大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 160

『法華玄義』現代語訳 160

 

第四目 正しく解釈する

もし『大集経』によるならば、修行の法の因果を蓮華とし、菩薩が蓮華の上に坐ることは因の花であり、仏の蓮華を礼拝することは果の花である。もし『法華論』によるならば、その住む所の国土を蓮華とする。また菩薩が蓮華の行を修することにより、その報いによって蓮華の国土を得る。まさに知るべきである。国土とそこに住む者の因果は、すべて蓮華の法である。どうして譬喩が必要であろうか。能力の低い者に、法性の蓮華を理解させるために、この世の花を用いて喩えとすることにおいても妨げはない。

しかし、『法華経』の中の二か所に「優曇鉢華(うどんはつげ・三千年に一度だけ咲く花)が一度だけ現われるのみ」とある。この花はもし生じれば、転輪聖王が世に出る。この『法華経』を説くならば、仏は授記を授ける。法の王は世間の王である。この霊瑞の花は、蓮華に似ているために、喩えとしている。この意義に従えば、これは喩えをもって妙法を表わしている。

譬喩には、部分的な譬喩と全体的な譬喩がある。『涅槃経』の通りである。ただ部分的な譬喩は、まるで月をもって顔を喩えても、眉毛や目は表現できないようなものである。雪山をもって象を喩えても、その尾や牙は表現できないようなものである。この法華三昧は、喩えとするものがないが、ただこの蓮華を喩えとするだけである。

花には多種ある。すでに前に説いた通りである。ただこの蓮華だけが、花と実が共に多い。因に万の修行があり、果に万の完全な徳があることに喩えられる。このために喩えとする。

また他の花は麁であり、九法界の十如是の因果を喩える。この花は妙であり、仏法界の十如の因果を喩える。

 

〇二門六譬

(注:これ以降の長い記述には、特に段落が設けられていない。しかし内容はいくつかの段落に分けられる。そのため、原文にはないが適宜に段落と見出しをつけながら進めて行く)

またこの蓮華の花をもって仏法界の迹門と本門の二門を喩えれば、それぞれに三つの譬喩(注:迹門と本門で合計六つの譬喩)がある。

迹門の三つの譬喩とは、次の通りである。

一つめは、花があれば必ず実がある。実のための花であるので、実は外からは見えない。これは、実(じつ)について権を明らかにすることであり、その意義は実にある。権は見えて、実を知る者がいないことに喩える。『法華経』に「私の意は測ることが難しく、問いを発する者もいない」とある。また「適宜に説く内容の意趣は理解することが難しい」とある。

二つめは、花が開くと実が現われる。しかも、花を用いて実を養う。権の中に実があっても、知ることができないことを喩える。今、開権顕実するに際して、その意義において権が用いられる。広く大河の砂の数ほどの仏法を知ることは、ただ実を成就させ、深く仏の知見を知らせるためである。

三つめは、花が落ちて実が成ることは、すなわち三乗を排除して一乗を顕わすことを喩える。「ただ一仏乗をもって直ちに道場に至る」とある。菩薩は修行をするので、見ることは明瞭ではない。しかし諸仏には修行がないので、見ることは明瞭である。たとえば、花が落ちて実がなるようなものである。

以上の三つは、迹門の最初の方便から導いて大乗に入り、最終的に円満することを喩えている。

また、三つの譬喩をもって本門を喩えるのは次の通りである。

一つめは、花に必ず実があるのは、迹に必ず本があり、迹に本が含まれることを喩える。その意義は本にあるといっても、仏の趣旨は知ることが難しい。弥勒菩薩も知ることができない。

二つめは、花が開いて実が現われるのは、開迹顕本を喩える。その意義は迹にある。よく菩薩に仏の方便を知らせる。すでに迹を知り終われば、かえって本を知り、生死を減らして仏道を進める。

三つめは、花が落ちて実が成るのは、廃迹顕本を喩える。すでに本を知り終えれば、また迹に迷うことはない。ただ法身において道を修し、さらに上の位を円満するのである。

この三つの譬喩は、本門の始めの初開より終りの本地に至ることを喩える。

この二門六譬は、それぞれさらに当てはまるものがある。

始めの迹門の一つめの譬喩は、仏界の十如より九界の十如を出すことについてである。次の迹門の二つめの譬喩は、九界の十如を開いて、仏界の十如を顕わす。迹門の三つめの譬喩は、九界の十如を排除して、仏界の十如を成就する。この三つの譬喩は迹門の最初から最後までを収め尽くす。もしこの意義を知れば、十二因縁・四諦・三諦など、智妙・行妙・位妙から始まって功徳利益妙までも、またこの譬喩を用いて喩えることができる。

本門の一つめの譬喩は、本門の仏界の十如から、迹門の中の仏界の十如を出すことについてである。本門の二つめの譬喩は、迹門の中の仏界の十如を開いて、本門の中の仏界の十如を顕わし出すことである。本門の三つめの譬喩は、迹門の中の仏界の十如を排除して、本門の中の仏界の十如を成就することである。最初から最後まで円満して、開合が具足する。以上が部分的に蓮華を用いて喩えとすることである。

次に、総合的な譬喩とは、次の通りである。『大智度論』に獅子吼(ししく・仏の説法が獅子が吠えるように力強いこと)の意義を理解するにあたって、深山の谷に住む純粋な血統から成長し、身力、手足、爪牙、頭尾、吠える声などの喩えをもって、獅子吼の法門を喩える。また『涅槃経』に波利質多樹(はりしったじゅ・赤い花をつける樹木)の黄色い葉と、尖った箇所と、斑点、果実などによって、広く修行者を喩えているようなものである。蓮華も同様である。最初の種子から実が成るまで、妙法を喩える。たとえば、堅くなった蓮の実の黒い皮の中に白い肉がある。色・香・味・触によって知られ、開花する時になって、細かな部位がある。花を開きしべを敷き、蓮の実の房ができるが、最初と最後は異なることはない。蓮華の最初と最後は、十如是が具足していることを表わす。仏界の衆生は、始めの無明から終わりの仏果に至るまで、十如是の法に欠けたところがないことを喩える。以上、総合的に喩えることを終わる。