大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  76

『法華玄義』現代語訳  76

 

また、「析空観の蔵教の二智」「体空観の通教の二智」「体空観に中道が含まれる別入通教の二智」「体空観に中道が表わされている円入通教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十二種の二智は、すべて麁とするが、この中に中道も表わされているので、それは妙である。なぜなら、この妙は、後の「別教の二智」「円入別教の二智」「円教の二智」の妙と異ならないからである。また空・仮・中の三諦を順番に観心する「別教の二智」から「別教に円教が含まれる円入別教の二智」「円教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智は、空・仮・中の三諦を順番に観心するものを麁とし、順番に観心しないものを妙とする。また「析空観の蔵教の二智」「体空観の通教の二智」「体空観に中道が含まれる別入通教の二智」「体空観に中道が表わされている円入通教の二智」「別教の二智」「別教に円教が含まれる円入別教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十八種の二智は、みな麁であり、ただ空・仮・中の三諦を順番に観心しない円教の「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三種の智慧を妙とする。また、円教の中でも、「化他の権実」「自行化他の権実」を麁とし、「自行の権実」を妙とする。

また、五味の教えの区分によれば、乳味の教えは、別教・円入別教・円教の三種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智であり、酪味の教えは、ただ一つの蔵教に「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある三種の二智、生蘇味の教えは、蔵教・通教・別教・円教の四種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十二種の二智であり、熟蘇味の教えは、通教・別教・円教の三種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智である。『法華経』はただ一つの円教の「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三種の二智である。中道を含まない酪味の教えの中の権・実はみな麁であり、醍醐味の教えの中の権・実はみな妙であり、他の乳味・生蘇味・熟蘇味の教えの三種の権・実は、中道を含まないものと含むものがあるので、麁もあれば妙もあるということになる。これ以上は自ら知るべきである。

(注:ここまでの箇所の内容は、ただ今まで述べられてきたことに基づいた組み合わせに過ぎず、何か新しい教義が加えられているわけではない。そのため、これ以上のことは自ら判断して知ることができると述べられているのである)。

ここまで述べてきたように、あらゆる智慧を解釈することをしなければ、あらゆる経典の異なる教えの意味を理解することは難しい。なぜなら、『華厳経』に「過去現在未来の三世の諸仏は、初住(しょじゅう・菩薩の初期段階の位)の智慧を知らない」とある。一般的にこの文の解釈については、「仏の如実智(にょじつち・すべてを知る仏の智慧)は、仏も仏自らの如実智を知らない。また初住の如実智も知らないのだ」と言っている。この解釈は、実に霊的真理において正しいと主張しても、実は正しくない。蔵教と通教の仏は、如実智を説いていない。知っていながら説かないことはないのだから、なぜ「仏も仏自らの如実智を知らない」と言うことができるだろうか。また別教の初住の位の人も、まだ如実智は得ていない。なぜ、「自らの如実智を知らない」と言うことができるだろうか。もしここまで述べて来たあらゆる智慧の意義から見れば、三世の蔵教の仏は、円教の初住の如実智は知らないのだ。これは、事象と理法の二つの解釈を兼ね備えているからである。なぜなら、この解釈は、まず「析空観の権実」「体空観の権実」「体空観に中道が含まれる権実」「体空観に中道が表わされている権実」「別教の権実」「別教に円教が含まれる権実」「円教の権実」の七つに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三つがあり、全部で二十一種類の権・実の二智を分別し、次に麁に相対して妙を論じるからである。ここまで述べて来た通りである。

もし麁を開いて妙を表わせば、すべての方便の諦は、融合して妙諦となるので、諦に対して真実の智慧をもって照らせば、すべて麁ではなくなる。貧しい人の家であっても、そこに王が来て滞在するならば、そこは王の宮として荘厳されるようなものであり、多くの川が海に入れば、すべて同じ塩味になるようなものである。あらゆる麁の智慧を開けば、すなわち妙の智慧となるのである。

権・実の二智は、多くの教えに関わっているので、それらを比べ合わせるべきである。ここでは「七種の二諦」に対して、この二十一種の権・実の二智を比べたわけであるが、この意義を知れば、「十二因縁の境」と比べることもこれと同じであることを知る。すなわち、「析空観の十二因縁の二智」「体空観の十二因縁の二智」「体空観に中道が含まれる十二因縁の二智」「体空観に中道が表わされている十二因縁の二智」「三諦を順番に観心する十二因縁の二智」「三諦を順番に観心することを帯びる十二因縁の二智」「三諦を順番に観心しない十二因縁の二智」である。そして各々に「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」があって、合計二十一種の権・実の二智となる。さらに麁と妙を分別し、五味の教えを判別し、相待妙と絶待妙によって述べることなど、同じく四諦・三諦・一諦などにも応用できる。これは自ら知ることができるはずなので、ここで詳しく記すまでもない。

問う:随情の諦および化他の智慧はなぜ無量なのか。随智の諦および自行の智慧はなぜ多くないのか。

答える:一人の人を見ても、まだ仏道を究める前は、邪見の心が盛んに起こり、邪悪な執着が極まりない。ましてそれが多数の人となれば、どれくらいであろうか。このために、随情は多いのである。智慧は真理を見抜く。真理はただ一つなので、異なることはないのである。

このように、二諦の区別は上に述べた通りである。この七種の権・実、二十一種の権・実を説くにあたって、少しは世の人の執着するところの意義を用いるべきであろうか。少しは世の人の説く言葉に合わせるべきであろうか。少しは他の論書の主張を用いるべきであろうか。そもそも世の人は仏の教えに従わず、また経論の教えに従わないのだから、大乗と小乗の経典をもって、この解釈をしたのである。程度の低い教えを更新し、あるいは正しい教えを立てることは、すべて『法華経』の説くところである。もし、巧みな教えと拙い教えを比べれば、通教の経典の二智をもって三蔵教の経典の二智を更新し、最後の三諦を順番に観心する教えと順番に観心しない教えを比べれば、円教の経典の二智をもって別教の経典の二智を更新する。方便のあらゆる経典は、智慧を明らかにすることにおいては麁であるので、通教の経典の教えはどうして妙とすることができるだろうか。経典や論書がすでにこのようであるので、その経典や論書を広める人に対して、なぜわざわざ労して批判すべきだろうか。その教えに誤りがあれば、自ら落ちてしまうだけである。

もし生滅の教えをもって権・実の二智を解釈するだけならば、最初の段階に留まるだけである。もし不生不滅の教えをもって権・実の二智を解釈するだけならば、二番目の段階に留まるだけである。最後の七番目まで、自然と知れるだろう。またたとえ広く経論を引用して自らの主張を飾る者も、また最初の段階の随情の二諦、その化他の権実の範囲を出ることはできない。ましてや、自行化他の権実・自行の権実を出ることができるだろうか。最初の段階の三種の権・実の二智を出ることができなければ、なぜ七番目の三種の権・実の二智まで行くことができるだろうか。もしただ最初の段階の二智だけをもって、すべての世の中の執着を破れば、それだけで精一杯である。たとえ『法華経』で説かれているところの、旅の途中で休みを取る仮に作られた町に入ることができたとしても、それはただ自行の実智のみである。なお化他の権智さえ得ることはできない。なぜ他のあらゆる智慧を得ることができるだろうか。もし二十一種類の二智を求めるならば、どれくらいの他の宗教の誤った教えを破り、どれくらいの仮の経論の教えを破ることができるだろうか。またどれくらいの正しい教えを表わし、どれくらいの権の経論を立てて、最後にそれらをすべて妙権妙実とすることができるだろうか。

世の人は蔵教の権・実さえ知らず、人間的な感情の中のものを智慧としている。もしこれが本当の智慧ならば、どのような煩悩を破り、どのような真理を立てるというのか。実際は、真理を見ることができず、煩悩を破ることもできず、ただ生死を繰り返すのみである。これが単なる迷いの感情でなければ何なのだろうか。

ここで、前の多くの麁の智慧に対して妙の智慧を明らかにするならば、それは『法華経』の相対を破る意義である。もしこの意義に照らされるならば、すべての権の経論に説かれている教えは、みな妙の真理となり、真実の智慧でないものはない。すべての権の経論に説かれる権・実の二智を照らすならば、妙智でないものはなく、すべて『法華経』で説かれるところの最も優れた大きな車である。このような『法華経』の意義は深く広いので、『中論』などで説かれるところと比べるべきではない。このことはよく考えるべきである。