大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  14

『天台四教儀』現代語訳  14

 

第二節「通教」

 

次に通教について述べる。前の藏教に通じ、後の別教と円教に通じるために、通教と名付けられる。また、この教えの特徴によって名を得る。つまり、声聞と縁覚と菩薩の三人が同じく真理は言葉では表現できないという教え(=無言說)をもって、色形があると思われるすべてがそのまま空である、と悟ることによって、通教と名付けられる。

(注:蔵教では、すべての存在を分析して、実体がない、つまり空であると悟る教えであるが、通教では、分析するのではなく、すべてそのままが実体のないものだ、と体得するため、蔵教を析空観(しゃっくうがん)というのに対して、体空観(たいくうがん)という)。

 

大品般若経』によれば、修行の位として、乾慧地(かんねじ)などの十地がある。すなわちこれは、この通教の位の次第である。まず一つめは乾慧地であり、まだ真理の水がない、というところから、この名がある。すなわち外凡の位である。藏教の五停心・総相念処・別相念処などの三つの位に等しい。二つめは性地(しょうじ)であり、法性(ほっしょう・真理の本性という意味)の水をおぼろげながら得て、見思惑を抑えるのであり、すなわち内凡の位である。蔵教の四善根の位に等しい(注:「法性の水をおぼろげながら得る」と訳した原文は、「相似得法性水」となっている。天台教学において、この「相似(そうじ)」という言葉は大変多く用いられるが、現代語に翻訳することが非常に困難な言葉である。もちろん、似ているという意味であるが、文の中にそのまま置き換えることは不可能である。そのため、その時々に応じて言葉を選ぶことにする。この場合は、「おぼろけながら」と訳した。他の箇所では、「漠然とした」と訳したところもある)。三つめは八人地(はちにんじ)であり、四つめは見地(けんじ)である。この二つの位は無間三昧(むけんざんまい・間断なく禅定の中にいるという意味)に入り、三界の八十八種の見惑を断じ尽くす。真無漏(しんむろ・真理に即した智慧のこと)を発し、真諦の理法を見る。藏教の初果と等しい。五つめは薄地(ばくじ)であり、欲界の九種(上上品、上中品などに分類される煩悩)の思惑のうち、前半の六種を断じる。藏教の二果に等しい。六つめは離欲地(りよくじ)であり、欲界の九種の思惑を断じ尽くす。藏教の三果に等しい。七つめは已弁地(いべんじ)であり、三界の見思惑を断じ尽くす。ただし、煩悩は断じても、その習気には影響を与えられない。木を焼いて炭にするようなものである。藏教の四果と等しい。声聞の位と等しい段階はここまでである。八つめは辟支仏地(びゃくしぶつじ)であり、さらに習気を抑える。炭を焼いて灰にするようなものである。九つめは菩薩地(ぼさつじ)であり、煩悩そのものを断じ尽くすことは、声聞と縁覚と同じであるが、わざわざ習気は断じ尽くさず、その習気によって三界に生を受け、人々を教化して、自らも高め、神通力をもって遊戯して仏の国土を清めるのである(注:三界において人々を悟りに導くならば、それだけ仏の世界においてもさまざまに良い結果がもたらされるわけであるので、仏の国土を清めると表現する)。十に仏地(ぶっじ)であり、機縁がもし熟すならば、一念相応(いちねんそうおう・一念において悟りを完成するという意味)の智慧をもって、即座に残りの習気を断じ、七宝の菩提樹の下に坐り、天衣をもって座とし、劣った姿を帯びた優れた応身をもって仏を成就する(注:通教の仏はやはり応身であるが、蔵教の仏より勝っているということを表わしている)。そして三乗の能力の人のために、無生四諦(むしょうのしたい・蔵教の生滅四諦は、生滅する実在が前提となっていたが、通教では、実在そのものが生じもせず滅しもしないという教えであるので、このように表現する)の教えを説き、縁が尽きれば入滅する(注:肉体を持った応身の身体が滅びることであり、仏そのものは滅びることはない)。煩悩そのものと習気が共に除かれることは、炭と灰を共に焼き尽くされるようなものである。

 

『涅槃経』に「三獣河を渡る」とある。象と馬と兔である。煩悩を断じることにおいては、それぞれ同じではないことを喩えている。

(注:象は河底に足がついているので、煩悩そのものと習気が共に除かれる菩薩を喩え、馬は浅い所は足が底についているが、深い所は泳いで渡るので、煩悩そのものは断じることができるが、習気は完全には除かれない縁覚を喩え、兎は最初から泳いで渡るので、声聞がただ煩悩を除くだけで、習気は全く除かれないことを喩えている)。

また『華厳経(旧訳)』に「諸法実相は三乘皆得るが、また仏とは名付けない」とある。すなわちこの通教の教えのことである。この教の三乘は、因は同じで果は異なっている。果としての証は異なっているが、同じく見思惑を断じ、同じく三界の差別のある果報から出て、同じく偏った真理を証する。

しかし、菩薩には二種がある。すなわち能力の高い者と低い者である。能力の低い者はただ空という面だけを見て、不空の面を見ない。ただこの通教の仏になるに止まり、これ以上の別教や円教に進むことはない。悟りの因としての修行は異なっているが、果としての悟りは蔵教と同じである。このために、前の蔵教に通じるというのである。もし能力の高い菩薩は、ただ空の面を見るだけではなく、同時に不空を見る。不空はすなわち中道である。この通教における中道に対する認識に二種がある。すなわち、但中と不但中である。もし但中を見るならば別教に接し、もし不但中を見るならば、円教に接する。このために、後の教えに通じるというのである。

(注:中道は究極的な真理であるが、そもそも中道とは、何にも止まらないということであるから、中道だけ、つまり但中は究極の教ではなく、別教である。中道にも止まらないということが真実の真理であるので、不但中は円教である。そして、あくまでも通教の教えにありながら、別教に接する教えは別接通教あるいは別入通教といい、円教に接する教えは円接通教あるいは円入通教という)。

 

問う:どの位に接し、進んでどの位に入るのか。

答える:上位の教えに接して入ることは、上の能力の人と中の能力の人と下の能力の人と、この三種の人でそれぞれ異なっている。上の能力の人は、十地の中の三地・四地で接し、中の能力の人は五地・六地で接し、下の能力の人は七地・八地で接する。接して入る先の位は、真実の通りの教えか、真実であるが漠然としている教えかの違いがある。漠然とした相似の教えに接して入る先の位は、別教の位では十迴向の位であり、円教の位では十信の位である。真実の教えに接して入る先の位は、別教では初地の位であり、円教では初住の位である。

(注:四教の各位と、それぞれの位の関係性は、さすがに表として整理されたものを見ない限り理解できないであろう)。

 

問う:この蔵教と通教の二教は、同じく声聞と縁覚と菩薩の三乘の人を対象としており、また同じく四住煩悩(しじゅうぼんのう・三界のすべての見惑と、欲界のすべての思惑と、色界のすべての思惑と、無色界のすべての思惑の四つ。先述あり)を断じ、三界を出て、同じく偏った真理を証し、同じく「化城喩品」の喩えによれば、三百由旬進み、同じく仮の町である化城に入るわけであるので、どうして二教に分ける必要があるのか。

答える:誠にもっともな質問であるが、しかし、同じ点と異なる点がある。証される悟りは同じであるが、大小の違いと巧拙の違いがある。この二教は三界内の教であるが、蔵教は界内の小さい拙い教えであり、大乗に通じないのであるから小乗である。観心の対象を分析的に認識して空を悟るので、拙いのである。この教えの三人は、この教えの中において上中下の異なりがあると言っても、みな能力の劣った者と見なければならない。このために、みな大乗の教えにおいては否定されるのである。通教はすなわち三界内の大きく巧みな教である。大きいとは、大乗の初門の教えであるためである。巧みとは、観心の対象が空であるということを体得するためである。この教えの中において上中下の異なりがあると言っても、蔵教に比べれば、みな能力が高い。

問う:通教の教えはすでに大乗ならば、なぜ声聞と縁覚の二人がいるのか。

答える:朱雀門も、庶民の出入りは許される。このように、人が小乗だとしても、教えは大乗なのである。大乗は小乗を兼ねて、小乗の人も大乗に引き入れようとするのである。まさに巧みである。般若教と方等教の中に共般若(ぐうはんにゃ・声聞と縁覚の人が菩薩と共に学ぶ般若という意味)があり、それがこの通教の教えなのである。

以上、概略的に通教を説き終わる。