大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 155

『法華玄義』現代語訳 155

 

(3)本国土妙

法華経』に「それ以来、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化し、また他の国においても衆生を導き利益を与えた」とある。この娑婆とはすなわち本時の凡聖同居土である。「他の国」とはすなわち本時の方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土である。これは本時の真実の応身の住むところである。迹門の中の国土ではない。

迹門の中の国土について述べると、それは一つではない。あるいは「この三千百億の歳月を統括するのは、凡聖同居土である」という(注:この文も出典不明。創作された文か)。あるいは『涅槃経』に「西方に国土があり、無勝と名付ける。この国土のあらゆる荘厳については、なお安養国(極楽浄土のこと)のようである」とあるのは、凡聖同居土の浄土である。

あるいは「華王世界蓮華蔵海」(注:『華厳経』の蓮華蔵世界のこと)というのは、実報無障礙土である。

あるいは『観普賢菩薩行法経』に「この仏の住むところを常寂光と名付ける」とあるのは、すなわち究極的な国土である。「寂光」とは、理法が鏡や器のように通じていることである。他のあらゆる国土はそれぞれ、鏡に映る像のように、器に盛られる飯のように、それぞれ異なっている。業の力に隔てられ、感じ見ることが同じではない。『維摩経』に「私の国土は清いけれども、あなたは見ることができない」とある。これは衆生の感じ見るところは違いがあって、仏国土に関係することができないためである。

法華経』に「今、この三界はみな私の所有である」とあるようなことは、あらゆる国土の清らかなところや汚れたところ、調伏すること、受け入れることなどは、みな仏の行ないであるということである。たとえば、多くの民は土地に住んでいるけれど、その土地は彼らの所有物ではなく、父が家を建てて、その父が去っても、その家は残っているようなものである。如来も同じである。衆生のために国土を作る。教化し終わって滅度する。仏が去ってもその国土は残る。これは仏の国土であって、衆生は関係しないのである。

また次に、三変土田(さんぺんどでん・『法華経』の「見宝塔品」において、釈迦が国土を3度清めたこと)とは、凡聖同居土の汚れを変じて、凡聖同居土の清浄を見せ、あるいは方便有余土の清浄を見せることである。たとえば、『法華経』の「如来寿量品」に「もし深く信じて理解する者がいれば、仏は常に『法華経』を説いた耆闍崛山(ぎじゃくっせん)にあって、大いなる菩薩たちや声聞などの多くの僧侶と共にいるのを見る」とあるようなことは、これを指すのである。あるいは、実報無障礙土の清浄を見る。たとえば、娑婆国土はみな紺色の瑠璃であり、純粋にあらゆる菩薩たちだけがいるのを見るようなことである。あるいは常寂光土と見るのである。法華三昧(ほっけざんまい・『法華経』に基づく観法)の力をもって、あらゆる見え方をさせるのである。

次の三つの意義があるために、他の国土はすべて迹の国土であることを知る。一つは、今の仏の住む所であるためである。二つは最初から最後まで、あらゆる国土を作るからである。三つは中間を権として排除するからである。もしこの本土が今の仏の住む所でなければ、今の仏の住む所はすなわち迹の国土である。もし本土が一つの国土であり、同時にすべての国土であるならば、最初から最後まで、あらゆる国土を作って、深浅の違いがあるはずである。今の国土以前と本土以後をみな中間(ちゅうげん)と名付ける。中間をすべて方便とする。どうして、今の国土は迹でないことがあろうか。

本より迹を出し、迹に執着して本とするならば、迹門も本門も知らないことになる。今、迹を排除して本を指す。本時に住むところの凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土とは、本国土妙である。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。

 

(4)本感応妙

法華経』に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、その信心などの能力の高低を観じる」とある。「衆生が来る」ということは、法身に働きかけることである。「私は仏の眼をもって観じる」とは、慈悲をもって行って応じることである。「能力の高低」とは、十法界の目に見るものや目に見えないものの善悪の不同を指す。これは本時に二十五三昧を証する感応を指す。迹の中の感応ではない。迹の応は多種である。あるいは「一日三回に禅定に入って、導くべき衆生を観じる」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵の仏であり、分段穢国の九法界の衆生を照らす析空観の感応である。

あるいは「俗に同化してしかも真であるならば、出入りすることを用いず、自然とよく知ることができる」という。これは通教の仏が、分段浄国の九法界の衆生を照らす体空観の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、歴別に十法界の衆生を照らす」という。これは別教の仏が方便有余土を照らす次第の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、一度に十法界の衆生を照らす」という。これは円教の仏が十法界の常寂光土の衆生を照らす円融の感応である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる感応はすべて迹であり本でないことを知る。一つは、今の世で成就したためである。二つは不同であるからである。三つは権として排除するからである。寂滅道場の菩提樹の下で、初めて偏りのあるものと円満なものが成就するので、権であることを知る。あるいは、前に修行し後に学び、深浅の違いがある。このために権であることを知る。中間をすべて方便として排除する。どうして、迹でないことがあろうか。本より迹を出す。どうして迹に執着して本とするのだろうか。迹を排除して本を顕わす。迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議であり一つである。

また次に、あるいは本の感は麁であり、迹の感は妙である。あるいは本の感は妙であり、迹の感は麁である。共に妙であり、共に麁である。応もまた同様である。また本の感は広く、迹の感は狭い。あるいは迹の感は広く、本の感は狭い。共に狭く、共に広い。応もまた同様である。また今と昔を取って、本と迹を判断するのみである。麁と妙と広と狭について述べているのではない。

 

(5)本神通妙

法華経』に「如来の秘密の神通の力」とある。また「あるいは自らの身を示し、また他の身を示し、自らのこと、他のことを示す」とある。「自らの身、自らの身を示す」とは、円融の神通力である。「他の身、他のことを示す」とは、偏った神通力である。「秘密」とは、妙である。偏ったものも円融のものも、みな妙である。これは本時の神通力を指す。迹の神通力ではない。

迹の神通力は多種である。あるいは、「八背捨、八勝処、十四変化(八背捨、八勝処、十一切処によって得られる十四の報いのこと)によって、六神通を得る。外道以上であり、二乗に勝る」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵教の仏の神通力である。

あるいは「体空観の無漏の智慧によって、六神通を得る。八背捨による者に勝る」という。これは通教の仏の神通力である。

あるいは「前の六神通をまとめて五とし、中道によって無漏の神通を発する」という。この六神通は別教の仏の神通力である。

あるいは「中道の無記化化禅に六神通とすべての変化(へんげ)を備える。滅尽定を起こさず、あらゆる威儀を現わし、語るも黙るも妨げなく、動静の二つの理法はない」という。また『法華経』の中の六瑞(ろくずい・『法華経』の「序品」にある六つの瑞相)と変土(へんど・『法華経』における場面の変化)などのようなものは、円教の仏の神通力である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる神通力は迹であり本でない。一つは、今の世で得たものであり、二つは近い時期に修したものであり、三つは疑いを払うためのものだからである。上に説いた通りである。また四句において考察することも先に説いた通りである。しかし、本より迹を出すのであれば、迹はすなわち本ではない。迹を排除して本を顕わせば、迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議の次元で一つである。

 

(6)本説法妙

法華経』に「彼らは私が教化した者たちであり、大いなる悟りを求める心を起こさせた。今、みな退かない位に住んでいる」とある。「私が教化した者たち」とは、まさしく説法である。「大いなる悟りを求める心を起こさせた」とは、小乗の説法ではないことがわかる。これは本時の権を捨てて実を説くことを指す。迹の説法ではない。

迹の説法は種類が多い。もし『涅槃経』によるならば、始めと最後の乳味と醍醐味は、牛から出るものであると明らかにしている。もしこの意義によって考察するならば、中間の酪味・生蘇味・熟蘇味もまた牛より出たものである。なぜなら、普通の牛が普通の草を食べれば、ただよく乳味の乳を出すだけである。特別な草を食べないために、他の四つの味の乳は出さない。良い牛は健康であり、高地にも湿地にもいない。酒粕や麦の殻などは食べない。五つの味が円満に出せる要素は牛に本来備わっている。食べ物によってそれらは出るのである。

もし普通の草を食べるならば、絞れば乳を出す。下の特別な草を食べるならば、絞れば酪を出す。中の特別な草を食べるならば、絞れば生蘇を出す。上の特別な草を食べるならば、絞れば熟蘇を出す。上上の特別な草を食べるならば、絞れば醍醐を出す。

牛より五味を出すことは、漸法を喩えているのである。牛より醍醐味を出すことは、頓法を喩えているのである。牛より酪味・生蘇味・熟蘇味の三味を出すことは、不定法を喩えているのである。仏もまた同じである。偏っていることや円満なことが満足され、仏の心の中にある。衆生が仏を動かすことを許すならば、その説法は同じではない。善の衆生が動かせば、人天の教えを出し、析空観の衆生が動かせば、声聞と縁覚の二乗の教えを出し、体空観の衆生が動かせば、巧みな教えを出し、歴別の衆生が動かせば、漸次(段階的であること)の教えを出し、円頓の衆生が動かせば、無作の教えを出す。

また、二種の衆生が仏を動かせば、熟蘇味と醍醐味の教えを出し、一種の衆生が仏を動かせば、酪味の教えを出し、また四種の衆生が動かせば酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の四味を出して乳味を除き、また三種の衆生が動かせば生蘇味・熟蘇味・醍醐味を出して、乳味・酪味を除き、また一種の衆生が動かせば醍醐味を出して他の四つの味を除く。

また次に三蔵教の道場で得るところの法は、乳が牛にあるように、道場を立って乳味の教えを説く。通教の仏の道場で得るところの法は、酪が牛にあるように、道場を立って酪味の教えを説く。別教の仏の道場で得るところの法は、五味が共に牛にあるように、道場を立って、次第の五味の教えを説く。円教の仏の道場で得るところの法は、醍醐が牛にあるように、道場を立って、醍醐味の教えを説く。

問う:『涅槃経』に「乳がゆを食べてそれ以上することがないようなものである」とある。まさにこれは乳味の教えのことであろう。

答える:乳には種類が多い。麁の牛が出す乳は、害をなす。善の牛が出す乳は、最も良い乳である。

問う:乳に多種あるならば、醍醐も一つではないだろう。

答える:経典に、阿羅漢や縁覚をもって醍醐としているものもある。このために優劣を知る。この中に大いに意義がある。よくこれを熟慮すべきである。

次の三つの意義があるために、考察するならば、以上のあらゆる説法は、迹であり本でない。一つは、今の世で完成されたものであり、二つは初めて説かれたものであり、三つは中間を権として排除する。中間に完成され、中間に説かれるものは、なお方便である。ならばどうして今の世で完成され、今の世で説かれたものが、迹でないことがあろうか。迹に執着すれば共に失い、迹を排除すれば共に理解できる。迹ではなく本ではなく、不思議の次元で一つである。

まあ次に、すでに説かれたものを迹とし、今説くものを本とする。すでに説かれたものは本、今説くものは迹、また共に迹共に本である。あるいは実が本であり権は迹の四句。本体の働きから事象と理法の四句(注:この最後の箇所は未完成と思われる)。