大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  06

『天台四教儀』現代語訳  06

 

第二項「涅槃経」

(注:第六節「法華涅槃時」の第二項となる。先に『法華経』について述べられたので、次に第二項として「涅槃経」とする)。

 

次に『涅槃経』について説く。

(注:原文では、「次に大涅槃を説く」と表記されている。「大涅槃」という言葉は、大いなる涅槃という意味である。「涅槃」は、古代インド語の「ニルヴァーナ」の音写語で、煩悩が完全に消え去ったという意味であり、またそこから仏の入滅を指す言葉となる。『涅槃経』に分類される経典は複数あり、その成立においても紀元前から紀元後に至るまでいくつかあるが、天台教学においては、紀元後に成立した『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』が用いられる。その経典名も大涅槃と意味的には同じであるが、『大般涅槃経』の略称が「大涅槃」なのではなく、『法華玄義』では、その略称は『大経』と記される。

また、最後に釈迦はこの『涅槃経』を説いたということであるが、普通、最後に説く教えが究極的なものであるという常識があるであろう。しかし、天台教学においては、あくまでも最高の教えが記されている経典は『法華経』であり、この『涅槃経』は、『法華経』の教えの補助的な役割をするというように位置づけられている。そもそも『涅槃経』は間違いなく、釈迦が亡くなる直前に説かれた経典ということなので、五時の順番からすれば、最後に来ることは決定的である。それにもかかわらず天台教学では、あくまでも『法華経』を最高の教えとしていることは大変興味深いことである。もし、『涅槃経』に記されている教義がそのままで、ただ経典が説かれた時期について、釈迦が亡くなる直前に説いた経典とされていなかったならば、間違いなく天台教学でもこの経典が、『法華経』より後に説かれたものとはしなかったはずである。経典名が『涅槃経』であり、またこの経典の中にも、前に『法華経』が説かれたと記されているので(大乗経典の中でも、このように他の経典名が記されている経典は大変珍しい)、何よりも、どうしても五時においては最後に説かれた経典としなければならない、という現実がそこに見える。その結果の一つが、五時の名称として、「涅槃時」と独立させず、「法華涅槃時」とあくまでも『法華経』とくっつけたところに見られる。

またしかし、実際に、譬喩や過去世の話などが多く、教理的な内容はほとんどない『法華経』よりも、『涅槃経』の方がはるかに教理哲学的な内容が豊かである。さらに、確かに『涅槃経』は、最後に説かれた経典とされるだけあって、その内容は他の経典に比べれば、より高い次元の教えと言える。そのため、この『涅槃経』に明らかにされている教理的用語が、天台教学における重要な教理として、多く用いられている。天台教学の根本的な土台は、言うまでもなく『法華経』の思想であるが、具体的な教理的用語に関しては、主に『大智度論』や『涅槃経』が用いられているのである)。

 

ここに二つの意義がある。一つは未熟者のために、さらに四教を説いて、仏性(ぶっしょう・言葉の意味的には仏の性質ということ。涅槃経で説かれる中心的教義)について教え、真実の常住(じょうじゅう・肉体は滅びても仏性は滅びず、常に存在するということ)を明らかにして大いなる涅槃に入らせるのである。このために、捃拾教(くんじゅうきょう・拾い集める教えという意味)という。

(注:ここに、『涅槃経』は『法華経』の補助的役割をするということが明らかにされている。つまり、法華経の利益に漏れた者を拾い集める経典なのだ、ということである。しかし、『涅槃経』で中心的に説かれる仏性という教えは、『法華経』には一切記されていない。このことは古来、多くの議論がされてきたが、天台教学では、『法華経』で説かれる一仏乗、つまりすべての人が仏になれるという教えと、この仏性の教えは全く同じなのだとして、天台教学でも仏性という教えはよく用いられている。確かに意味的には通じるが、あくまでも仏性とは、すべての人が仏になれるということではなく、悟る可能性という意味である)。

 

二つめは、後の世において、能力の劣った者が仏の教えを聞いて、仏も滅んでしまうのか、という誤った見解を持ち、命である智慧と真理そのままの身である法身を損ねてしまう者のためである。このために、蔵教と通教と別教の三種の教えを設けて、唯一の究極的な教である円教を補助するのである。このために、扶律談常教(ふりつだんじょうきょう・常住の教えを説くためにその補助として戒律を説くという意味)という。

(注:仏が亡くなる直前に説いた教えであるため、仏となってもの滅びるのだ、といことに執着してしまい、修行などやっても意味がない、という誤った考えや、またその反対に、肉体が滅んでも仏性が常にあるのなら、修行も必要ない、という考えも起こる可能性がある。その両方を防ぐために、方便としての修行や戒律を説いて、その先に真実の常住の悟りがあると教える経典が『涅槃経』なのだ、ということである。しかし、『涅槃経』には、修行は方便であるなどとは記されておらず、仏性は常住であるが、その仏性を表わすためには必ず修行が必要である、と教えている。修行を方便とするのは、あくまでも天台教学の開会の思想によることである)。

 

そして、五味の喩えを用いるならば、『法華経』と同じである。しかしその経典に記されている文を詳しく見るならば、『法華経』は純粋であるが、『涅槃経』には方便が混ざっているという多少の違いがある。このために、この『涅槃経』の経文の中に、摩訶般若から大涅槃を出すとある(注:そもそも、この五味の喩えの出典はこの『涅槃経』である)。また、前の『法華経』と合わせて、第五時とする。