大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 109

『法華玄義』現代語訳 109

 

その1.五品の位について

「初随喜品(随喜)」

もし人が、前世からの良い業が深く厚いならば、あるいは善知識(ぜんちしき・仏の教えに導いてくれる人)に会い、あるいは経典に従って、完全な妙理を聞くことができる。その妙理とは、一つがすべてであり、すべてが一つであり、一つではなく、すべてではなく、不可思議である、ということである。境妙の段落で説いた通り、円教の信解(しんげ・信じ受け入れ理解すること)を起こす。一心(いっしん・瞬間的な心。一念と同じ)の中に十法界を具すことを信じることは、一つの塵に全宇宙の経典の経巻があるようなものである。

この心を開こうとして、「円行(えんぎょう・円教に基づいた修行のこと)」を修す。円行とは、「一行一切行(いちぎょういっさいぎょう・ひとつの修行がすべての修行であるということ)」である。これについて、概略的に述べるならば、「十法成乗観(じゅっぽうじょうじょうかん・①~⑩。十乗観法ともいう)」である。

つまり、一念にすべてが平等に具足して不可思議であると知り(①観不可思議境)、自分の心の中に閉じこもっていることを痛み、慈しむ心をすべてに及ぼす(②起慈悲心)。また、この心は常に寂(じゃく・心が静かに落ち着いていること)、常に照(しょう・智慧によってすべてを照らすこと)であると知る(③巧安止観)。この寂照の心を用いて、すべての実在についての偏った認識を破ることは、即空・即仮・即中である(④破法徧)。また、一心と諸心との通じるものと塞ぐものを認識する(⑤識通塞)。この心において、三十七道品を具足し、菩提の道に向かう(⑥修道品)。また、この心の中心となる教えと補助的な教えを理解する(⑦対治助開)。また、自らの心と、および凡夫と聖人の心を知る(⑧知次位)。また、心を安んじて動ぜず、堕せず、退くこともなく、散ることもない(⑨能安忍)。一心の無量の功徳を知るといっても、それに執着を生じない(⑩無法愛)。このように、十心(じゅっしん・十乗観法のこと)が成就する。要をあげてこれを述べるならば、この心は一念ごとにすべてあらゆる波羅蜜と応じる。これを円教の初随喜品の位と名付ける。

「第二品(読誦)」

修行者の円教に対する信心が初めて生じれば、よくそれを養い育てなければならない。もし事あるごとに揺れ動いてしまうならば、仏道の芽を折ってしまうことになる。ただ内に真理を観じ、外に大乗経典を保ち読誦することだけである。教えを聞くことは、観心を助ける力がある。内外そろって円教の信心をますます明らかにすれば、十心が堅固となる。『金剛般若経』に「一日三回、大河の砂の数ほどの体を捧げても、経典の一句を保つ功徳には及ばない」とある。初品の随喜の観心と智慧は目のようであり、次品の読誦は太陽のようである。太陽の光があるために、目にさまざまな色が見える。『金剛般若波羅蜜経論』に「真理においては了因(りょういん・真理を表わす因)と名付け、事象においては生因(しょういん・真理に至る因)と名付ける。福は菩提に至らない。経典を保つことと読誦することは菩提に至る」とある。教えを聞くことは大きな利益(りやく)があるという意味がここにある。これを第二品と名付ける。

「第三品(説法)」

修行者の内観がますます強くなり、その行を助けるものも備わる。円教の理解が心にあり、四弘誓願が深く動き、さらに説法を加えて、真理をそのまま広く述べ伝える。『法華経』の「安楽行品」に「ただ大乗の教えをもって答えよ。たとえ、方便をもって適切に行なうとも、最後には大いに悟らせよ」とある。また『維摩経』に「説法清ければ、すなわち智慧も清い」とある。さらに『阿毘曇論』には「説法解脱、聴法解脱」とある。説法開導(せっぽうかいどう)とは、人に教えを説くことは、その人を悟りに導くすべての因縁であるということである。教化の功徳は自分自身にも還って来て、十心は三倍となってさらに明らかとなる。これを第三品の位と名付ける。

「第四品(兼行六度)」

このように、ここまで観心が熟しても、まだ他のことに関わる余裕がない。ここで、正観がやや明らかとなったので、その傍らに他の衆生を教化することを兼ねる。菩薩は少ない布施によっても、それを虚空法界と等しくすることができ、すべての実在を檀波羅蜜(=布施波羅蜜)に結び付ける。檀波羅蜜を法界とする。『大品般若経』に「菩薩は少しの布施をもって声聞と辟支仏の上に超過しようとするならば、まさに般若を学ぶべきである」とあるのは、すなわちこの意味である。他の五つの波羅蜜も同様である。具体的な事柄は少しであっても、心を巡らすことは非常に大きい。これはすなわち真理を観じる理観を第一とし、具体的な事象における行を傍(ぼう)とするのである。このために布施を兼ねるという。具体的な事象における福をもって真理に向かう行を補助するならば、すなわち十心はいよいよ盛んとなる。これを第四品の位と名付ける。

「第五品(正行六度)」

修行者の円教の観心がやや熟して、具体的な事柄と真理を完全に融合させようとする。具体的な事柄に関わっても真理を妨げず、真理の中にいても、具体的な事柄を妨げない。このために、完全に六波羅蜜を行じる。

布施波羅蜜の時は、有と無の二辺の執着なく、十法界の身体と国土は、一つ捨てることはすべてを捨てることとなる。財産、身体、および命、畏れのない布施などである。持戒波羅蜜の時は、性重戒(しょうじゅうかい・不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒などの、釈迦以前から存在する、犯せばそれ自体が罪となる事柄を禁じる戒律)と息世譏嫌戒(そくせきげんかい・譏嫌は機嫌の本の文字。世間から悪い評価を受けないよう、一般人の機嫌を損ねないようにするための戒律で、不飲酒戒はこれに当たる。その他に、食五辛戒のように、口の息が臭くなるネギやニラなどを禁ずる戒律がある)は等しくて差別がなく、律蔵の五部律(ごぶりつ・戒律に関する五つの分派のこと)の重軽すべての戒律には触れて犯すことはない。忍辱波羅蜜の時は、無生法忍(むしょうほうにん・衆生と真理である法が共に空であり無生であると認めること)が寂滅し、負荷にも安らかに忍耐する。精進波羅蜜の時は、身も心も共に清らかで、隔てなく退くことがない。禅定波羅蜜の時は、あらゆる禅定に自由に入り、静かであることも散逸であることもない。般若波羅蜜の時は、権実の二智が究竟して通じる。さらに、この世のすべての営みは、すべて真実の姿と異なることがないと知る。仏の知見を具足して理解するといっても、正観において火が薪をますます燃やすようなものである。これを第五品の位と名付ける。

このような五品の円教の信心の功徳は、東西八方のすべてのものを用いても喩えられないほどである。円教において初心であっても、声聞の無学の位の功徳に勝る。具体的には経典に記されている通りである。

もし他と比較して解釈するならば、たとえば初心ということでは、蔵教における別相念処・総相念処の位に該当し、義によって推測するならば、通教の乾慧地のようであり、また菩薩の伏忍の位のようである。さらに推測するならば、別教の十信の位であるといえる。

私的に解釈するならば、五品の位は、円教の方便の初めである。わかりやすくするために、小乗をもって大乗を見ると次の通りである。それは小乗の蔵教における五停心(不浄観、慈悲観、因縁観、念仏観、数息観)に当てはめられる。五品の最初の品において完全に法界を信じる(注:法界を信じるとは、すべての万物に仏の教えで説く通りの法則があるということを信じ受け入れること)。上は諸仏を信じ、下は衆生の在り方を知って随喜の心を起こす。これが円教の慈悲停心というべきものである。あまねく法界の上の嫉妬を対治することである。第二品は、大乗の経典の文字を読誦する。文字は法身の命そのものである。読誦することにより聡明となることは、円教の数息停心である。遍く法界の感覚と観察を正す。次の説法品はよく自らの心を清め、また他の心も清める。これは円教の因縁停心である。遍く法界の自他の愚痴を正す。愚痴が去るために、あらゆる行が去り老死が去る。兼行六度品は、円教の不浄停心である。六蔽(ろくへい・貪欲、破戒、瞋恚、懈怠、散乱、愚痴)の最初は貪欲である。もし貪欲を捨てれば、欲望の因と果をすべて捨てることになる。捨てるためにまたその業の報いはなくなり、浄でもなければ不浄でもない。そして正行六度品は、円教の念仏停心である。六波羅蜜を第一に行じる時、具体的な事柄はそのまま真理となる。真理は仏道を妨げないが、具体的な事柄は仏道を妨げてしまうものである。しかし、具体的な事柄がそのまま真理であるならば、妨げの生じることはあり得なくなる。

五品の大意は以上の通りである。