大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 197

『法華玄義』現代語訳 197

 

第五目 第五時教の批判

「第五時教」が、釈迦入滅時の仏身の常住、衆生の仏性、一闡提の作仏を説いている、と主張していることについての批判は、以下の通りである。

もしそうならば、問う。成実宗の論師は、俗諦と真諦の二諦によって理法を理解している。第五時教は二諦を摂取するのか。もし二諦を摂取するならば、他の経典と同じである。そして第五時より前の教えの二諦が無常ならば、釈迦入滅時の仏身の二諦をどうして常住とすることができようか。釈迦入滅時の仏身は二諦を出ないで、別教の理法を照らし、別教の惑を破って、常住であるとすれば、前の教えが明らかにする二諦もまた別教の理法を照らし、別教の惑を破るはずである。なぜそれが無常であろうか。衆生の仏性と一闡提の作仏も、これと同じように批判することができる。

このために知ることができる。理法を明らかにすることは、前の教えと異なりがない。なぜ前の教えも常住としないのか。

頓教に対する批判も、これと同じである。二諦においては同じであるので、何によって頓とするのか。権は別であるとしても、事象に従って大乗と小乗を区別すべきではない。これは大いに顛倒している。

 

第六目 偏方不定教の批判

不定教は、五時の順序の中にあるのではなく、別に特定の衆生の能力のために説かれるものであり、『金光明最勝王経』『勝鬘経』『楞伽経』『殃掘経』などがこれだという。

それならば、次のように問いたい。『殃掘経』の経典は、釈迦が悟りを開いて六年目で説いた教えである。順序通りに聴衆を列挙することは、他の経典より詳細である。誤りを退けて常住を明らかにすることは、他の経典より分明である。帝釈天梵天、四天王、および十大弟子、そして文殊菩薩まで、みなその誤りを指摘され、そして常住の教えを聞いている。それは自然ではないか。まさに、五時の順番に入れるべきである。しかしここでは不定教としている。

維摩経』もまた誤りを指摘する経典である。ならばどうして五時の順番に入れるのか。また『維摩経』において責められるところは昔のことである。維摩居士の見舞いに行く際、昔責められたと言って、行くことを辞退している。まさに知るべきである。前の十二年にすでに責められているという事実を記していることは、『殃掘経』と同じである。もし『殃掘経』が偏方不定教ならば、『維摩経』もそうであり、五時の順番に入らない。もし『殃掘経』に常住を明らかにすることは、別に特定の衆生の能力のためといえば、『維摩経』に「煩悩の一種は如来の種である」とあって常住を明らかにしている。どうして『維摩経』が五時の順番の中の教えなのか。

 

第七目 五味の教えの解釈の批判

『涅槃経』にある五味の教えの喩えによって五時教を判断し、牛より乳が出ることを用いて、前の十二年の三蔵教の有相教を喩え、乳から酪を出すことを、十二年の後の『般若経』の無相教を喩え、酪から生蘇を出すことを、方等教の褒貶教を喩え、生蘇から熟蘇を出すことを、万善同帰教の『法華経』の教えを喩え、熟蘇より醍醐を出すことを『涅槃経』の「常住教」を喩えているが、それについて批判する。

これは、目に見えて経文に背いており、意義理法も顛倒して、順序通りになっていない。なぜなら『涅槃経』には「牛より乳が出ることは、最初に仏から十二部経(すべての経典をその内容と形式から十二種類に分類したもの)が説かれることを喩えている」とある。どうして十二部経をもって、小乗の九部経の有相教に対応させるのか。第一に、有相教に十二部経はなく、第二に、有相教は仏の最初の説法ではない(注:歴史的には、有相教にあたる教えが、釈迦の最初の説法であるが、天台教学の五時教判においては、あくまでも『華厳経』が最初の説法である)。このために、これをもって対応させるべきではない。

彼は擁護して「小乗にも十二部経はある。『涅槃経』の経文に『雪山に忍草がある。牛がもし食べれば醍醐を出す。さらに他の草もあるが、牛が食べても醍醐を出さない』とある。このために知ることができる。大乗と小乗にはそれぞれに十二部経がある。ただ仏性があるのと仏性がないのとの違いである」と言っている。

それならば、次のように問いたい。たとい共通して十二部経があっても、どうして仏性を明らかにする十二部経を取って、乳味の教えとしないのか。『涅槃経』の第七巻に「(十二部経のうちの)九部経には仏性を明らかにしていない。この人に罪はない。大海にはただ七宝があって、八宝があるということではないというように、この人に罪はない」とある。これによって言えば、もし十二部経に仏性がなければ、この人は罪を得る。すでに十二部経を具すと言えば、どうして仏性を明らかにしないのか。すなわち罪を得る句となってしまう。どうして罪のない十二部経に合わせないのか。

もし十二部経より修多羅を取り出し、修多羅を無相教の『般若経』の教えに対すると言えば、修多羅はすなわちすべての有相教・無相教に共通することになる。五時の経典はみな修多羅である。どうして無相教の『般若経』だけに対するのか。

解釈して「『般若経』の中に仏の直説の意義がある。またこれは第二時である。このためにこれに対する」と言っている。

もし直説はまさに修多羅であると言うならば、『般若経』の中に、譬説・因縁説・授記説・論議説などがある。どうしてただ直説だと言えるのか。『般若経』はあらゆる説を兼ね備えるが、修多羅をもって名称とすれば、他の経典にも直説はある。どうして修多羅に対応しないのか。

もし第二時と言うならば、どの経典が第二時でないことがあろうか。すでに前に批判した通りである。

修多羅から方等教の経典を出すことを、褒めたり責めたりする『維摩経』などの教えに対応させれば、『維摩経』はまさに『大品般若経』の後になければならないことは、すでに前に論破した通りである。

方等教から『般若経』を取り出し、『法華経』に対応させれば、『涅槃経』の経文に「般若」と言っても、曲げて解釈して『法華経』とする。『涅槃経』の経文を曲げて自分の意義に合わせるようなことは、最も意味がない。『涅槃経』に「八千人の声聞は『法華』において授記を受ける」とある。『般若経』において授記を受けるとは言わない。どうして『法華経』を呼び寄せて『般若経』とすることができようか。経文に背き要旨を失い、順序が成り立たない。

般若経』から大涅槃を出す。彼は解釈して「『法華経』より大涅槃を出す」と言っている。これもまた『涅槃経』の経文に合わない。たとえば親の言うことを聞かない子のようであり、群れに従わない羊のようなものである。

五時教の欠点については、その誤りはこのようである。その四時教・三時教は、あえて煩わしくさらに批判する必要はない。南方の教相は、受け入れることはできない。

今、さらに三時教を用いることを批判する。理論派の一派において「十二年の後、終わりの『法華経』に至るまで、同じく無相教と名付ける」と言うことは、『法華経』に三乗を開会しているので、『般若経』もまたまさに一乗に帰すべきである。もしそうでなければ、どうして同じくこれが無相教なのか。四時もまた同様である。