大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 199

『法華玄義』現代語訳 199

 

第七目 五宗の批判

五宗に対する批判は、その中の四宗に対して非難したことは同じである。もし『華厳経』を法界宗として、『大般涅槃経』と異なり、『涅槃経』は法界宗ではなく、ただ常宗と名付けると言うならば、『大般涅槃経』に「大般涅槃は諸仏の法界である」とある。どうして『涅槃経』が『華厳経』よりも劣っているのか。もし常住は法界ではなく、法界は常住でないならば、まさに生滅があるはずである。常住は法界でなければ、法を摂取し尽くすことはできない。これはみなあり得ないことである。『大品般若経』に「一法として法性の外に出るものを見ない」とある。法性はすなわち法界である。また「すべての法は色に趣く。この趣くことを過ぎない」とある。これがどうして法界の説ではないだろうか。しかしただ『華厳経』は法界であって『涅槃経』・『大品般若経』とは異なると言うのだろうか。

 

第八目 六宗の批判

六宗に対する批判は、その中の四宗に対して非難したことは同じである。ここで、真宗と常宗の二つの宗を問う。真宗と常宗がもし同じならば、なぜ二つの宗とするのか。真宗と常宗が異なっているならば、共に妙法ではない。なぜなら、真宗がもし常宗でなければ、真宗はすなわち生滅である。常宗が真宗でなければ、常宗はすなわち虚偽である。また真宗が常宗でなければ、前の三宗とどこが異なっているのか。もし常宗は真宗でなければ、すなわち破り壊れる法である(注:ここでは、経論を引用するのではなく、もっぱらその名称についての批判である。真宗の真とは、真理という意味であり、常宗の常とは、ここまで何度も繰り返されているように常住のことである。そうすると、真宗と常宗は同じことになる。常住とは時間を超越した絶対的真理を指すからである。しかし、あくまでも異なっているものだとするならば、絶対的真理が他の何ものかと相対することはあり得ないので、真は生滅する相対的なものとなり、常ということも虚偽となり、絶対的真理である妙法とは言えない。これでは、他の三宗と異なったところはないではないか、というのである)。

 

第九目 円宗の批判

もし『大集経』の染浄円融(汚染と清浄が円融しているという教え)は、『涅槃経』と『華厳経』に異なると言うならば、これもまた誤りである。『大品般若経』に「色はすなわち空である。色が滅して空となるのではない」とある。『大智度論』にこれを解釈して「色は生死であり、空は涅槃である。生死の究極と涅槃の究極とは、一つにして二つではない」とある。これはどうして染と浄が共に円融するということでないことがあろうか。また「すべては色欲に趣き、瞋恚に趣き、愚痴や諸見などに趣く」とある。どうしてこれが共に円融する相でないことがあろうか。『維摩経』に「すべての煩悩は如来の種である。愚痴や愛を断じないまま、あらゆる解脱を起こす。道でないものを行じて仏の道に通達する」とある。この円融は何であるか。『大集経』と異なっているだろうか。

この六宗と五宗は、みな四宗によって開かれている。ただ四宗の根拠となる経文はない。あるいは「『頂王経』に出ている」と言う。ある経典には「初めに因縁の諸法が空であることを説き、次に諸子に一乗常住の法を教える」とある。「諸法が空である」ならば、まさにこれは仮名宗であるはずがない。「一乗常住」ならば、まさにこれは通教・誑相宗であるはずがない。あるいは「その経典が中国に渡って来なかったのである」と言う。四宗はすでにそうであるならば、五宗・六宗は四宗によって開かれ立てられている。みな信じて用いることはできない。

 

第十目 有相無相の大乗教の批判

有相と無相については、まさに説く必要はないのである。なぜなら、もともと真について俗を論じれば、かえって俗について真を論じることになる。すべての智者は無為法を用いるが、そこに違いがある。『華厳経』に十地を論じるといっても、それは法身を説くためのものである。『楞伽経』・『思益経』にまた空を論じるといっても、どうしてかつて無生法忍を説かなかったことがあろうか。

もしもっぱら有相を用いるならば、相はすなわち体がないものである。その教えは何を明らかにするのだろうか。また悟りも得られない。もしもっぱら無相を用いるならば、無相は真寂であり、言葉を超越して相を離れている。言語道断、心の動きが滅びれば、またすなわち教えとはならない。どうして説くことができようか。もしこれが教えだと言うならば、教えは相である。なぜ無相と言うのか。

大品般若経』に須菩提が質問して「もし諸法は畢竟してあるところがなければ、どうして一地から十地があると説かれるのか」と言っている。仏は答えて「諸法は畢竟してあるところがないことをもってのゆえに、すなわち菩薩の初地より十地に至るものがある。もし諸法に確固たる性があれば、すなわち一地から十地はない」と述べている。このために知る。有相と無相の二種の大乗教を、別々のものとして説くことは経文に背く。

 

第十一目 一音教の批判

ただ一つの大乗があるのみであり、三乗の区別がないと言えば、ただこれは実智であって、権智を見ない。もしただ大乗だけならば、『法華経』になぜ「私がもし仏乗を讃嘆するならば、衆生は苦に没する。法を破って信じないために、三悪道に堕す。すぐに方便を思えば、諸仏はみな歓喜する」と言っているのか。このために知る。ただ一つの大乗の教えがあるのではない。もしもっぱら一乗のみならば、またまさに『法華経』においても長者の身だけであろう。すでに汚れた衣があれば、また大乗小乗の相対がある。なぜ混同して一音であると判断して、方便を失うことができようか。もし仏は常に一乗を説いているが、衆生はそれを三乗と見ると言えば、教化において、衆生が主である能化になり、仏は所化になってしまう。仏はすでに能化であれば、まさによく三乗を説く。なぜ一乗を用いることがあろうか。

もし『法華経』はもっぱら一乗であると言うなら、確かにそうである。『華厳経』において、五つの天を行ったり来たりすることは、能力の劣った菩薩のために、別の方便を開いているのである。ましてや他の経典もそうである。

このために知る。一音教が正しければ、『法華経』においてもただ一つの大きな車があるのみとなり、方便を喩える従者はいないことになる。ただ智慧波羅蜜だけがあって、方便波羅蜜がないことになる。