大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その3

これについて、私の愚かな見解をもって、『法華経』以前の四十年余りとそれ以後の八年との相違を考えると、その相違は多いと言っても、まず世間の学者も認め、私もそうだと思うことは、迹門の二乗作仏と本門の久遠実成である。

法華経』の原文を拝見すると、舎利弗は華光如来摩訶迦葉は光明如来須菩提は名相如来迦旃延は閻浮那提金光如来、目連は多摩羅跋栴檀香仏、富楼那は法明如来、阿難は山海慧自在通王仏、羅睺羅は蹈七宝華如来、五百・七百の弟子は普明如来、学無学二千人は宝相如来摩訶波闍波提比丘尼・耶輸多羅比丘尼等は一切衆生喜見如来・具足千万光相如来となると授記されている。これらの人々は『法華経』を拝見すると尊い方々のようだが、『法華経』以前の諸経典においては、興ざめしてしまうようなことが多い。その理由は、次の通りである。

仏世尊は実語の人である。そのために、聖人・大人と呼ばれる。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙などという称号も、実語の人に付けた名称であるはずである。しかし、仏はこれらの人々に勝って第一であるために、世尊・大人というのである。この大人は、「仏はただ一大事の因縁のために世に出現したもう」と語られ、「未だ真実を顕わさず」「世尊の教えは久しく時間が過ぎて後、必ずまさに真実を説くだろう」「正直に方便を捨て」などと経文にある。多宝仏が証明を加え、釈迦の分身の仏が舌を出すなどのことがあるので、舎利弗が未来世に華光如来となり、摩訶迦葉が光明如来になるなどの約束に対して、誰が疑いを持つだろうか。

しかし、『法華経』以前の経典もまた仏陀の実語である。『大方広仏華厳経』には、「如来智慧である大薬王樹は、次の二つの場所においては、生長して利益をなすことはできない。それは、二乗の無為広大の深い穴に堕ちることと、および善根を破る非器の衆生の大邪見貪愛の水に溺れることである」などとある。この経文の意味は、雪山に大樹があって、無尽根と名付けられる。これは大薬王樹と称される。この世界のあらゆる樹木の中の大王である。この木の高さは十六万八千由旬である(注:由旬(ゆじゅん)は測ることができないほどの高さの単位)。この世界のすべての草木は、この木に根差して、この木の枝葉果実の次第で花や実がなるのである。この木は仏の仏性に喩えられる。一切衆生は一切の草木に喩えられる。ただし、この大樹は、火坑と水輪の中では生長しない。二乗の心中は火坑に喩えられ、この世の人の心中は水輪に喩えられる。この二類は永く仏になることはできないという経文である。『大集経』には、「二種の人がある。死んでも絶対に生き返らない。結局、恩を知りその恩に報いることはできない。その一人は声聞であり、もう一人は縁覚である。たとえば、深い穴に堕ちた人がいたとする。この人はもはや自らに利益(りやく)を与え、他の人に利益を与えることができないように、声聞・縁覚も同様である。解脱の穴に堕ちて、自らに利益を与え、他の人に利益を与えることができない」などとある。

外典三千巻余りの説く所に二つある。それは孝と忠である。忠もまた孝の家より出ている。孝ということは高である。天は高いが孝よりも高くはない。また孝とは厚である。地は厚いが孝よりは厚くない。聖賢の二類は孝の家より出ている。ならば、仏法を学ぶ人に知恩報恩がないわけがあろうか。仏弟子は必ず四恩を知って、知恩報恩をすべきである。その上、舎利弗摩訶迦葉などの二乗は二百五十戒・三千の威儀を持ち整えて、味禅・浄禅・無漏禅の三つの禅定と、『阿含経』を究め、三界の見思惑を尽くしている。知恩報恩の人の手本なるべきである。しかし、恩知らずの人である世尊は定めておられる。その理由は、次の通りである。父母の家を出て出家の身となるということは、必ず父母を救うためである。二乗は、自身は解脱したと思っても、利他の行に欠けている。たとい、少々の利他があると言っても、父母を永遠に不成仏の道に入れてしまうことは、かえって恩知らずの人となってしまうのである。

維摩経』には、「維摩詰(ゆいまきつ・主人公の維摩居士のこと)はまた文殊師利に問う。何が如来の種か。答えて言う。一切の煩悩や苦しみは如来の種となる。五逆罪を犯して無間地獄に堕ちると言っても、なおよく大いなる道への心を起こす」とある。また、「たとえば、よき者よ。高原の陸地には青蓮華は咲かず、低い土地の泥の湿地にこの花は生じるようなものである」とある。また、「すでに阿羅漢(あらかん・小乗における悟りを開いた聖者)を得て師となる者は、最後まで再び悟りを求める心を起こして仏法を悟ることはない。身体機能が衰えた者は、五欲の楽しみを再び味わうことができないようなものである」とある。この経文の意味は、貪・瞋・癡の三毒は仏の種となり、父を殺すなどの五逆罪は仏の種となり、高原の陸地には青蓮華が生じないように、二乗は仏になることはできないということである。二乗の諸善と凡夫の悪とを比べれば、凡夫の悪は仏になっても、二乗の善は仏とはならないということである。諸の小乗経には、悪を戒め善を褒める。この『維摩経』では、二乗の善を謗り凡夫の悪を褒めている。これでは、かえって仏経とも思えず、外道の法門のようであるが、意味するところは、二乗が永遠に成仏しないということを強く定めているのである。

『方等陀羅尼経』には、「文殊菩薩舎利弗に次のように語った。枯れ木に花が咲くであろうか。また、山の水は再び水源に戻るであろうか。割れた石は再びくっつくであろうか。焼けた種は芽を生じさせるであろうか。舎利弗は言った。いいえ。文殊菩薩は言った。もしそうであるならば、あなたが私に成仏の記(き・将来に仏となるという約束)が得られるだろうかと質問した時、私の心に歓喜が生じるだろうか」とある。この経文の意味は、枯れた木は花を咲かせず、山の水は山に還らず、破れた石は合わず、炒った種は芽を出さないように、二乗もまた同様であり、仏の種を炒ってしまったようである。

大品般若経』には、「諸の天子よ。今、まだ最高の悟りを求める心を起こしていない者は、まさに起こすことができる。もし声聞の正位に入ってしまえば、その人は最高の悟りを求める心を起こすことはできない。なぜであろうか。もはや生死から離れてしまっているためである」とある。経文の意味は、二乗は悟りを求める心を起こさないので仏は随喜(ずいき・相手の喜ばしい状態を共に喜ぶこと)しない。諸天は悟りを求める心を起こすので仏は随喜するのである。

『首楞厳経』には、「五逆罪の人、この首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい・最高の瞑想という意味)を聞いて、最高の悟りを求める心を起こすならば、かえって仏となることができます。世尊よ。煩悩の尽きた阿羅漢は壊れた器のように、永遠にこの三昧を受けるにふさわしくありません」とある。『浄名経(=維摩経)』には、「あなたに施す者は福田(ふくでん・福を生じさせる者)とは名付けない。あなたを供養する者は三悪道に堕ちる」とある。経文の意味は、摩訶迦葉舎利弗などの聖僧を供養する人や天は、必ず三悪道に堕ちるということである。

これらの聖僧は、仏陀を除いては、人と天の眼目のようであり、一切衆生の導師と思われているところを、多くの人と天が集まっているところで、たびたびこのようにおっしゃることは、本意ではないのだろうか。また自らの弟子を責め殺そうとしているのだろうか。この他、牛と驢の二つの乳、瓦器と金器、螢火と日光などの無量の喩えをもって、二乗を責めておられる。それも一言二言ではなく、一日二日でもなく一月二月でもなく一年二年でもなく、また一経二経でもなく、約四十年間、無量無辺の経典に、そして無量の集いにおいて多くの人に対して、一言も許されることなく謗られているので、これは世尊の偽りの言葉ではない。私も知り、人も知り、天も知り、地の人も知る。それも一人二人ではなく百千万人、三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲天・色界・無色界・十方世界から雲のように集まっている人天・二乗・大菩薩など、みなこれを知る。またみなこれを聞く。そしてそれぞれの国に帰って、娑婆世界の釈尊の説法をそれぞれの国において一つ一つ語れば、十方無辺の世界の一切衆生、一人も漏れることなく、摩訶迦葉舎利弗などは永遠に成仏できない者、供養してはならない者だと知ることになる。

ところが、釈迦の最後の八年間において説かれた『法華経』では、たちまちそれを覆して、二乗も仏となると仏陀は説かれたので、人天の大いなる集いにおいて、信仰を得ることができるだろうか。受け入れられないどころか、前に説いた経典に対して疑いを持ち、それまでの五十年余りの説教はみな虚妄の説となってしまう。『法華経』には、「四十年余り真実を表わしていない」などの等経文はあるが、天魔が仏陀となって、最後の八年間の経を説いているのか、と疑っているところに、さらに具体的に仏になるまでの期間を明らかにして、その仏国土の名称と仏の名を説き、二乗成仏の国を定め、その国の劫を明らかにして、教化する弟子まで定められているならば、教主釈尊の言葉はすでに二言となってしまっている。自語相違とはこのことである。外道が仏陀を大妄語の者と言うことはこのことである。人天の集いが興ざめしそうになっているところに、東方宝浄世界の多宝如来が、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗って現われたのである。教主釈尊が人天の集いにおいて自語相違を責められて、どうこう言ってさまざまに説いても、その不信は晴れることはないであろうと持て余していたところ、仏前に大地より涌き現われて、虚空に上って留まったのである。たとえば、闇夜に満月が東山より出たように、七宝の塔が虚空に留まって、大地にもつかず、虚空にもつかず、天中の宝塔の中から偉大な音声をもって証明して、「その時に宝塔の中より大音声を出して讃えて次のように言った。善いことだ善いことだ、釈迦牟尼世尊、よく平等の大いなる智慧・菩薩を教える法・仏が念じて護られる妙法蓮華経をもって、大衆のために説かれた。その通りだ、その通りだ。釈迦牟尼世尊が説かれた教えはすべてみな真実である」とある。また、「その時に世尊、文殊師利などの、無量百千万億の昔から娑婆世界に住んでいた菩薩たち、そして人非人などの一切の衆生の前において、大神力を現わされた。広長舌を出して、上は梵天の世界に届かせ、一切の毛孔より光を放ち、またそして、十方世界のあらゆる宝樹下の師子座の諸仏も、また同じように、広長舌を出し無量の光を放たれた」とある。また、「十方より来られた諸の分身の仏を各本土に帰らせて、多宝仏の塔、帰って以前のようにされますように」とある。大覚世尊が初めて悟りを開かれた時、諸仏が十方に現われて釈尊を慰め祝福した上、諸の大菩薩を遣わされた。『般若経』の時は、釈尊は広長舌で三千世界を覆い、千仏が十方に現われた。『金光明経』には、四方の四仏が現われた。『阿弥陀経』には、六方の諸仏、広長舌で三千世界を覆った。『大集経』には、十方の諸仏菩薩、大宝坊に集まった。これらと『法華経』を比較して考えると、黄石と黄金と、白雲と白山と、白氷と銀鏡と、黒色と青色とを、眼の悪い者は見間違えてしまうだろう。最初の『華厳経』には、先後の経典がないので、仏の言葉に相違はない。どうして疑いが出て来ようか。なし。『大集経』・『大品般若経』・『金光明経』・『阿弥陀経』などは、諸の小乗経の二乗を責め叱るために、十方の浄土を説き、凡夫が菩薩を慕うようにさせ、二乗を嫌うようにさせたのである。小乗経と『法華経』以外の諸大乗経とは、多少の相違があるために、十方に仏が現われ、十方より大菩薩が遣わされ、十方世界にもその経典を説くことを知らせ、十方より諸仏が集まって来て、釈尊は広長舌で三千世界を覆い、諸仏も広長舌を出す様子を説いているのである。これはひとえに、諸小乗経では十方世界にただ釈迦一人が仏だと説かれていることを破るためである。これは、『法華経』のような先後の諸大乗経と相違があって、舎利弗などの諸の声聞・大菩薩・人天たちが、仏が魔になったのではないかと思うほどの大事ではないのである。しかし、華厳・法相・三論・真言・念仏などの眼の悪い輩たちは、彼らの経典と『法華経』とは同じと思っていることは、実に拙い眼だと言わざるを得ない。

ただし、仏の在世中は、四十年余りの教えを捨てて、『法華経』につく者もあったであろうが、仏の滅後にこの経文を開いて見て信受することは難しいであろう。何よりも、『法華経』以前の経典は言葉が多い。『法華経』はそれに比べれば一言のようなものである。以前の経典は数が多い。この経典は一つしかない。以前の経典は長年説かれてきたものである。この経典は八年間である。仏は大妄語の人であり信じるべきではないと言っても、以前の経典は数が多く言葉も多いので、不信の後に信じることもあるであろうが、『法華経』は相変わらず信じることはないであろう。現在、『法華経』をみな信じているようであるが、それは本当に『法華経』を信じていることではない。なぜならば、『法華経』と『大日経』と、『法華経』と『華厳経』と、『法華経』と『阿弥陀経』とが一つだと言う人には喜んで帰依し、別々だと言う人は用いられない。たとい用いられたとしても、それは本意ではないと思われる。

(つづく)