大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 116

『法華玄義』現代語訳 116

 

もし仏が相手の能力に応じて、位を立てたり廃したりするならば、それは『無量義経』にある通りとなる。「無量の法とは、一法から生じる。いわゆる二道、三法、四果である」とある。「二道」とは、すなわち頓教と漸教である。「三法」とは、すなわち三乗である。「四果」とは、すなわち四位(須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢)である。この無量の法は、一法より生じる。なぜならば、二道は頓教と漸教ならば、頓教は大道であり、昇ったばかりの太陽はまず高山を照らすようなものである。このことはひとまず置いておく。そしてここで漸教の最初について述べれば、これはすなわち三蔵教である。その教えに、「仏を求めるならば、まさに三阿僧祇劫に六波羅蜜の修行をして、百劫に仏の相を備えて行けば、すなわち仏となる」とある。これは、あらゆる善を生じさせようとするために、このように説いたのである。仏になろうとするならば、悪を改めて善に従うのである。善が生じれば、この蔵教の教えは廃される。そして廃されれば次に、「どうして菩薩は煩悩を断ぜずに悟りを得ることができようか。毒のついた器は食物を盛るのにふさわしくない」という。このように、蔵教の教えが廃されれば、その行の位もみな廃される。最初から果を望んで因である修行をするものである。望む果がなければ、仏の智慧も仏の位も共に廃される。もし二乗について位が廃されることを論じれば、具体的事象における修行をして心を整えさせるのである。低い程度に応じて真理を見る。それにふさわしい真理を見れば、その教えの意味は満たされる。このために、析教(しゃっきょう・具体的事象を分析的に見て析空観(しゃっくうがん)を修す教え)は廃される。この意義によって、蔵教を廃して通教を立てるのである。

もともと通教を受けて三蔵教を学ばなかった人においては、三蔵教が廃されることは当てはまらない。通教を立てる意味は、理法的善を生じさせるためである。体法(たいほう・事象を分析的に見て空を知るのではなく、空を体験的に悟るための教え)をもって惑を断じ、巧みな悟りによって真理に入れば、この教の意味は満たされる。智者は空を見て、同時にまた不空を見るべきである。なぜ常に空に留まるべきであろうか。そのため通教は廃される。菩薩の行や智は、結局は存在しないものとして廃され、仏智の位も廃されるものである。しかし、声聞と縁覚の二乗はただ教だけが廃される。この通教は、ただ空を見る者に通じ、さらに不空を見る者に通じる教えである。共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧であり、三乗が共通して学ぶ)の意味は、前に説いた通り廃せられるべきである。不共般若(ふぐうはんにゃ・単に存在に実体があるという認識を破るだけではなく、その先に広く仏の性質と本性を明らかにする智慧。別教と円教だけが学ぶ智慧)はすなわち廃せられないことがある。このために知ることができる。『成実論』『十地経論』の師は、ただ共般若の意義を見るだけであり、不共般若の意義を見ない。『中論』の師は、不共般若の意義を得て、共般若の意義を失う。通教はすでに両方の意義を備えているので、通教の菩薩および方便の声聞(注:声聞であっても体空観を学ぶ者)においては、廃されるべき教えである。この位に留まる声聞には廃せられない。不共の菩薩(注:蔵教に留まる菩薩)は、廃しない。

別教の位においては、三界の外の事象的な善が生じる。もし無知塵沙惑を破って、事象的な善が成就すれば、別教の意義は満たされる。そうなれば、さらに上に向かうために、この位は廃されなければならない。この別教の教えは随他意語(ずいたいご・相手の能力に従って導く方便の教え)である。したがって、別教の教えは廃し、十地以前の行位はすべて廃する。別教における十地より上の位および仏位は、別教においては高くても、これは廃され、円教における下の位に帰す。このために、別教を廃して円教を立てるのである。

円教の五品弟子・十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の八つの位は、みな真実の位である。そのために廃されることはない。『涅槃経』に「すべての江河に曲がりくねりは必ずある。すべての林に必ず樹木はある」とある。あらゆる教えは人の情に従うために、曲がりくねりがある。薬草の喩えの三草二木は、仏の方便であるために、真実ではない。したがって、適切にこれらの位は廃されるべきである。砂が金でできている大河はまっすぐに西海に入り、金銀の樹木は宝林である。曲がることなく真っすぐである。このために廃されることはない。以前は、頓教から漸教が出たが、漸教は頓教には合わない。漸教をもって頓教に入るならば、その漸教はひとつずつ廃されなくてはならない。今、このように頓教に入った。頓教はなぜ廃される必要があろうか。『法華経』に「初めて私の身を見て(如来智慧に入った)」とある。このために、円教のひとつの教えは廃されない。また、「ただこの上ない道を説くのみである」とある。この道は廃されない。

以前は、一仏乗において分別して三つとしたが、もともと三乗は合わない。三乗を一つにしようとすれば、一つずつ廃されるべきである。円教では三乗を合わせて一つとして、同じ一乗とする。このために、円教の行は一つも廃されない。

以前は、四つの果はそれぞれ別であった。阿羅漢、辟支仏、菩薩の習果(しゅうか・修行によってもたらされた結果)、方便の仏果のことである。また蔵教・通教・別教・円教の四仏を四果とする。この果を合わせようとすれば、一つ一つ廃されなければならない。今、『法華経』の中の喩えのように、草庵は破り、仮の町は滅ぼし、同じく宝のある所に至る。このために円教のひとつの果は廃されない。もしこの義に従えば、三乗は廃され、一乗は廃されない。

しかし、蔵教・通教・別教の三教に廃するところと廃されないところがある。それは次の通りである。釈迦が悟りを得た夜から完全な涅槃に入る夜に至るまで、説くところの四阿含経(しあごんきょう・長阿含、中阿含、増一阿含、雑阿含の四つの阿含経典類のこと)は、弟子たちが結集(けつじゅう・教えをまとめて整理するための集まり)して声聞蔵とした。前の人々のあらゆる善を成就し、後の人々のあらゆる善に継承させるために廃することもあり廃しないこともあるのだから、どうして最初の教えは廃されることがあろうか。通教の前の教えを成就し、後の教えに継承させることもまた同様である。別教の前の教えを成就し、後の教えに継承させることもまた同様である。円教には、立てるものもあれば立てないものもある。日の出直後の太陽が高山を照らすということは、自らを立てることである。三蔵教は、立てるものがない。『法華経』に「初めて私の身を見て如来智慧に入る」とあるのは、すなわち前の教えを立てることである。「小乗を学んだ者は、今、仏の智慧に入る」とあるのは、後の教えを立てることである。中間の通教と別教はわかるであろう。あらゆる行と智に廃するものもあれば廃しないものがある。あらゆる果の位に廃するものもあれば廃しないものもある。

もし五味の教え喩えを用いれば、乳味の教えには円教と別教が相当する。別教の教えと行位は廃するものもあれば廃しないものがある。円教の教えと行位は廃しない。酪味の教えは上に述べたように廃するものがないが、行位は廃するものもあれば廃しないものがある。生蘇味の教えでは、蔵教・通教・別教・円教の四教において、前の三教の教えと行位は廃するものもあれば廃しないものがある。円教の教えと行位は廃しない。熟蘇味の教えでは、通教・別教・円教の三教において、前の二教の教えと行位は廃するものもあれば廃しないものがある。円教の教えと行位は廃しない。『法華経』においては、前の三教の教えと行位をすべて廃し、円教の教えと行位は廃しない。ただこの上ない道を説くのみであり、同じく一つの宝の車に乗って、ただちに悟りの道場に至る。そのため、教えと行位は廃しない。『無量義経』に「二道、三法、四果は合うことはない」とある。『法華経』に至ってすべて合わさるために、廃することを論じないのである。釈迦が悟りを開いてから四十年余り、それまで真実を表わさなかったが、『法華経』に至って初めて真実を表わしたのである。伝承には、「仏は七十二歳の時、『法華経』を説く」とある。

そして、教えは廃して行位は廃せず、また行位は廃して教えは廃せず、また共に廃し共に廃せずという三通りがある。まず、教えは廃して行位は廃しないということは、その果に留まっている声聞が、なお草庵にいるような状態にあるならば、行位は廃せず、教えは廃するのである。行位は廃して教えは廃せずということは、能力の高い人が表に表われない利益を得れば、教えを廃する前に行位は終わるのである。共に廃するということは、三蔵教の菩薩のことである。共に廃せずということは、衆生のために教化する者のことである。通教・別教はこの例によって解釈すべきである。

もし権を施すことについて述べれば、蔵教・通教・別教の三つの教えと行位は立てられ、円教の教えと行位は立てられない。もし権を廃することについて述べれば、蔵教・通教・別教の三つの教えと行位は廃して、円教の教えと行位は廃しない。もし能力の高い人について述べれば、円教は立てられ、蔵教・通教・別教の三つは立てられない。もし能力の低い人について述べれば、蔵教・通教・別教の三つは立てられ、円教は立てられない。もし能力の低い人が高い人に変えられあることついて述べれば、円教は立てられ、蔵教・通教・別教の三つは立てられない。能力の高い人と低い人が合わさるならば、立てられもし、立てられないこともあり、廃することもあり、廃されないこともある。もし平等法界について述べれば、立つことでもなく、立たないことでもなく、廃することでもなく、廃さないことでもない。

また、教えを廃してさらに教えを聞くことと、自ら教えを廃してさらに教えを聞かないことと、自ら教えを廃せずにさらに教えを聞くことと、自ら教えを廃せずにさらに教えを聞かないことの四つがある。教えを廃してさらに教えを聞くこととは、六波羅蜜の事象的な善を廃して、さらに通教の理法的な善を聞くことである。自ら教えを廃してさらに教えを聞かないこととは、その果に留まっている声聞と縁覚の二乗が、教えを廃してそのまま死ぬことである。自ら教えを廃せずにさらに教えを聞くこととは、悟りの段階を順番に学ぶ者に相当する方等教の中に、小乗と大乗の名称について聞く者である。自ら教えを廃せずにさらに教えを聞かないこととは、教えを廃さないままで、表に表われずに真理の次元に入る者である。

また、智慧(注:ここではその位において得た悟りの智慧を指す)を廃してさらに智慧を修することと、智慧を廃せずにさらに智慧を修することと、智慧を廃して智慧を修することがないことと、智慧を廃せず智慧を修することがないことの四つがある。智慧を廃してさらに智慧を修することとは、三蔵教の菩薩は自らの智慧を廃して、さらに無生智(むしょうち・無学の段階のものが四諦智慧を尽くした時に発する智慧)を修すことである。智慧を廃せずにさらに智慧を修することとは、果に留まる声聞は、自らの智慧を廃することなく、また観心に遊戯して無生智を学ぶも、巧みに煩悩を断じないことである。また、順番に智慧を学ぶ者もこれである。智慧を廃して智慧を修することがないこととは、果に留まる声聞は、涅槃に入ったという思いから、あえて大乗を修そうとはしない。『法華経』の「信解品」に、四大弟子が仏の説法を理解した上で、「私は以前、身体が疲労しきって、ただ空、無相、無願を念じるだけであり、菩薩の教えを願い求める心はありませんでした」と言うような者がこれである。また衆生の能力に合わせる者のことである。智慧を廃せず智慧を修することがないこととは、三蔵教の智慧を廃する菩薩が、さらに進むことなく退いてしまい、あらゆる悪を行なう者がこれである。また智慧を廃して、表面には表われないながらも、頓教の中に入って、方便の智を修すことのない者である。

また、行位を廃してさらに行位に入ることと、行位を廃して行位に入らないことと、行位を廃せずさらに行位に入らないことと、行位を廃せずに行位に入ることの四つがある。行位を廃してさらに行位に入ることとは、三蔵教の菩薩は惑を断じない行位を廃して、惑を断じる行位に入る。行位を廃して行位に入らないこととは、行位を廃して、表面には表われないながらも頓教を悟る者は、順番に入る行位には入らない。行位を廃せずさらに行位に入らないこととは、果に留まる声聞と縁覚の二乗がこれである。行位を廃せずに行位に入ることとは、衆生の能力に合わせる者のことである。また行位を廃することのないまま、表面には表われないながらも頓教を悟って、上の行位に入る者のことである。通教・別教の智慧と行位、そしてそれを検討することも、このようなものである。

問う:前のものを廃してさらに進んで修することは、もちろん利益(りやく)がある。しかし、廃したままで修すことがないということは、どのような利益があるのか。

答える:自らの修行を廃しても利益を得ることがある。自ら非を知って廃しても、聞くだけで修すことがない場合、それでも小乗が劣っていることを恥じて、その悟りを否定する心はある。確かにこれは利益である。また、煩悩を断じることに限って言えば、この場合、利益はないと言わざるを得ない。小乗を恥じて大乗に入れば、利益を得るのである。