大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 125

『法華玄義』現代語訳 125

 

⑧三涅槃

第八に三涅槃(注:性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃)と三軌を類通させれば、次の通りである。地論宗の人は、「ただ性浄涅槃と方便浄涅槃の二つがあるだけである。実相を性浄涅槃と名付け、因を修して成就するのを方便浄涅槃とする」と言っている。ここでは、理性(りしょう)を性浄涅槃として、因(教えや修行のこと)を修して成就するのを円浄涅槃とする。これは意義上のことである。薪が燃え尽きて火が消えること(注:そもそも涅槃とは、煩悩の火が消えるという概念から生じた言葉であることから、このような表現が用いられる)を、方便浄涅槃とする。これは言葉を用いた文の上のことである。もし因を修して成就するのを方便浄涅槃とするならば、涅槃という言葉が本来持つ意味の、薪が燃え尽きて火が消えることを何の涅槃とするのだろうか。このために知るべきである。まさに涅槃には三種類あるのである。三涅槃は、すなわち三軌である。『法華経』に「この教えは示すことができない。言葉の相が寂滅しているからである」とあり、また「諸法はもとより、常に自ら寂滅の相である」とある。これは性浄涅槃である。まあ「みな如来の滅度をもってこれを滅度だとしている」とある。これは円浄涅槃である。また「私は仏となってから今まで、非常に多くの歳月を経ている。長い間修行して得た悟りであるため、その智慧の光が照らすところは無量である」とある。これもまた円浄涅槃である。また「数多くの生まれ変わりの生を数え、そのところどころに滅度を現わす。この夜において滅度することは、薪が燃え尽きて火が消えるようなものである」とある。どうしてこれが方便浄涅槃でないわけがあろうか。

『涅槃経』の題名が「大般涅槃(だいはつねはん)」と称することは、翻訳すれば「大滅度」となる。「大」とは、この涅槃の本性が大変広く清浄であることによる。「度」とは、悟りの彼岸に至って智慧が満足されることである。すなわち円浄涅槃による。「滅」とは、煩悩が永遠に尽き、煩悩を断じ尽くす徳が成就することである。すなわち方便浄涅槃による。このように、三涅槃はすなわち三軌である。

三宝

第九に一体三宝(いったいさんぽう)と三軌を類通させれば、真性軌は法宝であり、観照軌は仏宝であり、資成軌は僧宝である。このために、法性が動かないことを不覚と名付ける(注:法宝のこと)。仏の智慧は理に適うために、仏を名付けて覚とする(注:仏宝のこと)。事象的なことも理法的なことも和合するために、僧を和合と名付ける(注:僧宝のこと)。『思益経』に「覚を知ることを仏と名付け、煩悩から離れることを知ることを法と名付け、無を知ることを僧と名付ける」とある。これは一体の三宝である。このために、『法華経』に「仏は自ら大乗に住む」とある。「仏」とは仏宝のことであり、「大乗」とは法宝のことである。「この得るところの教えによって衆生を悟りに導く」とあることは、すなわち理法と和合することである。そうであるならば、衆生と和合する。すなわちこれは僧宝である。「世間の相は常住である」とは法宝のことであり、「道場において知り終わる」とは仏宝のことであり、「導師は方便をもって説く」とは、上は理法と和合し、下は衆生と和合することであり、僧宝と名付ける。

一体三宝は、一ではない一であり、三ではない三である。この三と一は、不縦不横である。これを妙とする。これも七位を経る。

⑩三徳

第十に三徳(注:法身徳・般若徳・解脱徳)と三軌を類通させることは、次の通りである。『涅槃経』の三徳は、共に大涅槃を成就する。『法華経』の三軌は、『涅槃経』と共に大乗を成就する。『涅槃経』では法身の徳を明らかにし、『法華経』ではそれを実相という。『涅槃経』に仏性と述べるのは、また一つである。すべての衆生は、みな一乗であるからである。また実相を一乗とする。『涅槃経』に般若の徳を明らかにし、『法華経』に「この智慧の門は難解難入である」「私が得た智慧は微妙であり第一である」また「声聞の教えを完全に理解するにあたっても、この経は諸経の王である」と明らかにしている。これらはみな般若のことである。『涅槃経』では解脱の徳を明らかにし、『法華経』では、何度も示現して、生を現わし滅を現わすことを明らかにしている。衆生を調伏するところに従って、自らは煩悩がないために、他の人々を解脱させ、万善の中の功徳を収めて、すべての果を証することができる。これがどうして解脱でないことがあろうか。『涅槃経』と『法華経』の意義は一致する。

一般の人たちは、表面的な名称に従って、さまざまに解釈する。帝釈天については聞いていても、帝釈天が人間だった時の名を知らないようなものである。ただ『涅槃経』の仏性についての文のみを知って、『涅槃経』の中に一乗が記されていることを知らない。『涅槃経』の文は、明らかに仏性は一つであり、その一つはすなわち一乗であると説く。しかしある人は、「『涅槃経』の一乗は仏性のことであり、『法華経』の一乗は仏性ではない」という。もし『法華経』に仏性が説かれていないというならば、『涅槃経』に、遥かに指して「八千の声聞は、『法華経』の中において、授記を受けることができ、秋収穫して冬に蔵に納めるように、如来性を見て、それ以上することがない」とあるのはどうしてか。しかしある人は、「仏性を説く『涅槃経』の中に、確かに『法華経』についての文はあるが、その中に仏性という言葉はない」という。『法華経』の文に「あらゆる性相の意義については、私はすでに見ている」とある。すでに「あらゆる」とあれば、どうして仏性だけがないことがあろうか。また「世間の相は常住である。道場において知り終わって、導師は方便をもって説く」とある。どうして仏性の文ではないことがあろうか。『法華論』に仏性の水とあり、常不軽菩薩は、衆生に仏性があることを知っている。

(注:『涅槃経』は間違いなく、すでに題名から、釈迦が死ぬ間際に説かれた経典とされる。これは動かせない。また当然、釈迦が最後に説かれたとされる『涅槃経』が、最高の教えを説いていないとすることもできない。したがって、『法華経』は『涅槃経』と内容が一致するとしなければならなくなる。歴史上の事実からは、『法華経』は『法華経』を創作したグループによる経典であり、『涅槃経』を創作したグループとは別であって、それ以上でもそれ以下でもない。この二つの経典の内容が一致するわけがない。どうしても、『法華経』と『涅槃経』を一致させなければならないために、『法華経』に『涅槃経』の主題である仏性という言葉がないことについて、上のようにさまざまに論を展開して、言葉はなくても、内容的には仏性を説いているとしているのである。歴史的事実からみれば、それは無理のある論法となるが、しかし内容的に見れば、『法華経』の説く一乗は、すべての人に仏性があってこそ成り立つことであるので、『法華経』にも内容的に仏性が説かれているとすることは間違いではない)。

また『涅槃経』の三徳を「秘密蔵(ひみつぞう)」とする。経文に「あらゆる子を秘密蔵の中に置いて、私も間もなくその中に入るであろう」とある。これは、自分も他の人々も共に秘密蔵の中に入ることである。『法華経』に「仏は自ら大乗に住み、これをもって衆生を悟りに導く。小乗をもって衆生を救い導くことはしない。すべてを如来の滅度と同じ滅度をもって滅度させる」とある。このように、自らも他の人々も共に如来の滅度に入る。滅度はただこれ涅槃であり、涅槃はただこれ秘密蔵である。『大智度論』に「『法華経』を秘密蔵とする」とある。このように『涅槃経』と『法華経』はさまざまな面で常に同じである。どうしてあらゆる人々は、異なっていると言って対抗して来るのだろうか。もし経文が明らかに異なっているならば、その真意を示して同じだとすることには罪はないであろう。しかしここに述べたように、経文も意義も同じであるにもかかわらず、これを異なっているとすることにどのような良いことがあるだろうか。

ただ『涅槃経』は仏性をもってその中心とするが、一乗の意義を明かさないわけではない。『法華経』は一乗をもってその中心とするが、仏性の意義を明かさないわけではない。聞く相手によって異なる説を立てるが、その意義は常に通じている。もし三徳が縦と横が別であるならば麁であり、不縦不横であれば妙である。これも七位を経る。