大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  15

『天台四教儀』現代語訳  15

 

第三節「別教」

 

次に別教について述べる。この教は界外の菩薩の法だけを明らかにするものである。教・理・智・断・行・位・因・果は前の二教と別であり、後の円教とも別であるために、別教と名付ける。

『涅槃経』に、「四諦の因緣に無量の相がある。声聞と縁覚が知るところではない」とある。あらゆる大乘経典に広く述べられているところの、菩薩が長い期間に渡って経るべき修行の行位の順番については、互いに共通したところがない。そもそもそれ自体が、別教で明らかにするところなのである。

具体的にあげると、まず『華厳経』では、十住・十行・十迴向の行位を「賢位」として

十地を「聖位」とし、さらに妙覚を仏の位とする。『瓔珞経』では、五十二位の行位を明らかにする。『金光明最勝王経』では、ただ十地と仏果だけを明らかにする。『勝天王経』では十地を明らかにし、『涅槃経』では五行(ごぎょう・聖行・梵行・天行・嬰児行・病行の五つ)を明らかにする。このように、諸経典において行位の数も違って同じものはないということは、三界の外にある菩薩は、教化する相手に応じて利益(りやく)を与えるからである。衆生の能力は実にさまざまなのであるから、どうして一つに定めることができるだろうか。

しかし、行位について、『瓔珞經』ほど整ったものはないので、今ここでは、この経典によって概略的に、菩薩の修行において経るべき位と、そこで断じられる煩悩と証される悟りについて述べることにする。

この経典では、行位を五十二位として、この全体を七つに分類している。すなわち、信・住・行・向・地・等・妙である。また、この七つを二つに分けている。最初は凡であり、二つめは聖である。さらに凡についてはまた二つあるとする。信を外凡として、住・行・向を內凡とする。またこれを賢と名付ける。聖についてもまた二つあるとする。十地・等覚を因として、妙覚を果とする。大まかに分けるとこのようになるが、以下、それらを詳しく述べることにする。

(注:ここから別教の行位と、他の三つの教との相関関係について述べられるが、文章だけだととても整理がつかない。表にして見るのが適切である)。

初めに、十信とは、一つめは信、二つめは念、三つめは精進、四つめは慧、五つめは定、六つめは不退、七つめは迴向、八つめは護法、九つめは戒、十に願である。この十位では、三界の見思煩惱を抑える(注:煩悩に対しては、最初は抑える(=伏)、次に断じる、そして最後は断じ尽くすという表現が用いられている)。このため、外凡である伏忍の位と名付ける。蔵教の七賢の位、および通教の乾慧地・性地と等しい。

次に十住について述べれば、一つめは、三界の見惑を断じ尽くし、蔵教の初果および通教の八人地・見地と等しいところの発心住、二つめは治地、三つめは修行、四つめは生貴、五つめは具足方便、六つめは正心、七つめは不退であり、以上の六つの位では、三界の思惑を断じ尽くし、位不退(いふたい・これ以降は決して退くことのない位)を得る。蔵教と通教の二仏と等しい。八つめは童真、九つめは法王子、十は灌頂であり、以上の三つの位では、三界內の塵沙惑(じんしゃわく・天台教学では、煩悩を大きく分けて三つとする。一つめはすでに見てきた見思惑であり、二つめはこの塵沙惑であり、三つめは無明惑である。この塵沙惑とは、文字通り塵や砂の数ほど数えきれないほどの煩悩という意味で、菩薩が人々を教化するにあたって、断じなければならない煩悩である。無明惑については後述する)を断じ、三界外の塵沙惑を抑える。このことは、前の蔵教と通教においては名前さえ知ることがない。または習種性(じゅうしゅしょう・習種とは空について習うことで、性とは因を意味する)と名付ける。従仮入空観(じゅうげにっくうがん・空を観じること。すべての存在は実際に存在するものではないので、仮と表現されている)を用いて真諦の理法を見て、智慧の眼(=慧眼)を開いて一切智(いっさいち・すべての存在の理法を知る智慧。すべては空であるので、空を悟る智慧を指す)を成就する。化城の喩えによれば、三百由旬進むことに相当する。

次に十行について述べれば、一つめは歓喜、二つめは饒益(にょうやく)、三つめは無違逆、四つめは無屈撓(むくつとう)、五つめは無癡乱(むちらん)、六つめは善現、七つめは無著、八つめは難得、九つめは善法、十は真実であり、三界の外の塵沙惑を断じるのである。従空入仮観(じゅうげにっけがん・すでに空を悟り、さらに仮であるこの世に出て行き、衆生を教化するための観心)を用いて俗諦(ぞくたい・仮であり俗であるこの世における真理)を見て、真理を知る眼(=法眼)を開き、道種智(どうしゅち・衆生を教化するための智慧)を成就する。

次に十迴向について述べれば、一つめは救護衆生衆生相、二つめは不壊、三つめは等一切諸仏、四つめは至一切処、五つめは無尽功德蔵、六つめは入一切平等善根、七つめは等随順一切衆生、八つめは真如相、九つめは無縛無著解脫、十つめは入法界無量であり、無明惑(むみょうわく・真理に迷う根本から生じる煩悩。最終的に断たれるべき煩悩)を抑え、中観(ちゅうがん・空観にも仮観にも執着しない真理を観じる観法・観法の最終的な段階であり、天台教学はこの観法を主張する中観派に属する)を習うのである。また道種性(そうしゅしょう・道は仏の悟りを指し、種は衆生が悟りに至る因を指す。その両方を習う段階という意味)と名付ける。化城を出て、目的地までの中観地点である四百由旬の距離まで進むことである。方便有余土(ほうべんうよど・見思惑は断じたが、まだ無明惑が残っている次元)にいることである。以上の合計三十位は三賢という。また內凡と名付ける。十住の八つめの八住からここまでは、行不退位(もはや、修行が後退しない位)である。

次に十地について述べれば、一つめは歡喜であり、これは見道の位であり、また自らの意志によらずとも修行が進む無功用(むくゆう)の位である。この位から中道観を用いる。無明惑の一部分を破り、法身・般若・解脱の三德の一部分を顕わす。そしてこの位から等覚の位までが聖種性(しょうしゅしょう・聖人となる因を学ぶ段階という意味)である。あらゆる世界において仏となり、釈迦仏が悟りを開いたと同じ段階を経て(=八相成道)、衆生に利益を与える。化城の喩えによれば、五百由旬離れた目的地の宝のある所に到達したことに相当し、最初は実報無障閡土(じっぽうむしょうげど・実際に衆生に利益を与えながら、衆生からは汚れを受けない次元)に入る。二つめは離垢地であり三つめは發光地であり、四つめは焰慧地であり、五つめは難勝地であり、六つめは現前地であり、七つめは遠行地であり、八つめは不動地であり、九つめは善慧地であり、十は法雲地である。以上の九つは、それぞれ無明惑の一品(いっぽん・以前述べられた上上品、上中品などの煩悩の種類を指す)を断じて、中道の一部を証す。

これより一品の無明惑を断じて、等覚位に入る。これをまた金剛心と名付け、また一生補処(いっしょうふしょ・一品の煩悩を一生の間で断じることを意味する)と名付ける。また有上士(うじょうし・この上にさらに妙覚位があるという意味)と名付ける。

さらに一品の無明惑を断じて、妙覚位に入る。蓮華蔵世界の七宝菩提樹の下にある大宝華王座に坐り、円満である報身(ほうしん・三身仏のうちの一つ。自らの修行の報いによって仏の身を受ける仏)を現わす。能力の劣った菩薩たちのために、無量四諦の教えを説くのは、すなわちこの仏である。

ある経典(注:『華厳経』などの、同じように修行と悟りの位を説く経典を指す。すでに述べられたように、経典ごとにこの行位の説明は異なっている)に、七地以前の位を有功用(うくゆう・無功用の反対。意識的に修行をすること)の道と名付け。八地以上の位を無功用の道と名付け、妙覚位においてただ一品の無明惑を破るのだとあるのは、教えの道を総合的に説いたのである。また、初地に見惑を断じ、二地から六地に至って思惑を断じて阿羅漢と等しくなるのだという説があるが、これは、別教の位の名称を借りて、通教の位を名付けているのである。またある者は、三賢十聖は果報に住み、ただ仏一人だけが浄土にいるのだ、という。これは、別教の名称を借りて、円教の位を明らかにするものである。このような諸説は非常に多い。まさにこの別教の断証(だんしょう・煩悩を断じて、それに相当する悟りを証すること)の位の教えによって、どの位で何の煩悩を断じて、どのような理法を証するのかを知るべきである。この別教の位は、他の教えの位に通じないものはない。

以上で、概略的に別教について述べた。