大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  88

『法華玄義』現代語訳  88

 

◎慧聖行

聖行の三種類ある中の最後は慧聖行(えしょうぎょう)である。この慧聖行は、生滅の四諦の慧と、無生の四諦の慧と、無量の四諦の慧と、無作の四諦の慧の四つの四諦智慧ことである。

 

○生滅の四諦の慧

生滅の四諦の慧とは、次の通りである。前に述べた観禅の九想(くそう・身体の九つの不浄なことを観じる不浄観)と八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)を観じる時、業によって生まれた我が身と、周りにあるすべては腐りきった不浄の存在であることがわかる。これは、苦しみがひっ迫していることであり、苦しみがはっきり現わされていることであり、好ましくないものから受ける苦しみであり、好ましいものが破壊されることから受ける苦しみであり、無常を感じることから受ける苦しみである。これを観じることが、四諦の最初の苦諦の智慧である。

そして、迷いを起こし、我が身と周りのものに執着することによって、恩愛の奴隷となり、言動をもって地獄、餓鬼、畜生にふさわしいあらゆる悪業を起こし、それらの悪しき世界に生まれ変わる原因を作ることは、煩悩によって転生を続け、輪廻からいつまでも脱することがないことであると観じる。また、世間の因果や不浄や悪の深いことを知って、それを深く恥じるとしても、結局は他を殺して自分を生かすような道を歩み、他から奪って自ら潤し、不浄を受け入れ、正しいことをしているようでも曲がったことを隠し、自分の好き嫌いによって人を選び、持ち上げられたり落とされたりしながら、自らの心にへつらい他人におもねり、貪欲に際限なく、毒をほしいままに得て道を破り、真実を求めるようなそぶりをしながら邪悪な道を歩み、明らかな悪業を行なわないとしても不浄をなし、反省や羞恥を繰り返して、それなりの善もなそうとして、阿修羅・人・天に生まれる原因を作ることも、また転生を続けることに過ぎず、輪廻からいつまでも脱することがないことであると観じる。これを、集諦の智慧と名付ける。

自らの身と周りのものすべては不浄であると観じて、清らかなものもあるという誤った認識を破り、あらゆる感受作用は苦しみに他ならないと観じて、安楽を求めようとする思いを破り、自分というものも、あらゆる感受作用の集合体に他ならないと観じて、自分というものがあるという誤った認識を破り、また絶えず滅んでは生じる心の動きを観じて、いつも変わらないものがあるという誤った認識を破る。このような不浄・苦・無常・無我を観じるあらゆる三十七道品の修行は、涅槃の門に向かう。そして慈悲・四弘誓願六波羅蜜は大乗の修行の形である。またこれは戒律・禅定・智慧の真実の現われである。またこれはよく迷いを排除するものである。これを、道諦の智慧と名付ける。

そして、このような誤った認識が起こらなければ、業を作ることはない。業が起こらなければ、生まれ変わりを繰り返す因も起こらない。因が起こらないために、果も起こらない。これが寂滅の姿である。また、生まれ変わりが滅びる姿である。また除相と名付ける。これを滅諦の智慧と名付ける。以上が生滅の四諦智慧である。

○無生の四諦の慧

無生の四諦の慧とは、次の通りである。すべての認識が不浄であると観じる時、認識の本性は空であると知る。認識が滅んで空となるのではない。それは、鏡に映った物が鏡の中に存在しているのではないようなものである。明らかに認識作用のすべては空であって、存在するのではないと悟り、苦に苦自体の存在があるのではないと理解して、それを真諦とする。これを苦諦の智慧と名付ける。

このような認識の集合体は心にあるとしても、心は幻のようであるので、この認識の集合体も幻であり、すべての執着による見解は虚空と同じであると知る。これを集諦の智慧と名付ける。

道諦は本来、集諦を対治するものである。その対象である集諦はすでに幻のようであると知ったのであるから、対治する側もまた幻のようである。これを道諦の智慧と名付ける。

すべての実在が生じるということがあれば、また滅びるということもあるはずである。しかしすべての実在は生じるということはないので、滅びるということもない。この真理に基づく涅槃より優れたものがあるというならば、私はそれも幻のようなものだと説くであろう。これを滅諦の智慧と名付ける。

五陰の集合体に過ぎない衆生は虚空のようであると知ってはいても、その衆生を悟りに導くことを誓う。集諦はあるのではないと知ってはいても、あらゆる妄想を断じ尽くそうとすることは、空中と戦うようなものである。真理への道は、二つはないと知ってはいても、道を修することは、空中に樹を植えようとするようなものである。究極的には、悟りを得る衆生は存在しないといっても、多くの衆生を悟りに導く。この具体的な事柄も真理であることには違いないので、三十七道品・六波羅蜜を論じるのである。以上が無生の四諦智慧である。

○無量の四諦の慧

無量の四諦の慧とは、次の通りである。『涅槃経』に「仏が四諦を説いて、真理をすべて摂し尽くされたので、まだ説いていない教えは、十の世界の土のように多いと言うべきではない。もし真理をすべて摂し尽くしていないのならば、四諦の他に五諦があるだろう。しかし仏は、四諦にすべてを摂し尽くしたと言っている。第五の諦などないのである。ただ苦諦に無量の形がある。同じく、集諦、滅諦、道諦にも無量の形がある。私は他の経典においてはこのことを説かなかった」とある。もしすべてが空ならば、空になお空はない。ましてや無量であるはずがない。まさに知るべきである。これは相対的な世界から出つつ、相対的に分別する智慧なのである。この智慧において、あまねく十法界の仮の存在の真実の差別を知ることを苦諦の智慧と名付け、あまねく煩悩の差別の姿を知ることを集諦の智慧と名付け、あまねく四教において、未熟な行と円満な行の差別の姿を理解することを道諦の智慧と名付け、四教にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門あって、合計十六門の生滅門の不同を理解することが滅諦の智慧である。

声聞と縁覚の二乗はただ、四諦の薬だけを飲んで見思の惑の病を治し、自らは生死の繰り返しからは出るといっても、智慧による分別はこの世の次元から出ていない。一方、大乗の菩薩は大いなる医師の王である。すべてあらゆる脈を診断し、あらゆる病を知り、あらゆる薬に詳しく、その種類の違いも知っている。これに基づいてあらゆる慈悲を起こし、あらゆる行、六波羅蜜、三十七道品を行じ、あらゆる衆生を悟りに導き、あらゆる仏国土を清める。これ以上の詳しいことは『摩訶止観』にある。以上が無量の四諦智慧である。

○無作の四諦の慧

無作の四諦の慧は次の通りである。そもそも迷いを理解することによって、四諦が成り立つのである。『涅槃経』に「宝珠が体の中にあるにもかかわらず、それを知らないために失ってしまったと憂いて慟哭する」とある。それは、ただその身体およびでき物などを見るだけで、宝珠や鏡を見ることはないからである。ただ憂い悲しみだけがあって、歓喜はない。これは、道諦・滅諦を得てはいても、それによって、かえって苦諦・集諦を起こしてしまうことである。もしでき物がある体でさえ、すなわち宝珠であるとわかれば、喜びがあるのみで慟哭などしない。煩悩の根本である無明を滅ぼすことによって、光り輝く最高の悟りの灯を得る。この悟りの解放を得ることは、道諦・滅諦による。すなわち、道諦・滅諦は苦諦・集諦であり、苦諦・集諦は道諦・滅諦である。もしそうであるならば、四諦は四つではない。四諦が四つではないならば、無量の四諦も無量ではない。無量の四諦が無量でなければ、すなわち、相対的な次元の仮である存在は仮ではない。仮は仮ではないのであるから、空は空でない。なぜ空は空であって、空でないことがあろうか。また仮はそのまま仮ではない。この二つの相対を滅ぼすことにより、中道に入り、寂にして真理を照らす。『般若経』に「相対的次元の差別ある姿と、その中に秘められている真理の姿を観じる最上の智慧である一切種智は、寂滅の姿である。あらゆる行の真実の姿を知ることを、一切種智という」とある。「寂滅の姿」とは、すなわち空も仮も滅ぼしたことであり、「あらゆる行の真実の姿を知る」とは、空・仮を知ることによって、真理を照らすことである。意識的にそれらを観ぜずに、かつそれらを滅ぼしまた照らし、自然に真理を体得するのであるから、不可思議と名付けられる。以上が無作の四諦智慧である。