大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 105

『法華玄義』現代語訳 105

 

○意義は通教

第二に、「意義は通教」ということは次の通りである。すなわち別教の名称を用いて、通教の菩薩の位に当てるのである。別教の名称とは、すなわち十信・三十心(十住+十行+十廻向)・十地(通教の十地とは異なっている。すなわち歓喜地、離垢地、明地、焰慧地、難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲地)である。十信の位は、通教の義においてはすなわち乾慧地、菩薩には伏忍である。三十心は、通教では性地、菩薩には柔順忍に該当する。通教の八人地と見地はすなわち別教の十地の最初の歓喜地であり、菩薩は無生法忍を得る。このために『般若経』に「須陀洹の智慧あるいは煩悩を断ずることは、みな菩薩の無生忍である」とある。通教の薄地の向と果については、向は別教の十地の二番目の離垢地、果は別教の十地の三番目の明地である。このため『般若経』に「斯陀含の智慧あるいは煩悩を断ずることは、みな菩薩の無生法忍である」とある。通教の離欲地の向と果については、向は別教の十地の四番目の焰慧地、果は別教の十地の五番目の難勝地である。このため『般若経』に「阿那含智慧あるいは煩悩を断ずることは、菩薩の無生法忍である」とある。通教の已辨地の向と果については、向は別教の十地の六番目の現前地、果は別教の十地の七番目の遠行地である。『般若経』に「阿羅漢の智慧あるいは煩悩を断ずることは、菩薩の無生法忍である」とある。通教の辟支仏地は、別教の十地の八番目の不動地であり、習気を減らすのである。『般若経』に「辟支仏地の智慧あるいは煩悩を断ずることは、菩薩の無生法忍である」とある。通教の菩薩地は、別教の十地の九番目の善慧地である。こうして別教の十地の十番目(の法雲地)は、まさに仏地のようだと知るべきである。仏地については前に説いた通りである。この仏は三蔵教の仏とまた同じく、また異なる。同じとは、三蔵教の仏は、八十歳にして真実の灰断(けだん)に入った。異なるとは、三蔵教の仏は、因は煩悩を抑え果は煩悩を断じ、通教の仏は因と果共に煩悩を断じる。三蔵教は一日のうち三回禅定に入って衆生を照らし、通教の仏においては、俗がそのまま真理であるので、衆生を照らすにあたって禅定に入る必要はない。

以上は、別教の名称を用いて位について述べたのである。名称は異なっていても意義は同じである。これらはなお通教の位に属するのである。

 

問う:以上のように、別教の十地の最初の歓喜地から七番目の遠行地までと、三蔵教の須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四果と対応させることは、どの経論に記されているのか。

答える:経論に対応させていないわけではないが、ただ高下が不同であって、解釈する者によって異なる。あるいは、通教の見地を別教の十地の最初の歓喜地に対応させるだけのものもある。先に述べたようなものである。あるいは、別教の十地の歓喜地・離垢地・明地の三地を、通教の見地に対応させるものもある。『仁王般若経』では、歓喜地・離垢地・明地・焰慧地を通教の見地に対応させている。これらのことについては、判断が難しい。ただし、通教の見地はもともと無礙道(むげどう・煩悩を断じつつある状態)なので、観心を出ないまま見惑を断じる初果の須陀洹を証する。どうして別教の十地の最初の歓喜地で見惑を断じているのなら、三地・四地で見惑を断じると言えようか。もし別の惑である塵沙惑を断じるというのなら、二乗と共通しない(注:塵沙惑は衆生を教化するにあたって菩薩が断じる煩悩であるから)。この義はここにある。また、あるいは六地に煩悩を断じて阿羅漢に等しいと言い、あるいは、それは七地だとも言う。これは判断するのが難しい。初果の須陀洹から四果の阿羅漢果まで、経論の対応はみな定まらない。その他のことは意義をもって判断するべきである。ここで意義をもって推測して定めるべきではない。

問う:七地・八地より真理の常住を観じて無明を破るとは、どの位であるのか。

答える:これはすなわち通教ではない。また別教でもない。なぜなら、通教は最初から終りまで、真理の常住を観じることは説かない。なぜその中間で無明を破ることができようか。別教は最初の段階で真理の常住を知り、初地で無明をやぶる。どうして八地で初めて無明を破るのだろうか。これはすなわち別入通教の意義である。

問う:『大智度論』では、通教の乾慧地、別教の初地、円教の初住において、煩悩を焼き尽くす智慧の焰(ほのお)を説いている。別教と円教においては、すべて無漏智を発するので、それを最初の焰とすることができるが、通教は何の意義で乾慧地をもって最初の焰の位とするのか。

答える:別教と円教はそれぞれ一種類の能力を有する者の場合に当てはめるので、無漏智を発することをもって最初の焰の位とする。通教は、さまざまな能力の人に共通する教えなので、いわゆる別入通教と円入通教である。このため、それを含めて乾慧地をあげているのである。能力の低い者は、八人地と見地が最初の焰の位である。能力の高い者は、その前の乾慧地でよく煩悩を断じるので、ここが最初の焰の位となる。

問う:能力の高い人は、まさに十地は必要ないであろう。

答える:すべてある。能力が高いために、わざわざ位を制限しないだけである。

問う:別教と円教は一種類の能力を有する者の場合に当てはめるのならば、そこに能力の高い人はいないのか。

答える:能力の高低はあっても、その本性が純粋となっているので、ただひとつの説があるだけである。まさにそれがふさわしいとすべきである。