大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  93

『法華玄義』現代語訳  93

 

(2)梵行(ぼんぎょう)

別教の五行の第二は、梵行である。梵とは清浄という意味である。有と無に偏った考えや、何かを得たというような思いがない、これが清浄ということである。この清らかな教えによって、人々の苦を除き楽を与える。すなわちこれが対象にこだわらない無縁の慈悲であり、四無量心の慈・悲・喜・捨である。菩薩は大いなる涅槃の心をもって聖行を修し、無畏地を得て、二十五三昧の無限の大いなる働きを備える。ここにおける慈悲は真の梵行である。これは、他の梵天の修す四無量心とは異なり、また三蔵教・通教における衆生に対する衆生縁の慈悲や、真理を悟ったがゆえに起こす法縁の慈悲とも異なる。この慈・悲・喜・捨をもってあらゆる行を遍く修し、成就しないものはない。『涅槃経』に「もし人から、どのような者がすべてのあらゆる善根の本となるのかと言われれば、まさに慈であると言う」とある。慈は行の本であるために、梵行という。もし円教によって語るならば、また『涅槃経』の通りである。慈はすなわち如来であり、すなわち仏性である。その慈が仏の持つ十力・四無所畏・三十二相を備えていなければ、それは声聞の慈であり、備えていれば仏の慈である。この慈はすなわち大いなる教えの集大成であり、大いなる涅槃である。慈の力は広く深く、すべての福徳荘厳を備えるので、梵行という。

 

(3)天行(てんぎょう)

別教の五行の第三は、天行である。この天行は第一義天という。真理は人の行などとは関係なく存在するのであるから、道前という。この真理によって行が成就することは「道中」という。その行によって真理が表わされることは道後という。ここではその真理によって行が成就することであるので、天行という。菩薩は初地に入ったとしても、そこに留まるべきではない。それはある程度の悟りを得たということによる位であるからである。さらに上の十地の智慧を修して、十の真の行の智慧を発するのである。しかし、真理自らが行に導くことを名付けて天行とするのである。天行はすなわち智慧が荘厳である。仏道をさらに上へ求めるところに聖行・天行があり、衆生に向けて教化するところに、梵行・病行・嬰児行がある。

 

(4)嬰児行(ようにぎょう)

別教の五行の第四は、嬰児行である。福徳と智慧が増せば、すべての実在の真実の姿がさらに顕わされる。意識して衆生に利益(りやく)を与えようとせずとも、自然と仏の目に見えない利益や目に見える利益がある。天行の力に、その目に見えない仏の利益があり、梵行の力に、その目に見える仏の利益がある。衆生に悟りに向かう小さな機縁があったとしても、菩薩がそれに対して開発(かいほつ)しなければ、成長することはない。慈の善根の力は、磁石が鉄を引き寄せるようなものである。菩薩の鋭い智慧を隠して衆生に同調し、よく衆生を菩薩の始学に導くのである。そして、続く五戒・十善・人天の果報に巧みに導く。それは、泣く幼子に、欲しがっている物ではない物を見せて、泣き止むようにすることのようである。また、二百五十戒・観・練・熏・修・四諦・十二因縁・三十七道品を示して、声聞と縁覚の二乗の嬰児行に同調する。また六波羅蜜を習って、気の遠くなるほどの長い期間を経て、仏の相を備え、煩悩を少しずつ抑える六度の菩薩の小さな行に同調する。また、認識の対象を観察して空を悟る無生無滅の通教の小さな行に同調する。また、別教の順番に高められる相似の中道の小さな行に同調する。これらはみな、慈心をもって、多くの小さな行に同調して、それらを引き上げるのである。慈心が楽を与えようとすることに従って、嬰児行が起るのである。

『涅槃経』に「よく大いなる教えを説く。それは幼児が発するバァ~という声である」とある。この喩えはすなわち六波羅蜜の小さな行のことであり、それでもその先に仏の位を求めているわけであるから、大いなる教えという。また同じく「幼児は昼と夜、親しい人とそうでない人の区別を知らない」とあるのは、通教の菩薩が、認識の対象が空であるとする位に同調することである。また同じく「幼児は大小さまざまな行為をすることができない」とあるのは、大とは最も大きな悪事である五逆であり、小とは声聞と縁覚の二乗の心のことである。これは別教に当たる。別教は生死から離れているために、五逆はない。涅槃に執着しないために、小乗の心はない。また同じく「柳の黄色い葉のような、幼児が求めている物ではない物を見せる」とあるのは、すなわち人・天の五戒・十善を修している幼児のような程度に同調することである。慈の善根の力をもって、世に出て教化し、小善の方便をもって、仏の智慧に導くことは、円教の嬰児行である。同じく『涅槃経』に、「起きたり座ったり、行ったり来たりすることができない」と。これも同じである。

また麁妙を判別し、開麁顕妙については、今までの通りで理解すべきである。

 

(5)病行(びょうぎょう)

別教の五行の第五は、病行である。これは対象にこだわらない無縁の大悲より起る。初めて小さな善行でも生じさせれば、必ず病行がある。

(注:この病行の最も有名な事例が、『維摩経』にある「以一切衆生病是故我病」という箇所である。維摩居士は、人々が病気であるから私も病気となったと述べている)。

今、生善に同調することを嬰児行と名付け、煩悩に同調することを病行と名付ける。衆生が病んでいることをもって、大悲は心に満ちる。このために「我病む」のである。あるいは地獄にまで赴き、あるいは畜生の形となり、身を変えて餓鬼などになるのは、すべて悪業の病に同調するのである。提婆達多のようである。釈迦が父母と妻子を持つ身から始まり、腐った粥や馬の飯を布施されたり、寒風の中、衣を求めたり、熱病の中、乳を求めたりしたことは、人・天に業による生老病死の病があることを示したのである。また修行において、三十四心(四教の蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)を修して煩悩を断とうとしたことは、声聞と縁覚の二乗の見思惑の病に同調してそれを示したのである。『法華経』には、窮子となった息子に同じような姿となって近づいた父親について記されている。三蔵教・通教の菩薩もまた同じようである。また別教の寂滅道場において、初めて塵沙惑・無明惑を断じることに同調する。このために、菩薩はすべて人々の病と同じになり、すべての世界に遍く衆生を利益(りやく)するのである。

以上で別教の五行の説明を終わる。

 

問う:聖行は初不動地・堪忍地・無所畏地の三地(後に説明あり)を悟り、梵行は一子地・空平等地の二地(後に説明あり)を悟る。では、天行と嬰児行と病行はどの「地」を悟るのか。

答える:聖行と梵行は悟りを求める修行であるため、それぞれの境地を悟ると述べられるのである。天行はまさに悟りから自然と起こるものである。嬰児行と病行二つは、対象の状況に応じて起こす行であるから、悟りの境地を述べないのである。また、『涅槃経』に別教の位の意義も記されている。別教の十地は初地から始まるが、『涅槃経』には円教の意義を明らかにして、別教の初地は円教の十住の初住に相当するとする。そうはいっても、初地以前に円教を修することができないわけではなく、初住に別教がないわけではなく、わかりやすくするために、文を煩わしくしないまでである。初地以前の別教とは、戒・定・慧によって述べるならば、戒行は浅いところから深いところに至って不動地を悟り、禅定は浅いところから深いところに至って堪忍地を悟り、慧行は浅いところから深いところに至って無畏地を悟る。そして、初地より上の位は同じであるといえる。なぜなら、初不動地・堪忍地・無所畏地の三地は、いつまでも別教のように別々なわけがない。円教の初住に上れば、あるとかないとかいう二辺に動揺しないようになるので不動地と名付け、上は仏法を保ち、下は衆生を導こうとするので堪忍地と名付け、生死と涅槃において自在であるので無畏地と名付けるのである。無畏地は大乗の四徳である常・楽・我・浄の「我」の徳によって名付けられ、堪忍地は「楽」の徳によって名付けられ、不動地は「常」の徳によって名付けられる。最後の「浄」の徳はこの三つに共通する。円教の初住に上る時、この四徳が成就するので、円教と別教において何らかの増減などない。しかし、人々を教化する場合はそうではない。わかりやすく異なったように説くこともあるが、それは結局同じことである。

円教の初住以上は、それぞれの「地」に自然と行があり、自然と悟りがある。それぞれ天行を行じて天行を悟る。したがって、別に天行の悟りについては述べる必要はない。

ただ、別教の初地以前の教化を梵行と名付けるならば、四無量心の慈・悲・喜は人々を教化するにあたっての具体的な行であり、一子地(いっしじ)はこの悟りである。四無量心の捨は、人々を教化するにあたっての理論的な行であり、空平等地はこの悟りである。この二地もまた別々のものではない。円教の初住の慈悲であるために、具体的に一人息子に向かう心に喩えて一子といい、同じく慈悲は理論的な真理に異ならないので「空平等」というのである。それぞれの地の位に悲があって、悪に同調してまで導くことを病行と名付け、各地に慈あって善に同調して導くことを嬰児行と名付けるのである。その悟りについては同じであるので、特に述べることはしない。

なお、仏地の功徳は、ただ仰いで信じるだけである。どうして想像によって分別することができるだろうか。簡略に答えて以上のようである。