教えは、三つの麁と一つの妙ということになる。熟蘇の教えは通教・別教・円教の三つであり、円教は通教・別教を更新するが、円教は三諦を説き、通教は三諦を説かず、別教は三諦を説くが、三つが一つにならないので、二つの麁と一つの妙である。醍醐味の教えは、ただ一つの四諦だけである。ただ妙だけであって麁はない。これは麁に相対して妙を明らかにする相待妙である。

 

◎麁を開いて妙を顕わす

(注:麁に対する妙を説いて、麁と妙を判別することは、「相待妙」の次元からのものであるが、これはあくまでも相対的な次元のことであり、究極的な次元に立っていない。究極的な「絶待妙」は、麁と妙が対立するのではなく、麁と妙が一つであることを明らかにする。それを麁と妙の関係においては、「麁を開いて妙を顕わす」(開麁顕妙)という)。

麁を開いて妙を顕わすことについて、まず諸経論に記されているところを見る。

般若経』には、三種類の四諦を述べるだけである。その文に「色(しき・まず自分がいて、その自分の周りに自分ではないものがあるという認識)は空であって、その色が滅して空になるのではない」とある。これは無生の四諦のことである。また「すべての実在は、色(注:ここでは認識によって作り出されたものを指す。決して物質的な色彩を意味するのではない)を拠り所とするものであり、その範囲を越えない」とある。これは無量の四諦のことである。また「色すら実体として得ることはできない。どうして拠り所がある、拠り所がないということがあろうか」とある。これは無作の四諦である。

『中論』の偈の文にもまた無生の四諦と無量の四諦と無作の四諦の三つが説かれているが、最後の二章のところには、小乗の観法が説かれており、これは小乗の教えの生滅の四諦である。『無量義経』には、一より無量が生じることを述べているが、これは無作の四諦から三種類の四諦が生じることである。『法華経』では、無量の一に入ることを説いている。これは、三種類の四諦を無作の四諦に帰一させることである。

『涅槃経』の「聖行品(しょうぎょうほん)」では、さまざまな経典を分析しているので、具体的に四種類の四諦を説いていることになる。その「徳王品」には、さまざまな経典に記されている四種類の四諦は、言葉にすることができないもの、つまり「不可説」だとしている。その文に「生生不可説、生不生不可説、不生生不可説、不生不生不可説」とある。経には最初の句を解釈して「生生不可説とはどういうことだろうか。生生であるので生である。生生であるので不生である。したがって不可説である」とある。もしこの文によるならば、ただ生不生を用いて生生を解釈しているだけである。この生生はすなわち生不生である。ではなぜただ生生だけを説くのであろうか。それは、仏は能力の高い人のために、一つを用いて他もそれにならって知るようにするのである。もし意味を説くならば、生生はすなわち生不生であり、同時にまたすなわち不生不生である。なぜただ生生の一句だけに限ったことであろうか。この意味を知れば、他の三句もみな意味は同じである。

問う:なぜ仏は偏った解釈をするのか。

答える:これは能力の高い人のためであり、そこには理由がある。当時の人々は、賢い馬が鞭を見ただけで、それが打たれる前に騎手に従うようなものである。このように、四句の違いを消していけば、消えないものはないのである。

(注:この「賢い馬と鞭」の喩えは、すでに七番共解の会異の弁相の箇所(21)と、絶待妙の箇所(47)で説かれている。会異の弁相の箇所では次のようにある。「故に『中論』にいわく、「道に向かう人のために四句を説く。快馬の鞭影を見て即ち正路に入るがごとし」と。もし四句を聞き、心に取著を生ぜば、みなこれ戯論なり。豈に第一義ならんや」。つまり、四句は不可説だとしているにもかかわらず、それだけで思考を働かせることをやめず、さらに「心に取著」を生じさせるならば、愚かな馬が鞭を打たれるようなことになる、というのである。したがって、「生生」の一句だけを説けば、他の三句は同様に不可説であるので、能力の高い人に対してそれ以上説く必要はない、ということである)。

あるいは、四句すべてを言葉で表現できるもの、つまり可説としたうえで、生生・生不生・不生生の三句を麁とし、不生不生を妙とする。あるいは、すべてを不可説としたうえで、生生・生不生・不生生の三句を麁とし、不生不生を妙とする。あるいは、可説の四句をすべて麁とし、不可説の四句をすべて妙とし、あるいは、可説の四句の中に、麁と妙があるとする。あるいは、不可説の四句の中に、麁と妙があるとする。あるいは、可説の四句はすべて麁でもなく妙でもなく、あるいは、不可説の四句はすべて麁でもなく妙でもないとする。

ここでは、これらの解釈をすべて妙だとして、仮を開いて真実を表わす。四句をすべて不可説とすることは、悟りの段階の高いことを意味する。四句をすべて可説とすることは、その本質が多様に渡っていることを意味する。四句に可説と不可説があるとすることは、その働きが優れていることを意味している。四句が可説ではなく不可説でもない、ということは、悟りの段階の高いことでもなく、その本質が多様に渡っていることでもなく、その働きが優れていることでもなく、劣っていることでもなく、一つでもなく異なっていることでもないということであり、すべて妙とするのである。

 

◎観心を述べる

観心については、以上のことから知るべきであり、特に記すことはしない。

 

(注:以上で「四諦」についての記述は終わる)。