大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  57

『法華玄義』現代語訳  57

 

第四.二諦

諸境についいて詳しく述べるにあたっての第四は「二諦の境」である。

この二諦について述べるにあたって、四つの項目を設ける。一つめは、概略的にあらゆる二諦についての意味をあげる。二つめは、二諦について解説する。三つめは、麁と妙を判別する。四つめは、麁を開いて妙を表わす。

(注:「四諦」が終わり、次に「二諦」となる。二諦とは、真理を明らかにする教えである「真諦(しんたい)」(または「第一義諦(だいいちぎたい)」などと言う)と、この世の存在のありのままの在り方を説く「俗諦(ぞくたい)」(または「世俗諦(せぞくたい)」「世諦(せたい)」などとも言う)の二つを指す。しかし、仏教全般においては、何をそれぞれ「真諦」とするか「俗諦」とするかには諸説ある)。

 

◎概略的にあらゆる二諦についての意味をあげる

二諦とは、その名称はあらゆる経典にあるが、その意味はさまざまである。諸説あって統一されていない。『妙勝定経(みょうしょうじょうきょう)』に「仏は昔、文殊菩薩と共に二諦について論争して共に地獄に堕ちた。迦葉仏(かしょうぶつ)の時になって共に疑いを晴らした」とある。仏と文殊菩薩の二人の聖人ですら、その修行の時点では悟ることができなかった。ましてや情の強い人間が正しく理解できるであろうか。

問う:釈迦は迦葉仏の時は、二度生まれ変われば仏になる菩薩(二生の菩薩)であった。なぜそのような高い位で初めて二諦を理解したというのか。また、二生の菩薩の前が地獄だったということも理解しかねる。

答える:前と言っても意味が広い。なぜ二生の直前に地獄から出たとすることができようか。また二生の菩薩は、一度生まれ変われば仏になる位(一生補処・いっしょうふしょ)の直前である。この補処の位も細かく分ければ多い。別教と円教にはこのことは説かない。通教の見地(けんじ)の位は、地獄を免れ、再び地獄に堕ちることはないと説く。すると、これは蔵教の菩薩であろう。二生になっても、まだ煩悩を断ずることができず、この時初めて二諦を理解できたのである。このような解釈で問題はないはずである。その前に地獄に堕ちるということも理解できる。

問う:三蔵教の菩薩に地獄に堕ちることがあって、他の三つの教えにないというならば、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう・この経典は三蔵教の経典ではない)』になぜ、「十地(じゅっち・この位の第四番目が見地である)の者にはまだ猛獣に対する怖れがある」(注:実際には怖れがあるとは記されていないが、猛獣などから守られる方法が説かれている)というのだろうか。

答える:悪友に殺されるならば、地獄に堕ちる。悪い象に殺されるならば、地獄には堕ちない。しかし、円教における肉体は、一生の間で他の位を越えて十地に上ることになる。これはすなわち煩悩をすでに断ち切って、地獄に堕ちる業はなくなっている意味である。しかしなお肉体はあるのだから、猛獣からの難は免れない。他の教えの肉体は、一生の間では十地に上ることはできない。ただ観心の行において、煩悩を猛獣とするのみである。観心においてはそのように解決されるのであるが、肉体があればそれは解決されない。

しかし、解釈はさまざまである。荘厳旻(そうごんびん・梁の時代の論師)は、仏の悟りは二諦を越えると主張して、中論師(ちゅうろんし・中論を研究する論師)と対立した。二諦を越える仏の智慧があるならば、どのような真理を明らかにするものなのだろうか。もし二諦以外の真理を明らかにするものでなければ、二諦を越えるなどとするべきではない。もし、二諦を越えて、別に明らかにする真理がないなら、何によって越えるのだろうか。それでは三諦を成就できず、二諦も成就しない。梁の時代には、荘厳旻のような『成実論』を研究する者たちの主張はさまざまであった。あるいは、「二諦のうちの世俗諦には、名称、働き、実体がある」とし、あるいは「名称と働きはあるが実体はない」とし、あるいは「ただ名称だけで、働きや実体はない」という。また陳の時代に、『中論』を研究する者たちの主張もさまざまであった。あるいは、古来の二十三人の解釈家たちの二諦の解釈を批判して自らの説を立て、あるいは、他を批判してから、仮(け)に四種類(四仮)あるとして、それによって二諦を解釈するなどし、古今の解釈家たちは自らの主張をするばかりで他の説を受け入れない。

しかし私はそうではないという。そのような経論の説の違いは、すべて如来の巧みな方便である。相手の能力を知り、相手の願いを知り、それにしたがってさまざまに説く。それぞれ主張が異なる理由については、随情(ずいじょう)・随情智(ずいじょうち)・随智(ずいち)の三つにまとめることができる。

随情とは、個人個人その性格も心情も違うわけであるから、主張もそれに従って異なって来るということである。『毘婆沙論』に、この世の次元において、仏の道を求める者の最も上位に位置する者(世第一法・せだいいっぽう)に無量の種類があると述べている通りである。間もなく悟りの段階に入って行く者でさえそうであるのだから、ましてや他の者はどうであろうか。目の見えない人に順番に牛乳の白さを説明して、それぞれの意見を聞いてもまとまらないようなものである。さまざまな論師はこのように、一つの文に執着して自ら論争を巻き起こし、互いに批判し合って一つを信じ一つを信じない。それはきりがなく、どれが真実なのか定まらない。古来の二十三人の解釈家たちの二諦の解釈をはじめ、それらを批判する者たちの主張に至るまで、経文を引用するところがあっても、それはこの随情の二諦に過ぎないと判断するのみである。もし経文の引用さえなければ、単なる思想であって、仏教以外の思想と同じで二諦には相当しない。

随情智とは、個人個人その性格も心情も違うわけであるから、その智慧もそれに従って異なって来るということであり、その智慧で二諦を説いても、それは世俗諦に過ぎない。もし真理を悟るならば、それは一つの真理に帰一する。釈迦の弟子である五百の弟子たちは、この世に肉体を持って生まれて来る因についてそれぞれの説を出し、仏はすべての説に対して、誠にその通りであると言ったと『涅槃経』にあるが、真理は一つであるから、仏はそのように言ったのである。同じ『涅槃経』に「この世の次元の人々が見るところを世諦と名付け、真理の次元に入った人々が見るものを第一義諦と名付ける」とある通りである。これは随情智による二諦のことである。

随智とは、真理の次元に入った聖人は、真理を悟るにおいて、ただ真理の次元を見るだけではなく、その智慧によってこの世の次元も理解するということである。迷いの膜が除かれた眼によって、あらゆる存在を見ると、そのまま空に見えるようなものである。また禅定に入り、観心を終えてみると、身も心も軽やかになって、薄い雲が空にたなびくようになっているようなものである。もはや心が散乱することはない。真理を悟ったならば、この世についても正しく見るのである。『阿毘曇論(注:原文には「阿毘曇」とあるが、阿毘曇に分類される論書は多く、特定できない場合が多い。以下の箇所も「阿毘曇」「毘曇」という表記は多いが、同様に『阿毘曇論』と表記する)』に「小さな雲が去って行けば、大きな雲も去って行く。煩悩が大きければ大きいほど、それを取り除いた智慧によってこの世を見ることも深い」とある。『思益経』に「この世の人々は、この世に生きて、この世の真実の姿を知らない。如来はこの世に来て、明らかにこの世の真実の姿を見抜く」とある。これは、随智の二諦のことである。

このように随情・随情智・随智の三つを理解するならば、経論にいろいろなことが記されていても、それぞれにこの三つが備わっているのである。