大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  18

『天台四教儀』現代語訳  18

 

第二項「十信の位」

 

円教の八つの位について、二番めの十信の位について述べるが、これは六根清浄位(ろっこんしょうじょうい)ともいう。初信の位で見惑を断じて真理を顕わす。蔵教の初果と通教の八人地と見地と別教の初住と同じである。位不退を証する。次の二信から七信の位に至るまでは、思惑を断じ尽くす。蔵教と通教の二仏と別教の十住の位の中の七住の位と同じである。三界の苦諦と集諦とを断じ尽くして余りはない。このために、『仁王般若経』に「十善の菩薩は大いなる心を発し、長く三界苦輪海と別れる」とある。この経文の意味は、この十善とは、それぞれの位の十善を具足することである。別教の十信は三界の見思惑を抑えるのみで断じていないので、長く三界苦輪海と別れるという言葉は当てはまらない。したがって、この経文は円教の十信のことを述べていることになる。しかし、円教の人が本当に目指すことは、見思惑および塵沙惑を断じるだけではなく、その心は、十住の位に入って、無明惑を断じて仏性を見ることである。たとえば、鉄を溶かすことは、鉄の中にある不純物を除くことが目的ではなく、器を作ることであるようなものである。器を作る過程で、自然と不純物は取り除かれるのである。したがって、不純物が取り除かれるのを見ても、職人は喜ぶことはない。なぜなら、本来の目的がまだ達成されていないからである。円教の修行者もこのようなものである。本来の目的ではないといっても、まず見思惑および塵沙惑が断じられるだけである。

永嘉大師(ようかだいし・名を玄覚という。天台教学を学び、後に禅宗の第六祖慧能の弟子となる)は、「同様に四住煩悩を除くことは蔵教と同じだが、無明惑を抑えるならば、蔵教の方が劣っている」と言っているが、それはこの位のことである。この言葉を解釈すれば、四住煩悩は見思惑に過ぎない。つまり、見惑を見一切処住地と名付けて一つめとする。そして、思惑を三つに分けて、次の欲愛住地を欲界の九種の思惑とし、次の色愛住地を、色界の四つの世界におけるそれぞれ九種の思惑とし、次の無色愛住地を、無色界の四つの世界のそれぞれ九種の思惑とする。この四住煩悩は、三蔵教の仏と六根清淨位の人が同じく断じるので、「同様に四住煩悩を除く」と言っているのである。続いて、「無明惑を抑えるならば蔵教の方が劣っている」と言っているのは、無明惑はすなわち三界の外における中道を妨げる別の煩悩だからである。三蔵教はただ三界の内の共通する煩悩を論じるに過ぎない。無明という名称さえ知ることがない。それではどうして抑えたり断じたりできようか。このために、「蔵教の方が劣っている」と言っているのである。次の八信より十信に至るまでの位においては、三界の內外の塵沙惑を断じ尽くす。仮観が現前し、俗諦の理法(注:教化する対象の衆生がいる世界の真理のこと)を見て、法眼を開き、道種智(どうしゅち・衆生を教化するために、その導きの種類の区別を知る智慧)を成就し、宝がある場所の手前の四百由旬まで進む。別教の八・九・十住および十行・十廻向の位と等しく、行不退の位である。

 

第三項「十住の位」

 

次の十住の位について述べるが、まず初住に入って、一つの無明惑を断じ、三徳を部分的に証する。つまり、解脱・般若・法身の三徳の三種において自由自在であり、古代インド語の「伊」という文字が三つの点で表わされるように、また阿修羅の王の眼が三つあるようにすべてを見渡し、百の世界に身を現わし、釈迦が仏になった時と同じ過程をもって仏となり、広く多くの衆生を救済する。『華厳経』に「初発心の時、すなわち正覚を成就する。得たところの智慧の身は、他に依存して悟ったのではなく、清淨である妙法の身は自然に他のすべてに応じる」とある。この文を解釈すると次の通りである。「初発心」とは、初住の名である。「すなわち正覚を成就する」とは、八相(はっそう・釈迦が仏となるまでの八段階のこと)の仏を成就することである。これは、究極的な悟りの一部分である。すなわち、この『華厳経』の修行によることである。したがって、これを究極的な悟りである妙覚を成就したと解釈しては、大きな誤りである。もしそうならば、これ以降の二住の位より上は、いたずらに施すことになるではないか。もし重ねて同じことを説くのだ、とするならば、仏の説法に煩わしく繰り返すという咎があることになってしまう。また、円教の真理からすれば、各位も、他の各位を互いに具足している、また、発心と究竟の二つは別ではない、というならば、その各位が互いに具足する理由を詳しく知るべきであり、発心と究竟が同じならば、その不二の根拠を細かく認識すべきであろう。『法華経』における龍女がたちまち正覚を成就することも、あらゆる声聞が未来世に仏になるという授記を受けることも、みなこの位における成仏の形である。また「智慧の身」とは、すなわち般若の徳であり、了因仏性(りょういんぶっしょう・修行によって開かれるべき仏性)が開いたのである。「妙法の身」とは、すなわち法身の徳であり、正因仏性(しょういんぶっしょう・衆生が本来持っている仏性)が開いたのである。「他のすべてに応じる」とは、すなわち解脱の徳であり、緣因仏性(えんいんぶっしょう・了因仏性を開くための修行のこと)が開いたのである。したがって、この三身は、本来持っていた仏性が発せられたのであり、そのため「他に依存して悟ったのではない」と言うのである。この位においては、中観が現前して仏眼を開き、一切種智(いっさいしゅち・すべてを知り、衆生の教化についても知る仏の智慧)を成就する。宝のある場所である五百由旬の地点まで到達したことであり、初めて実報無障閡土に入り、念不退の位である。

次に二住より十住に至るまでは、それぞれの位で一つの無明惑を断じ、中道の悟りがさらに増す。これは、別教の十地と等しい。

 

第四項「十住の位より妙覚の位」

 

次の十行の位について述べるが、まず初行に入って、一つの無明惑を断じる。これは、別教の等覚と等しい。次の二行に入れば、別教の妙覚と等しくなる。さらにこの上の三行以上の位は、別教の人は入ることができないので、その名称を知らない。ならばどうして煩悩を抑えたり断じたりできるだろうか。別教ではただ十地・等覚・妙覚における十二種の無明惑を破るだけである。したがって、円教における真実の修行が、別教においては、究極的な悟りとなっているのである。ただ、教えが仮の段階であれば、目標とする位は高く見られ、教えが真実に近づけば目標の位は低く見えるのである。たとえば、辺境の地に争いがあり、それを静めるために高い位をもらって当地に赴き成果をあげても、実際に功労賞を受ける時は、それほど高くないようなものである。したがって、仮の教えにおいては、妙覚と称されても、ただ真実の教えにおいては十行の中の二行の位に過ぎないのである。

次の三行から十地(注:十行の位の三行から、十迴向の位を経て、十地の位の最後の十地まで)までは、それぞれ一つの無明惑を断じ、中道の悟りを深める。すなわち、ここまで四十種の無明惑を断じることになる(注:十住の位の初住から十行・十迴向・十地の位において、それぞれ一つずつの無明惑を断じるため合計四十となる)。さらに一つの無明惑を断じて、等覚の位に入る。これは一生補処の位である。さらに進んで、一つの微細な無明惑を断じて、妙覚の位に入る。これで永遠に無明惑の父母に別れを告げ、究竟の涅槃の山頂に登ることとなる。あらゆる実在が不生であれば、般若の智慧も不生である。この不生不生を大涅槃と名付ける。虚空を座として坐り、清淨の法身を成就し、常寂光土(じょうじゃっこうど・究極的な仏の世界)に入る。すなわち、円教の仏の相である。

 

第五項「六即」

 

しかし、円教の位の次第は、六即(ろくそく)をもって判別しなければ、多くの場合は、上の聖人の世界を正しく認識することができないので、必ず円教の位は、六即をもって判別すべきである。

(注:円教は他の教えと、もともと次元を異にしている。すなわち、他の教えは段階的に進むのに対して、円教の教えは、最初の発心から最後の究極的な悟りに至るまで、すべて互いに備わっている、すなわち相即(そうそく)しているという真理に立つ。そのため、円教の場合のみ、六つの即という位を設けて、円教の位を整理するのである。『法華玄義』の観心を説く箇所には、「学びが欠けた状態で高慢にならないようにするためには、六即を学ぶべきである」とあって、この六即の一つ一つの解説が記されている)。

 

すなわち、『涅槃経』に「すべての衆生にはみな仏性がある。仏が世にいる時代でも、仏がいない時代でも、仏性は変わらず常にある」とあり、また『摩訶止観』に「一つの色形も一つの香りも中道でないことはない」とある言葉は、すべて、①「理即(りそく・真理そのものであるがそれに気づいていない状態)」である。次に、善知識(その人を仏の教えに導いてくれる人)や経卷を読んで、この真理の言葉を見たり聞いたりする者は、②「名字即(みょうじそく・教えを聞いただけの状態)」である。そして、教えによって修行することは、③「観行即(かんぎょうそく・教えによって、身をもって修行しようとする状態)」であり、これが五品弟子位である。真理に近い(=相似)理解を発するのは、④相似即(そうじそく)であり、これは十信の位である(注:本文はこのようになっているが、『法華玄義』には、「六根清浄位の人は、相似即において非道を行じて仏道に通達する」とある。つまり順番から見ても、相似即は六根清浄位のことである)。無明惑の一部分を破り、究極的な悟りの一部分を見るのは、⑤分証即(ぶんしょうそく)であり、これは十住の初住から等覚に至るまでである。そして智慧と無明を断つことが完全に満たされたならば、⑥究竟即(くきょうそく)といい、これは妙覚の位である。

このように、修行の位の次第について、浅いところから深いところまでを六つとする。しかし、理法の本質からすれば、浅くとも深くとも違いはないので即という。このために、この六つの段階があるのだ、ということを深く認識すれば高慢にならないはずであり、即ということについてよく理解すれば、途中であきらめてしまうことはない。常にこの教えに帰し、寄り頼むべきである。これを思い、これを選べ。

これで、概略的に円教の位についての説明は終わる。