大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  80

『法華玄義』現代語訳  80

 

③.行妙

(注:「迹門の十妙」の中の第三番めである「行妙」の段落となる)

第三に、行妙について詳しく述べるにあたって、三つある。一つめは、概略的に一段階ずつ進む「行」について述べ、二つめは、四教それぞれの行において、項目の数が少ないものから多いものへと順を追って述べ、三つめは、五行によって行妙を述べる。

(注:原文には、行妙について二つあると記されているが、実際は三つめとして、「五行によって行妙を述べる」という段落があるので、ここでそれを加えて三つとした)。

 

a.概略的に一段階ずつ進む行について述べる

そもそも、修行は進んでこそ意味をなすものであるが、智慧がなければ進まない。その智による理解は行を導くが、境がなければ正しい行とはならない。智を目とし、行を足として、悟りの清涼地(しょうりょうち・清浄であり平安である悟りの境地のこと)に至るのである。智による理解は行の本である。行は智を生じさせるので、行が満足してこそ智が円満となる。智は真理を表わす。真理を究めれば、智もやむ。しかし、このように相対的に共に関係し合って用いられるものは、妙行ではない。妙行とは、一行が一切行となるのである。『法華経』に、「もと無数の仏に従って、完全にあらゆる道を行じる」とある通りである。また「ことごとく諸仏のあらゆる道法を行じる」とある。すでに具し、また深くまた尽くすのである。この具とはすなわち広という意味であり、深はすなわち高という意味であり、尽とはすなわち究竟という意味である。この妙行は、前に述べた境と智と一つであり、しかも三つであり、三つにして一つである。前に述べた境は法相(ほっそう・教えの形)のようであり、法相もまたこの三つを備えるので秘密蔵と名付ける。前に述べた智は法相にそって理解を生じさせる。その理解にまたこの三つを備えることは、天の霊的存在の顔に目が三つあるようなものである。今ここで述べる行はまさに文字通り行じることである。この行にもまた三つを備えることは、悉曇文字の「伊」字(三つの点によって成り立っている文字)のようである。三つであっても一つであっても、何ら欠けるところがないために、妙行と呼ぶのである。

前に境に対して智を述べたが、ここではまた智に対して行を明らかにする。しかし実際、一つの智に対して行を明らかにすれば、その行は塵や砂のように多くあって、とても述べ尽くすことはできない。ましてや、あらゆる智に対して、それぞれの行を述べて導くことなどできようか。すなわち、その広いことはどこまでも広がる虚空のようである。このように真実を前にして言葉を失い、説くことはできない。『大智度論』に「菩薩は般若(最高の智慧という意味)を行じる時、特定の一つの教えをもって行としてすべての行を総括し、あるいは特定の一つ教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括し、あるいは特定の一つ教えにおける二つの教えを行としてすべての行を総括し、あるいは特定の二つの教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括し、このように、十の教え、百の教え、千万億の教えを行としてすべての行を総括し、あるいは、十の教えにおける無量の教え、千万億の教えにおける無量の教えを行としてすべての行を総括する」とある。行は多いとしても、智をもって本とする。智は導き手のようであり、行はそれに導かれる商人のようである。智は鋭い針のようであり、行は長い糸のようである。智が行の牛をよく操れば、車は安全に目的地に向かって進むのである。この数多い行を用いて、前に述べた十如是や四諦などの智にはじまって、一実諦とその智が指し示すところに向かうのである。この意味を理解すれば、正しい智をもってあらゆる行が導かれ、正しい境の中に入る。この意義は知識だけではなく、まさに行をもって知るべきであるので、これ以上はここに述べない。