大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 165

『法華玄義』現代語訳 165

 

第二目 有翻を明らかにする

第二に、翻訳する言葉があることについて、五つの項目を立てる。

一つめは、翻訳して「経」とすることである。経とは、経由(けいゆ)の意味である。聖人の心と口を経由するからである。さらにまた、この意義によって解釈すると、教由・行由・理由となる。すべての修多羅、すべての他の経典に通じる教え、ある経典に限った個別的な教え、すべての注釈書などは、みな聖人の心と口による。このため、教由と名付ける。すべての悟った後の修行、悟りの直前の修行、すべての信心の行、すべての教えによる行は、みな聖人の心と口による。このため、行由と名付ける。すべての世間の意義、すべての世間の外の意義、すべての方便の意義、すべての究竟的な意義は、みな聖人の心と口による。このため、義由と名付ける。教由は世界悉檀であり、行由は各各為人悉檀・対治悉檀であり、義由は第一義悉檀である。

また経とは、経を縦糸とすると、横糸の緯の意義に対応する。世間の絹の経は緯と共にこれを織れば、龍や鳳凰の模様ができるようなものである。仏は世界悉檀をもって経を説き、菩薩は世界悉檀の緯をもって織り、経と緯が合わさるために、賢聖の模様が成就する。また行について経緯を述べれば、慧行を経とし、行行を緯とし、経と緯が合わさるために八正道の模様が成就する。また理法について経緯を述べれば、真諦を明らかにすることを経とし、俗諦を明らかにすることを緯とし、経と緯が合わさるために二諦の模様が成就する。

二つめは、翻訳して「契(注:正しく符合するという意味)」とすることである。縁に契(かな)い、事に契い、義に契う。世界悉檀の説は縁に契う。各各為人悉檀の説は善を生じることに契い、対治悉檀の説は悪を破ることに契う。これを事に契うとする。第一義悉檀の説は、義に契う。

三つめは、翻訳して「法本」とすることである。すなわち、教え、修行、理法の本となることであり、前に説いた通りである。

四つめは、翻訳して「線」とすることである。線は教え、修行、理法を貫き保ち、落ちることがないようにする。身を飾るなどの意義は、前に解釈した通りである。また、線は糸で縫うという意義がある。教えを縫って章や句として次第させ、説法しやすくする。縁覚のような者は、十二部経の線に合致しないので、説法することができない。世俗的な知恵が豊かであっても、また経の線がないので、正しい言葉が成就しない。また線は修行を縫う。経によれば修行も正しく、経に合致しなければ悪しき修行となる。また理法を縫う。理法に証されることがなければ、六十二通りの邪道(注:外道の邪見を六十二通りに分類したものを六十二見という)に堕し、理法に証されれば、究竟の道に合致する。

五つめは、翻訳して「善語教」とすることである。またこれには、善行教・善理教がある。世界悉檀の説は善語教であり、各各為人悉檀・対治悉檀は善行教であり、第一義悉檀は善理教である。以上、修多羅に五種の翻訳があるということである。

 

第三目 無翻と有翻を融合する

昔、仏が初めて悟りを開いた時、インドの言葉と中国の言葉は今のようではなかった。翻訳できないということは、黄河以西の人々が伝えたことであり、最近の人々はそれを受けつつ、加えて中国語の音に当てはめた。現在は、漢訳仏典の意味も明らかとなって、インドの言葉もだいぶ理解できるようになった。どうして翻訳できないということに執着して、多くの意義を含むということを理解できようか。もし多くの意義を含むならば、なぜ五種に限るだろうか。もし翻訳する言葉があるならば、何をもって正しいとするだろうか。意義は多いとはいっても、どうして翻訳する言葉が多くてよいだろうか。もし修多羅を翻訳して経とすれば、修多羅に九種ある。それは十二部経のすべてを修多羅とする「通の修多羅」と、十二部経の第一を修多羅とする「別の修多羅」である。整然と分別された十二部経の中の「経部」と、経・律・論の中の「経蔵」とがあることを、どうして見ないことがあろうか。もし翻訳して「契」・「法本」などとすれば、またまさに十二部経の中に、「契部」・「法本部」・「線部」・「善語教部」などがあるとしなければならない。三蔵の中にも、まさに線などの蔵があることになる。あらゆる翻訳において、このような翻訳の方法は行なわれていない。なぜ「通の修多羅」だけが「経」と翻訳されるのであろうか。

大智度論』に「般若は尊く重く、智慧は軽く薄い。なぜ軽い言葉をもって重い言葉を翻訳するのだろうか」とある。もしそうならば、これは翻訳できないことの証拠である。また、実相は尊く重く、言葉で説くことはできないが、もともとインドの言葉で説くことができれば、どうして中国語でも翻訳できないことがあろうか。もし翻訳することができなければ、説くこともできない。これは翻訳することができる証拠である。

昔の解釈に「涅槃に三徳が含まれているので、滅度という言葉をもって翻訳とするべきではない」とある。また梁の武帝は「滅度は小乗の法なので、この言葉をもって大涅槃を翻訳すべきではない」と言っている。しかしこれは必ずしもそうではない。『涅槃経』に「涅槃、大涅槃がある」とある。そうであるならば、また「滅度、大滅度」があるはずである。『法華経』に「如来の滅度」とある。これがどうして「大滅度」でないわけがあろうか。すでに「小滅度」をもって「小涅槃」を翻訳するならば、どうして「大滅度」をもって「大涅槃」を翻訳できないことがあろうか。もし滅度は偏っていて三徳(法身、般若、解脱)を含まないとすれば、今ここで、三徳が含まれていることを述べる。滅とは、すなわち解脱である。解脱には必ず対応する人がいる。人はすなわち法身である。法身は単なる人の身体ではなく、そこに必ず霊智(りょうち)がある。霊智はすなわち般若である。また大はすなわち法身であり、滅はすなわち解脱、度はすなわち般若である。このように、滅度という言葉に三徳を含むことは明らかである。どうして翻訳がないことがあろうか。もし一つの言葉に執着すれば、あれとこれとが矛盾して、仏の心に到達することができないことは、すでに上に述べた通りである。

ここで、翻訳の有無を融合して、意義を妨げなく通じさせる。もし翻訳がないと言えば、その名称に五つの意義を含む。一つ一つの意義において、さらに三つの意義を含み、さらにその美しさを見る。もし翻訳があるとすれば、一つ一つの翻訳において、また三つの意義を備え、さらに意味の深いことが増し加わる。翻訳の有無に任せれば、どうして争う必要があろうか。『涅槃経』に「私は終わりまで世間と共に争わない。世間の智慧があると説けば、私もまたあると説き、世間の智慧がないと説けば、私もまたないと説く」とある。このように融通すれば、有と無の二つの立場も共に過失はなく、しかも正しい理由があることになる。

また次に、円教の義は際限がなく、あらゆる所に通じる。これは上に述べた通りである。もし正しく名称を翻訳すれば、この世の常識において混乱することはない。ここでは一つの名称によって正しい翻訳とし、また有と無の二つの立場にもわだかまりがないようにする。なぜならば、昔から今に至るまで、インドの言葉を中国語とするにあたって、みなその経典の題目を経としているからである。もし他の翻訳も正しければ、なぜ経ではなく契・線としないのだろうか。もし伝えられた訳がみなこのようであるならば、すなわち経という翻訳が正しいことが明らかである。もし等しく翻訳がないならば、どうして「わずかに生じるという意味」・「泉のように涌き出るという意味」などを述べるだろうか。ここで正しく経という言葉を用いれば、そこに多く意義が含まれることが強調される。教の本・行の本・義の本の三つの法の本、三つの「発せられる過程」、三つの「泉のように涌き出るという意味」、あらゆる「縄墨」、「花輪を結ぶこと」などの意義を含む。また契・線・善語教・訓法・訓常などの意義を含んで、経の一字の中に収められないことはない。他の句もまたこのようである。あらゆる大乗と小乗の教えは、みな経をもって共通の名称とするために、他の言葉は用いないのである。