大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  89

『法華玄義』現代語訳  89

 

○無作の四諦における十波羅蜜

『涅槃経』に「苦はなく、諦もなく、真実だけがある。集なく、道なく、滅なく、諦もなく、真実だけがある。真実はすなわち中道であり、如来であり、虚空であり、仏性である」とある。このように観じる時、相対的な対象を持たない慈悲は、あるとかないとかの相対的な苦しみを抜き、中道の安楽を与える。認識の対象は清らかでも不浄でもなく、即空・即仮・即中であると修する。枯れ果てるのではなく、栄えるのではなく、中間に滅を論じるのである。そこにすべての行が備わらないことはない。あまねく十法界の自らの身とまわりのすべての存在を捨てることを、①檀(=布施波羅蜜)と名付け、中道にあって自然と戒律を保って②尸羅(=持戒波羅蜜)の彼岸に至ることを戒と名付け、煩悩を断じて寂滅に至る境地にあって、相対的な次元に動じないことを③忍(=忍辱波羅蜜)と名付け、相対的な次元に交わらないことを堅固な④精進(=精進波羅蜜)と名付け、最高の三昧にあって「首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい:最高の三昧という意味)」に入ることを⑤禅(=禅定波羅蜜)と名付け、真実の姿を知る智慧を⑥般若(=般若波羅蜜)と名付け、思惟によってなされたものでない働きを⑦方便(=方便波羅蜜)と名付け、自在の我の働きを⑧力(=力波羅蜜)と名付け、禅定を行ないながらもその禅定の姿がないことを⑨願(=願波羅蜜)と名付け、一切智・道種智・一切種智の三智を一心の中に得ることを⑩智(=智波羅蜜)と名付ける。一つの波羅蜜に十種類(①~⑩)を備え、またすべての仏の教えを備える。一つの行は無量の行であり、無量の行は一つの行である。これは如来の行である。以上を無作の四諦智慧と名付ける。

(注:十波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧六波羅蜜に、これらの補助として、方便・力・願・智の四つを加えたものである)。

 

〇二十五有と二十五有三昧について

以上述べて来た四種四諦智慧を修す時、無所畏地(むしょいじ)に入ることができる。これは初歓喜地(しょかんぎじ・菩薩の悟りの位である十地の最初)のことである。そして五つの怖れである五怖畏(ごふい)を離れることができる。その五つの第一は不活畏(ふかつい)であり、生活ができなくなるのではないか、という不安である。第二は悪名畏(あくみょうい)であり、周囲から悪く思われないかという畏れである。そして、第三は死畏(しい)であり、死への畏れである。第四は悪道畏(あくどうい)であり、悪しき者に近寄ることによって、自分も悪しき世界に堕ちてしまうのではないかという畏れである。そして最後の第五は大衆威徳畏(たいしゅういとくい)であり、世間の目を気にする畏れである。

『涅槃経』には、「貪欲、怒り、愚痴を畏れず」とある。これは、内に貪瞋痴の三毒なく、外に八風(はっぷう・①目先の利益、②名誉を受けること、③称賛されること、④楽しみを受けること、⑤衰え、⑥不名誉を受けること、⑦非難されること、⑧さまざまな苦しみを受けること)から離れれば、悪名畏はない。同じく『涅槃経』に「地獄等を畏れず」とあるのは、悪道畏がないことである。そして「沙門、婆羅門を畏れず」とあるのは、大衆威徳畏がないことである。中道を見れば、すなわち死畏はない。実在の真実の姿を見抜く智慧によって、人の寿命の定まった長さを知れば、不活畏はない。

この初歓喜地に入れば、二十五有(にじゅうごう・生死流転する六道の世界をさらに細かく二十五に分類したもの)を破る二十五三昧(にじゅうござんまい・次の段落に各名称を詳しく説明する)」を備え、二十五有の自らの本性を顕わす。それはすなわち実在の本性のことであり、その本性は仏性である。仏の知見を開いて、真実の中道を発し、無明惑を断じて、仏の真実の姿である真身(しんじん)と、衆生に応じて現わす応身(おうじん)を顕わし、縁に応じてその身を顕わすのである。百の仏世界に十法界の身を現わし、過去現在未来の三世の仏智地(ぶっちじ)に入って、よく自らを利し、他を利し、真実の大いなる喜びを得ることを歓喜地というのである。この地に常・楽・我・浄の四徳を備える。二十五有の煩悩を破ることを浄と名付け、二十五有の業を破ることを我と名付け、二十五有の報いを受けないことを楽と名付け、二十五有の生死がないことを常と名付ける。仏性が顕れることを常・楽・我・浄と表現するのは、この意味である。

『地持経』に「五怖畏を離れる」と説くのは、本来、自我というものはないという真理に立てば、自我の想念が生じないからである。ましてや、自分を養うための物に対する執着などあり得ようか。これは、不活畏を離れることである。他人に対して求めるものはなく、常にすべての人々を真理に導こうとする思いのみ持つことは悪名畏を離れることである。心に自分の見解や思考が生じないことは、死畏を離れることである。この肉体が滅んで、来世において、必ず仏や菩薩と会うという確信を持つことは、悪道畏を離れることである。世間を見るに、仲間が欲しいとは思わず、ましてや優れた者と交わりたいとは思わないことは、大衆威徳畏を離れることである。『十地経』にも同じことが記されている。そして、『十地経論』に解釈して「五怖畏の第一は身により、第二は口により、第三と第四は身により、第五は意による」とある。第一の不活畏については、その身と周りの環境が用いるところのあらゆる物が、その者の生を助けるわけであるから、それらを資生(ししょう)と名付けられる。そして資生そのものを、命そのものとしてしまっているのである。これは、資生に対する畏れが因であり、生活できないという畏れの不活が果であるので、因により果が生じる怖畏である。菩薩にこの怖畏はない。また次の第二の悪名畏については、人の評価やうわさなどは、すべて口の失言による。自らの利益のために名誉を保とうとせず、心が他人から敬われることを望まないなら、この悪名畏はない。第五の大衆威徳畏が意によるということは理解できるであろう。第三と第四は身による。善道を愛して悪道を憎むなら、身を愛したり憎んだりすることはないのであるから、悪道畏はない。またもちろん身を愛したり憎んだりしないところに死畏はない。

私的に解釈するならば、貪欲などから離れれば、無作の四諦の集諦が破られることである。悪道に堕すという畏れから離れることは、無作の四諦の苦諦が破られることである。大衆の評価から離れることは、無作の四諦の道諦が立てられることである。不活畏なく死畏もないということは、自らの変わることのない仏性を見て常を悟っているからであり、無作の四諦の滅諦が立てられることである。また次に、二十五有を破ることについては、二十五有は苦という果を含むために、二十五有を破れば集諦が破られ、果が破られるのであるから苦諦が破られる。二十五有を破る二十五有三昧を得れば、道諦が立ち、二十五有の自らの本性を見れば、それは仏性であるから、滅諦が立つ。二十五有を破れば煩悩はない。これを浄徳という。苦である二十五有の果を破るために苦諦がないということは常徳という。二十五有三昧を得ることは、楽である。二十五有の自らの本性を見ることは、我である。このように、常・楽・我・浄の四徳がそのまま成就するのである。

(注:『法華玄義』のところどころに、このように章安灌頂の「私記」が入るが、そのうちの多くは必要ないと思われる記事であり、むしろ、これまでの内容をわかりやすくするどころか、逆に複雑に思えるようにしてしまっている)。