大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  55

『法華玄義』現代語訳  55

 

○無生の四諦

これは、真理から迷い出る程度が軽いために、理法に基づいて名付けられた名称である。苦諦に逼迫がなく、集諦に多くの執着なく、道諦に相対するものはなく、滅諦に生滅の相はない。また、苦そのものは空であるということを学び、その他の三つも同じである。また「無生」とは、集諦と道諦に名付けられる名称である。集諦と道諦は空である。空であるため、もともと集諦も道諦も生じないので無生である。このように集諦と道諦が生じなければ、苦諦と滅諦もない。すべての実在そのものが真理であって、煩悩を滅ぼした後に別の真理に到達するのではない。『涅槃経』に「菩薩たちは、苦諦に苦はないと理解する。このために、苦諦はなく、真理のみある」とある。他の三つも同じである。このために、これを無生の四聖諦とする。聖諦の意味はすでに述べた。

 

○無量の四諦

これは、仏の究極的な境地である中道から迷い出る程度が重いために、具体的な種類の数に基づいて名付けられた名称である。苦諦に無量の種類がある。十法界の姿が同じでないからである。同じく集諦に無量の種類がある。さまざまな煩悩の姿は同じでないからである。同じく道諦に無量の種類がある。大河の砂粒のように多い仏の教えはどれも同じでないからである。滅諦に無量の種類がある。菩薩が行なうあらゆる修行が同じではないからである。『涅槃経』に「認識が生じる過程における苦を知ることを、中程度の智慧とする。あらゆる認識が生じる過程を分析すれば、無量の形がある。声聞や縁覚は知ることができない。私は今までの経典においてこのことは説かなかった」とある。他の三つも同様である。これを無量の四聖諦とする。

 

○無作の四諦

これは、中道から迷い出る程度が軽いために、理法に基づいて名付けられた名称である。理法に迷うために、菩提(ぼだい=悟り)が煩悩となるということを集諦と名付け、涅槃が生死となっていることを苦諦と名付け、その煩悩はそのままで菩提であると理解することを道諦と名付け、生死がそのまま涅槃となることを滅諦と名付ける。具体的な存在すべてをそのままで中道とし、思慮なく思念なく、何の造作もないために、無作と名付ける。『涅槃経』に「世俗の諦はそのままで第一義諦である。優れた方便によって、本来一つであることを衆生に合わせて諦が二つ以上あるように説く。この世の次元から出た人が知るのは第一義諦である。一つの真実の諦(=一実諦)とは、虚妄なく、顛倒なく、常・楽・我・浄である。このために無作の四聖諦と名付ける。

さらに『勝鬘経』に無作の四諦を説く中、特に滅諦を第一とすることは、特に仏の究めるところによる(注:『勝鬘経』のこの教えは、少し後に無量の四諦の中の無作の四諦のことだとある。「仏の究めるところ」とあっても、それは究極的なものではないのである)。これは常であり、諦であり、依(え・拠りどころという意味)である。これからすると、他の苦諦・集諦・道諦の三つは無常であるので、諦ではなく、依ではなくなる。なぜなら、この三つは因縁によって消滅するものなので無常である。無常であるならば、虚妄であるので諦ではない。無常であるならば、安定した拠りどころとはならない。しかし滅諦だけは、因縁によって生じるものではないので、常である。虚妄ではないので、諦である。最も安穏であるので、依となる。このために、これを第一義諦と名付ける。また不思議と名付ける。

しかし、達摩鬱多羅(だつまうったら・四世紀ごろのガンダーラ地方出身の論師)は、この義を批判して次のように言っている。「『経(何の経典かは不詳)』には、『仏の悟り(=菩提)の道には次の三つの義によって常である。一つは煩悩が尽きているので常である。二つめは煩悩によって生じないので常である。三つめに煩悩から完全に解脱しているので常である。あらゆる川が海に帰一するようなものである』とある。なぜ仏の悟りの道である道諦は無常と言うのか」。

この達摩鬱多羅の問いに答える。『勝鬘経』に滅諦を第一義諦とするのは、苦の滅諦は、すべての実在を否定する「滅」ではないからである。それは無始であり無作などであり、大河の砂の数ほどの仏の教えを成就する。『勝鬘経』では、如来法身は煩悩の蔵からは離れていないと説く。したがって、苦諦が隠れていることを如来蔵(にょらいぞう・仏の悟りが可能性として存在するという意味)と名付け、それが現われているのを法身と名付けると説く。声聞と縁覚の二乗の空の智慧は、常・楽・我・浄を見もせず知りもしない。これを明らかに説こうとして、滅諦は常住であり真実であり依であるとする。煩悩を対治し、障りを除き、法身が現われるということがあるので、苦諦・集諦・道諦の三つは常住ではなく真実ではなく、滅諦こそが常住であり真実であると説いているのである(注:つまりこれは相対的な真実である)。

問う(注:「問う」は補足して書き加えた):もし、滅諦がこのようであるならば、無作の諦であり、苦諦・集諦・道諦の三諦は無作の諦ではない。滅諦は完全な教えである了義であり、三諦は了義ではないということになる。

答える(注:「答える」は補足して書き加えた):まさに知るべきである。『勝鬘経』の説くところは、次第を言っているのであり、浅いところから深いところに向かうものであり、それぞれが別々であって一つにはなっていない。すなわち一段階低い無量の四諦の中の無作の四諦を言っているのであって(注:四諦が無量にあるならば、その中で、相対的に無作の四諦もある。しかしそれは究極的な無作四諦ではない、というのである)、悟りを求める心である発心(ほっしん)と究極的な悟りの二つが別々ではない究極的な無作ではない。『涅槃経』に「諦あり有あり」とある通りである。まさに知るべきである。究極的には苦・集・滅・道はすべて諦であり真実であり常住である。