大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 115

『法華玄義』現代語訳 115

 

◎位が立てられた意味について

第六の位である円教の位について述べるにあたっての六つめの項目は、位が立てられた意味について明らかにすることである。

問う:権位がみな麁ならば、仏は何の意味をもって位を説いたのか。

答える:あらゆる衆生はその心の向かう所は同じではない。善を生じる条件も同じではない。過ちを知って悪を改めることも同じではない。同じ説法を聞いても、悟るところが同じではないためである。このため、如来のどんな説法にもみな利益(りやく)がある。もし三界の中の願うところに従えば、蔵教・通教の位を説く。もし三界の外の願うところに従えば、別教・円教の位を説く。三界の中の事象的な善を生じさせるためには、蔵教の位を説き、三界の中の理法的な善を生じさせるためには、通教の位を説き、三界の外の事象的な善を生じさせるためには、別教の位を説き、三界の外の理法的な善を生じさせるためには、円教の位を説く。

三界の中の事象的な悪を破るためには、蔵教の位を説き、三界の中の理法的な悪を破るためには、通教の位を説き、塵沙惑の事象的な悪を破るためには、別教の位を説き、無明惑の理法的な悪を破るためには、円教の位を説く。

事象的な事柄をもとに行じて真理に入るためには、蔵教の位を説き、理法的な事柄をもとに行じて真理に入るためには、通教の位を説き、事象的な事柄を通して中道に入るためには、別教の位を説き、理法的な事柄をもとに中道を見るためには、円教の位を説く。この意味で、あらゆる位が生じるのであり、その位の段階の高下は無量である。

 

◎位の意義が廃されることについて

第六の位である円教の位について述べるにあたっての七つめの項目は、位の意義が廃されることについて明らかにすることである。

理法的な次元においては、もともと位などなく、位は修行者の諸条件によって生じる。その諸条件が消滅すれば、位も消滅する。このようなことは、『法華経』において初めて位の意義が廃されることではない。すべての位が生じたり廃されたりする意義を知るべきである。みだりに位を廃したり立てたりすべきではない。

なぜなら、もともと如来が三蔵教の位を立てるのは、仮に事象的な善を生じさせるためであり、その働きがじゅうぶん満たされれば、すなわちすべて廃されるべきである。通教と別教の位もまたこのようである。これは如来が位を立て、そして廃する意味である。

『阿毘曇婆沙論』の中に菩薩の意義が明らかにされているが、龍樹はたびたびこれを破り、仏の方便を失うと批判している。仏の方便が失われるのであれば、位も廃すべきであり、仏の方便を述べる場合は、位も立てられるべきである。これは龍樹において位が立てられ廃される意味である。

多くの大乗の諸師は、全く三蔵教を整理していない。これでは仏の方便を失ってしまう。多くの小乗の諸師は、経典の意義を求めて、その論書を著して菩薩の意義を述べている。『毘婆沙論』は自ら菩薩の意義を説いているがそれを用いようとせず、大乗の経典を取って、三蔵教の空・有の二門を解釈しようとしているが、どうしてその辻褄が合うだろうか。このことに二つの誤りがある。一つめは仏の方便を隠してしまい、二つめは、その論を記した者が菩薩の意義を理解していないことである。このためにこれを廃する必要がある。たとえ経典から引用して大乗の意義を解釈しようとも、それは大乗ではない。もし通教の大乗だとするならば、声聞と縁覚と菩薩の三乗は同じく真諦に入るのである。仏もまた同じである。なぜ十地の八地に中道を観じて無明を破ることができるだろうか。通教の意義を立てることはできない。このために廃すべきである。もし別教の大乗だとするならば、悟りを求める心を起こす初心より、声聞と縁覚の二乗とは異なる。なぜ六地に阿羅漢と同じになることがあろうか。別教の意義を立てることはできない。このために廃すべきである。また別教は方便であり、権に執着して実を軽んじる。このために廃すべきである。ある論師が亡くなれば、その論師の説が確立される。しかし、今ここで、その説が誤っていることに気づく。したがって、それを廃せねばならない。仏の方便が述べられているならば、真実を立てなければならない。すなわち今こそ、誤りを廃し真実を立てる時である。このように円教は天台大師より起る。蔵教・通教・別教の三つの権を越えて、一実に相即する。境妙・智妙・行妙・位妙は、昔の説と同じではない。もし文と真理が合致するならば、この道を歩むべきである。もし論理を失い、真理に背いているならば、他の師に従うのが良い。