大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 168

『法華玄義』現代語訳 168

 

第五目 観心をもって経を明らかにする

以上述べてきたことに基づいて、四つの項目(第一は無翻の立場において。第二は有翻の立場において。第三は有翻と無翻を融合する立場において。第四は法を経る立場において)において観心を立てる。

⑤.第一.無翻の立場において

無翻の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む。Ⅱ.心は法の本である。Ⅲ.心に発せられる過程を含む。Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む。Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む。Ⅵ.墨の縄という意味を含む)を立てる。

⑤.第一.Ⅰ.心に善悪のあらゆる心を含む

まさに知るべきである。この心は諸法の都である。どうして一つの意義に決めつけることができようか。もし悪が心であるならば、心に善およびあらゆる種類の心を含まないことになる。もし善が心であるならば、心に悪およびあらゆる種類の心を含まないことになる。何をもって心の名とするかはわからない。したがって、心という名称によって、すべてを含ませるのである。このような略称である心はすべてを含むのである。どうして「スートラ」という言葉の意味であるところの「法の本ということ」「発せられる過程」「泉のように涌き出るという意味」「墨の縄という意味」「花輪を結ぶという意味」の五つの意義を含まないことがあろうか。『華厳経』に「一つの微塵の中にすべての世界の経巻がある」というのは、この意味である。

⑤.第一.Ⅱ.心は法の本である

大智度論』に「すべての世界の中において、心から作られないものはない」とある。心がなければ思いや感覚はなく、思いや感覚がなければ言語はない。まさに知るべきである。心は言葉の本(=「教」の本)である。『大集経』に「心行、大行、偏行」とある。心は思いの作用である。思いの作用は(五陰の中の)行陰に属する。あらゆる修行は思いの作用によって成り立つので、心は行の本である。もし心がなければ、理法は何と合致するのであろうか。修行の最初の心に理法が研ぎ澄まされると恍惚となって、悟りに似た心境になり、やや相似位に入り、真実を証する。これを心は理法の本であるとする。

⑤.第一.Ⅲ.心に発せられる過程を含む

最初の一瞬の心はわずかに生じ、次の心はそのまま持続するか、あるいは消滅し、次にようやく増長し、最後に確定的に心の状態を口に発する。これが、教えが発せられる過程である。最初に行を習う際、その行は微弱であり、次に少し確立され、最後の大いなる修行となる。これが、修行が発せられる過程である。最初に心を観じる際、心の理法は見ない。さらに修する時、理法が髣髴と浮かび上がり、相似位に至って真実となる。これは、理法が発せられる過程である。

⑤.第一.Ⅳ.心に泉のように涌き出るという意味を含む

心に諸法が備わっていても、煩悩の妨げによって流れ出ない。泉を埋めている土石を取り除けば、泉は涌いて流れ出るようなものである。もし心を観じることをしないなら、心は暗く明らかではない。言うまでもないことである。もし明らかに心を観じるならば、教えは豊かに流れ出て、尽きることはない。これがどうして、教えが泉のように涌き出ることでないことがあろうか。もし心を観じることをしないなら、修行に隔たりが生じる。心を観じることをもって、一念一念が相続して、六蔽(ろくへい・慳貪(けんどん)、破戒、瞋恚、憐念、散乱・愚痴)を翻して六波羅蜜を成就し、その六波羅蜜にすべての行を収める。これは、行が泉のように涌き出ることである。もしよく心を観じるならば、鋭い鍬をもって地面を耕し、石や塩気の土を取り除き、理法の水が清く澄み、滔滔(とうとう)と流れて尽きることがないようなものである。これは、義(=理法)が泉のように涌き出ることである。

⑤.第一.Ⅴ.心に花輪を結ぶことを含む

観念が正しければ、一つの教えを聞き保ち、経文を読むにあたって誤りはない。心を観じて禅定の力を得れば、行を修するにあたって誤りはなく、心を観じて道共戒(どうぐかい・悟り得た道そのものが戒として働くこと)の力を得れば、義を明らかにするにあたって誤りはない。また心を観じて、禅定の智慧を得れば、法身を荘厳して顕わす。これはみな理解すべきである。

⑤.第一.Ⅵ.墨の縄という意味を含む

もし心を観じて正語を得れば、真理を曲げる誤った教えから離れる。心を観じることが正しければ、誤った修行を免れる。心に見の執着がなければ、正しい理法に入る。事象的な行は縄のようであり、理法的な行は墨のようである。愛・見の木を切って、正しい教えの器を作るのである。

以上が心の「経」に多くの意義を含むことであり、概略的に十五の意義を示した。

⑤.第二.有翻の立場において

有翻の立場の観心において、六つの項目(Ⅰ.心は拠り所である。Ⅱ.心は契である。Ⅲ.心は法の本であり線である。Ⅳ.心は善語教である。Ⅴ.心は軌範である。Ⅵ.心は常である)を立てる。

⑤.第二.Ⅰ.心は拠り所である

教・行・義の三義は心による。すべての教の言葉は粗い心と微細な心により、すべての行は心の思いにより、すべての義は智慧の心による。『維摩経』に「諸仏の解脱は、まさに衆生の心の働きの中に求めるべきである」とある。心は縦糸と横糸である。悟りを縦糸とし、観心を横糸として、教えの言葉を織りなす。また、智慧の行を縦糸とし、行の行を横糸とし、あらゆる修行を織りなす。心の時間的な流れにおいて理法に結び付くことを縦糸とし、心の空間的な範囲において理法と結び付くことを横糸として、義の理法を織りなす。観心の境を縦糸とし、観心の智を横糸とし、観心を巡らせてすべての文章を織りなす。

⑤.第二.Ⅱ.心は契である

観心の境に契(かな)うということは、縁に契うことである。四随(しずい・そのまま「四悉檀」に対応する。「四悉檀」は『大智度論』の中に記されているが、この「四随」は、禅を説く経典に記されているとあるがどの経典か不明である)」の随楽欲(ずいぎょうよく)に契う心を教に契うとし、随便宜(ずいべんぎ)・随対治(ずいたいじ)に契う心を行に契うとし、随第一義(ずいだいいちぎ)に契う心は理法に契う。

⑤.第二.Ⅲ.心は法の本であり線である

前に説いた通りである。

⑤.第二.Ⅳ.心は善語教である

法と教えの言葉は、共に善悪に通じる。ここで、善法・善語をもってこれを定める。心と観心はまた善悪に通じる。ここで、善心・善観をもってこれを定める。すなわち、これは、善語教・善行・善理である。したがって、心に三義を備える。

⑤.第二.Ⅴ.心は軌範である

もし観心がなければ、軌範はない。観心をもって心王(心がすべてを動かすので王に喩えている)を正す。心王が正しければ、心の作用も正しい。行・理も同様である。心王が理法に契えば、心の作用も理法に契う。したがって、規範と名付ける。

⑤.第二.Ⅵ.心は常である

心の本性は常に定まっていて、虚空のようである。誰がこれを破ることができようか。また悪しき悟りは、良い悟りを破ることができない。誤った修行は正しい修行を犯さない。誤った理法は正しい理法を破らない。このために、心を常と名付ける。

以上、あらゆる事象的解釈によって、それぞれ心に向かって観心を修する。観心の智慧がいよいよ成就して、事象において誤ることはない。火に薪を加えるように、事象的なことと理法的なことに誤りがない。文字に即して文字はなく、文字を捨てないままに、しかも別に観心を修する。

⑤.第三.有翻と無翻を融合する立場において

理解すべきである。

⑤.第四.法を経る立場において

小乗は、悪の中に善はなく、善の中に悪がないと説く。事象的なことと理法的なことにおいても同様である。すなわち、悪しき心は経ではないので、義が多く含まれることはない。狭い道では二人が並んで進むことはできない。一方、大乗の観心は、悪しき心を観じれば、それを悪しき心ではないとする。また悪に即して善である。またすなわち、悪でなく善でない。善い心を観じれば、それを善い心ではないとする。また善に即して悪である。また善でなく悪でない。

一心を観じれば、すなわち三心(三諦の心)である。この三心をもってすべての心を経て、すべての法を経る。どの心、どの法が、一つであり三つであろうか。すべての法はこの心に赴き、すべての心はこの法に赴く。

このように心を観じることを、すべての語(=教)の本、行の本、理法の本とする。有翻の五義、無翻の五義は、一つ一つの心において、解釈して滞ることはない。すべての心に遍く行き渡り、これが経でないことはない。大まかな意義は理解すべきである。多く記す必要はない。

(注:以上をもって「釈名」は終わる)