大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  83

『法華玄義』現代語訳  83

 

○別願

また、四弘誓願は総合的な総願であるが、個別的な別願について次に述べる。自分自身の心を抑制することから別願が起こる。たとえこの身が熱せられた鉄の床に臥すようなことになっても、破戒することになるなら、他の床には移らないというほどの決意である。十二の誓願(女を犯さない、破戒の状態で衣・食・臥具・薬・房舎・礼拝を受けない、五感から受ける色・香・味・触・法の妨げを受けない)をもって、自らの心を抑制するのである。

またさらに『涅槃経』には、自分ばかりではなく他の者のために誓願を起こすことが次のように記されている。「願わくはすべての衆生が、①禁戒を持ち保つことができ、②清浄戒、③善戒、④不欠戒、⑤不析戒、⑥大乗戒、⑦不退戒、⑧随順戒、⑨畢竟戒、⑩具足諸波羅蜜戒を得ることを」。この十の誓願をもって衆生を守る。菩薩は一つの持戒の心や多くの誓願の行をもって、戒律を荘厳するのである。他の行の心もまた同様である。

しかし、この誓願の中にある十種の他を守る戒律は、先に述べた自分の五種類の戒律の中から出る。根本業清浄戒と前後眷属余清浄戒から、①禁戒、②清浄戒、③善戒が出る。なぜなら、戒律の具体的項目は禁戒であるからである。そして、禁戒を犯さなければ清浄となる。清浄戒は動きのない善であり、一方、次の善戒は行動を伴う善である。

そして、非諸悪覚覚清浄戒から④不欠戒が出る。なぜなら、身の行ないから出る悪を防御できたとしても、妄念はしばしば起こって煩悩が生じるからである。もしさらに禅定に進めば、具体的な事柄において欠けるところはなく、禅定に根差せば、本性として欠けることがなくなる。

護持正念念清浄戒から⑤不析戒が出る。これは道共戒によることである。認識の対象を滅して空を悟るのは、析空観の教えである。さらに体空観によって空を悟るために、不析(注:析空ではないという意味)と名付ける。また内に道共戒を得て真理に向かえば、戒律そのものが牢固となり、破られることはない。

廻向具足無上道戒から、⑥大乗戒、⑦不退戒、⑧随順戒、⑨畢竟戒、⑩具足諸波羅蜜戒が出る。⑥大乗戒とは、菩薩は性重戒と息世譏嫌戒を保ち、等しく行じる。自ら悟りを求めるにおいて、性重戒は重要である。そして衆生を導くことにおいて、息世譏嫌戒は重要である。小乗の人が自らを整えるためには、性重戒は重要であるが、衆生を導くことはないので、息世譏嫌戒は重要ではない。菩薩はこの二つの戒律を平等に保つので大乗戒というのである。次の⑦不退戒とは、道から外れたところにおいても行じる優れた方便をもって、売春宿や酒場や非法がはびこる場所においても、巧みに人を導き、それでも本人は禁戒から退くことはない。医者が病を治療して、本人はその病にかからないようなものである。このために不退戒というのである。⑧随順戒とは、物事の適切な対応において、その道理に従うので、随順戒というのである。⑨畢竟戒とは、堅く無上の教えを究竟することである。そして、⑩具足諸波羅蜜戒とは、広くすべてを満たし、欠けた所のないことをいう。

○『大智度論』と『涅槃経』の戒律の対照

大智度論』にもまた十種類の戒律をあげている。不破戒・不欠戒・不穿戒(ふせんかい)・不雑戒の四種は、上に述べた『涅槃経』の根本業清浄戒の中の①禁戒、②清浄戒、③善戒、④不欠戒のことである。『大智度論』の随道戒は、『涅槃経』の護持正念念清浄戒の中の⑤不析戒のことである。『大智度論』の無著戒(むじゃくかい)は、『涅槃経』の廻向具足無上道戒の中の⑦不退戒である。『大智度論』の智所讃戒(ちしょさんかい)は、『涅槃経』の⑥大乗戒である。『大智度論』の自在戒は、『涅槃経』の自在戒である。『大智度論』の随定戒(じゅいじょうかい)は、『涅槃経』の⑧随順戒である。『大智度論』の具足戒は、『涅槃経』の⑩具足諸波羅蜜戒である。そして、『涅槃経』には⑨畢竟戒とあるが、『大智度論』では随定戒とある。これらは大同小異であり、意義においては同じである。『涅槃経』は、菩薩の次第に進む聖行を述べようとするために、すべてあらゆる戒律の浅深の最初から最後まで連ねている。それらをよく保てば、修行の最初の段階である初不動地に入る。不動・不退・不堕・不散を戒聖行と名付ける。

○戒聖行の麁妙と五味

戒聖行は、始めの浅い行から深い行に至るので、その麁と妙を判別することがでいる。①禁戒、②清浄戒、③善戒の三つの戒律は、律儀戒に属する。律儀戒はすべての人に共通するものなので、能力の高い人に向けての戒律や能力の低い人に向けての戒律の順序がある。菩薩や仏も包含されるとはいえ、特に別に項目を立てないので、同じである。ただ、そこに仏の悟りがあるかないかによる。ここから、律儀戒は三蔵教の戒律であることがわかる。すでに述べたように、④不欠戒は定共戒から出るものであり、これは根本禅であり具体的な事柄であるので、また三蔵教に属する。このために麁である。⑤不析戒は体空観の道共戒なので通教である。⑥大乗戒、⑦不退戒は別教である。また通教も兼ねる。通教の人は仮から出る場合があり、その人の能力に応じ、真理に応じ、道において退くことがない。しかし、真諦において別教の人には及ばない。別教の人を妙とするのである。⑧随順戒、⑨畢竟戒、⑩具足戒は円教である。心の作用をすべて滅ぼした瞑想によらないまま、あらゆる姿を表わし、真理の道を捨てることなく、一般人に対応するので⑧随順戒という。⑨畢竟戒は、仏だけが保っている浄戒であり、これに比べると他の人の戒律はすべて汚戒となるので、このように名付けられる。そして、⑩具足波羅蜜戒は、この戒律の対象はすべての世界であり、すべての仏法と衆生法を備え、戒律により悟りに至るのでこのように名付けられる。『維摩経』に「このようなことを戒律を奉じることとし、よく理解することとする」とあり、『法華経』には「私たちは長い間、仏の清らかな戒律を保ち、教えの王である仏の教えの中において清らかな行を修し、はじめて今日、その報いを得ました」とあり、また「羅睺羅は戒律を緻密に守っていることを私はよく知っている」とある。このような円教の戒律は妙であり、他の戒律はすべて麁でなくて何であろうか。

また次に最初の戒律を保つことは乳味の教えに等しく、中間は三つの味の教えであり、最終的な戒律は醍醐味の教えに等しく、それを妙とするのである。

戒律に関する開麁顕妙については、ある者が、「『梵網経』の戒律は菩薩戒である」と言っている。

問う:菩薩戒とは何か。もし、蔵教と通教の菩薩戒であるというならば、別に大乗の菩薩たちがいるはずである。しかし、人々が同じならば、なぜ異なる戒律があるのであろうか。また、もし別に菩薩戒のようなものがあるなら、縁覚戒というものもあるだろう。

答える:三蔵教の声聞、縁覚、菩薩の三乗に区別がないので、別に菩薩戒、縁覚戒というものはない。しかし別教・円教の菩薩は別である。なぜなら、それらは三乗に通じる菩薩の他に菩薩が存在するので、その菩薩のための戒律があるのである。

問う:三乗以外に別の菩薩戒があるなら、縁覚戒は何であるか。

答える:三乗以外に、別の縁覚はいない。このようなことは、あくまでも麁に相対する次元での戒律である。

麁を開けば次の通りである。戒律の学問は、大乗の学問である。学問のことを古代インド語の「シキシャ」というが、その意味は大乗である。第一義諦は、光が青でもなく、黄色でもなく、赤や白でもないことに喩えられる。仏法僧に帰依することから始まり、基本的な五戒や二百五十ある僧侶の戒律に至るまで、すべて大乗である。それらの麁の戒は、妙の戒と別物ではない。戒律は最初から妙であるので、その戒律を保つ人も妙である。『法華経』に「あなたは私(仏)の子である」とあるのはこの意味である。これを絶待妙の妙戒という。