大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 158

『法華玄義』現代語訳 158

 

⑨.利益

本門の十妙の解釈における第九は、利益である。先に生身(しょうしん・この世に現われた身)の利益を明らかにし、次に法身の利益を明らかにする。生身は迹門と本門の両方に利益を得る。迹門に会三帰一し、開権顕実して、生身の菩薩が利益を得るのは、十妙の中において境妙・三法妙・感応妙・神通妙・説法妙の五妙の利益を得る。なぜならば、境妙はすべてに通じて、すべてを備えている。三法妙は個別的なもので究竟は仏にある。感応妙・神通妙・説法妙はみな果の上の利益である。もしまだ果を証せずにいれば、この利益に当てはまらない。

六即の位の中においては、理即・名字即・分真即・究竟即の四即の利益を得る。理即と究竟即については前に説いた通りである。ただ名字即と分真即においては、智妙・行妙・位妙・眷属妙・功徳妙を得るのみである。舎利弗が授記を得るようなものであり、また、僧侶、尼僧、男女の在家信者と天龍八部衆歓喜して、偈を説いて「大いなる智慧舎利弗。今、世尊の授記を受けることができた。私たちもまた同じである。みなまさに仏になることができるであろう」と言った。すなわちこれは生身の菩薩が、迹門の説法を聞いて利益を得る相である。

本を発して迹を顕わし、仏の寿命は長遠であると説けば、観仏三昧を大いに増長することができる。これにより、生身の菩薩は、十妙の中の五妙の利益を得る。六即の中の四即の利益を得る。生死を減らし、仏の道を増す。二住の位から等覚の位に至るまで、みなこれは法身であり、十妙の中の五妙の利益を得る。なぜであろうか。応生は本地の功徳を聞けば、観仏三昧がさらに深く広くなり、測ることができないほどとなる。前に述べた迹門の中の利益に比べることができない。なぜなら仏の境は非常に深ければ、功徳もまた大きい。このために『法華経』の「分別功徳品」に「仏は希有の教えを説く。昔から今まで、かつて聞いたことのないものである。世尊に大いなる力があり、寿命は測ることができない。法の利益を得ることができる者について説くと、歓喜が身に充満する。あるいは不退地に住み、あるいは陀羅尼を得る」とある。すなわちこれが、生身と法身の二身の利益を得る相である。

もし実道の利益を得ることを述べれば、迹門と本門は異なることはない。しかし、権智の事象的な働きは、比較することができない。たとえば、慧解脱(えげだつ・知性的な理解のみの解脱という意味)と俱解脱(ぐげだつ・理性的次元のみならず具体的次元を伴った行を修して、具体的次元と理性的次元の煩悩を破ること)の無漏は不二であるが、功徳の優劣はあるようなものである。前の迹門の得道は、ただ無生法忍に限り、本門の得道は、等覚の位に限り、塵の数ほどある。多少深浅など、どうして迹門と同じであろうか。まさにその文を選ぶべきである。発心のところによれば、すなわち六根清浄の位である。そしてこの等覚の位は、最後の分真即に相当する。

次に流通(るつう・教えを広めること)の利益を述べる。前に迹門を流通することは、あらゆる誓願を発する菩薩や授記を受けたあらゆる阿羅漢が、この国土や他の国土に『法華経』を広めるのである。その功徳を述べた文を見ると、ただ目に見えない利益を明らかにするのみであり、目に見える利益を説かない。今、本門について述べれば、すべての諸仏のあらゆる教えを委ね、兼ねて迹門の教えを得る。『法華経』の「神力品」に「秘奥の蔵(=秘要の蔵)」とあることは、すなわち本門と迹門の中の実相である。「一切甚深の事」とは、本門と迹門の中の因果である。このような教えを、千世界の塵の数ほどいる菩薩に委ね、法身の地に『法華経』を広める。これがどうして、生身のこの国土や他の国土に広めることと同じであろうか。十法界の身があらゆる国土に遊戯すれば、すなわち目に見える利益と目に見えない利益の両方がある。

疑う者は「法身は常に仏である。なぜ菩薩が広める必要があるのか」という。

広めることは人によることなので、時間が必要であり、協力者が必要である。仏は世にいるとはいっても、『法華経』の「提婆達多品」にあるように、文殊菩薩が仏に代わって龍宮に入るようなものである。法身の場所に仏がいるといっても、外的な条件が必要である。このために、仏は教えを委ねるのである。舌を出し、頭をなでて、あらゆる形を通して、丁寧に委ね、この教えを広めさせ、無量の微妙の功徳を得る。これを聞く者の妙の功徳は数えることができない。このために経文に「もし仏が寿命を説くことを聞くことができれば、すべての者たちが歓喜し、無量の無漏の功徳の果報を得る」とあり、それはこの意義である。

 

⑩.観心

本門の十妙の解釈における第十は、観心である。本の妙は長遠である。どうして心に観じることができようか。しかし、心そのものではないとしても、心を離れるものではない。なぜならば、仏の如(にょ・真理は言葉に表現できないので、そのようなものだ、という意味の如という言葉で表現する)と衆生の如は、一如であって二如ではない。仏はすでに心を観じて、この本の如を得ているので、迹の働きは広大であり、言葉で表現できない。私の如は仏の如の如くである。またまさに心を観じて、この大いなる利益を出すべきである。また願わくは、私の如は速やかに仏の如の如くになることを。このために、『法華経』に「仏の寿命について聞いて、よく信じ受け入れるならば、そのような人たちはこの経典を敬って受け、『私は未来において長く生き続け、人々を悟りに導こう』と。今日の世尊が、シャーキャ族の王として世に出て、道場において師子吼(ししく)し、教えを説くにあたって恐れるところがないように『私たちも未来世に、すべての人に尊敬せられ道場に座る時、このように寿命について説こう』と願うのだ」とある。これはすなわち観心の本の妙に、六即の位の利益を得る相である。

(注:実質的にはここで「本門の十妙」の内容は終わる。つまり妙の項目自体も終わるわけであるが、最後に「妙」と「大乗」の関係について問答方式の箇所がある)。

問う:大乗と妙の関係はどうか。

答える:これは『法華経』の中の三組の言葉の六つの句によって分別すべきである。経文に「仏は自ら大乗に住む」とある。また「このような大果報」とある。また「大車(大乗を喩えるもの)あり」と。しかし、『法華経』の経題は「妙」としている。また、『涅槃経』には「大般涅槃微妙の経典」とあって、この経題は「大」としている。妙に即して大、大に即して妙である。『大品般若経』に「五陰の色(しき)は深ではなく妙ではなく、(最後の)識は深ではなく妙ではない」とある。これは大乗の教理をもって妙を破っていることである。『法華経』には「すべての実在は空寂であり、無漏であり、無為であり、無大であり無小である」とある。これは妙が大乗の教理を破っていることである。小乗の大阿羅漢の者もなお妙を修す。四諦の十六相の滅諦の滅・止・妙・離においては、妙はなお大乗の教理を修す。

問う:もし大乗と妙が一つであり等しければ、他の大乗経典もまさに妙と呼ぶべきではないか。

答える:他の大乗経典は共通して大乗の教理を述べるものである。理法的に述べれば、大乗の教理と妙は異ならない。しかし、個別的には方便を帯びる。この『法華経』は方便を帯びることがないので、個別的に妙とする。そこには小乗も入ることができる。発迹顕本するために、個別的に妙とする。

問う:大乗と小乗が共に妙とすれば、大乗と小乗は共に、大乗の教理である常・楽・我・浄の常を明らかにしているのか。

答える:一往はそうである。しかし、根本的には排除される。小乗の滅・止・妙・離は名称は同じく、大乗のそれとは理法が異なる。それは常を得ることができない。

問う:繰り返して言うが、それは妙ということができるのか。

答える:妙は不可思議という意味で名付けられる。小乗の真諦は、言葉をなくし、思慮を絶する。共通してこれも不思議とすることができるので、共通して妙とするのみである。このことは他のことにもすべて当てはまる。また三無為(さんむい・この世における三つの常に変わらないものとされる三つ。虚空、悟り、縁がないために生じないものの三つを指す)を常とするが、その意義は大乗の常とは異なる。

また問う:すでに共に常とすれば、また一つになるのか。

答える:あらゆる見解を合わせて同じく真に入るが、それは一つになることではない。

また問う:それは、共に無常であるのか。共に麁であるのか。共に一つにならないのか。

答える:比較すれば共通するが、意義は異なる。

問う:どうして大乗は無常なのか。

答える:大乗はただ無常がないだけではない。また常もない。常がないために無常という。

問う:どうして大乗は麁なのであるか。

答える:言葉で表現する限り、それらは麁である。

問う:どうして大乗の各教説は一つとならないのか。

答える:すべての実在はすべて仏の教えそのものであるので、どうして一つとなる必要があるのか。