大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  04

『天台四教儀』現代語訳  04

 

第五節「秘密教不定教」

 

(注:前に、化儀の四教は、頓教・漸教・秘密教不定教の四つであると述べた。そしてここまで、頓教と三つの漸教の計四つの教えについて見てきた。そして、ここから、残りの秘密教不定教について見るわけだが、この二つの教えの分類については、今までとパターンが異なってくる。頓教と漸教に対しては、常識的な思考がじゅうぶん通用すると言える。つまりわかりやすい。しかし、この秘密教不定教については、常識的な思考では理解しにくい内容となる)。

 

化儀の四教の第三の秘密教とは、前に述べた頓教と漸教の三つ、これを五時に当てはめると、華厳時・鹿苑時・方等時・般若時の四時となるが、この秘密教はその四時のすべての中にあるのである。なぜなら、如来の身体と口と心は不思議だからである。すなわち秘密教とは、頓教と三つの漸教の教えが説かれても、仏はこの人には頓教として説かれ、あの人には漸教として説かれ、そして聞く者も、自分がどのような教えを受けているかわからない、ということである。そのように仏は各聴衆に利益(りやく)を得させるのである。このために、秘密教という。

そして、化儀の四教の第四の不定教(ふじょうきょう)とは、前に述べた頓教と三つの漸教、これを五時に当てはめると、華厳時・鹿苑時・方等時・般若時の四時となり、また、これを五味の喩えに当てはめると、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味となるが、仏は同じ教えの同じ言葉で説いても、聞く者がそれぞれ異なった理解を得る。これも如来の不思議な力によることである。人々に対して、漸教を説く中で頓教の利益を得させ、頓教を説く中で漸教の利益を得させるのである。そしてその利益も各人同じではない。このために、不定教という。

(注:本文では、秘密教不定教と別々に説かれ、さらに不定教より先に説かれているが、これは少々、わかりにくい。

『法華玄義』では、秘密に対する顕露(けんろ・明らかという意味)という概念が加えられ、秘密教不定教の一種として述べられている。説明すると以下の通りである。

顕露とは、自分がどのような教えを受けているかわかる場合である。つまり、仏が同じ教えを説き、聞く者がそれぞれの能力に従ってさまざまな教えとして受け、自分はどのような教えを受けているかわかる不定教を顕露不定教と名付け、仏がそれぞれ異なった教えを説き、聞く者がそれぞれの能力に従ってさまざまな教えとして受け、自分はどのような教えを受けているかがわからない不定教を秘密不定教と名付ける。したがって、本文にある秘密教とは、秘密不定教のことである。

そしてさらに、不定教と対照的な定教(じょうきょう)という概念も生じる。結局、すべての教えは、頓教と三つの漸教の範囲内であるが、それを顕露教と秘密教に分ける見方と、定教と不定教に分ける見方が成立し、これらを総合的に組み合わせれば、頓教と三つの漸教には、顕露定教と秘密定教と顕露不定教と秘密不定教の四つがあることになる。顕露不定教と秘密不定教は上に述べた通りである。そして顕露定教は、いわゆる普通の一般的な教えのことである。しかし秘密定教ということは、天台教学ではほとんど言われない。この秘密定教は、仏は聴衆それぞれに異なった教えを説くが、聞く側の一人一人は、それらをみな同じ教えとして聞き、さらに自分がどのような教えを受けているのかわからない、ということである。これはさすがにあり得ないと言わざるを得ない。なぜここで、聴衆がみな同じ教えとして受けねばならないか、という理由が説明できないことになる)。

しかし、秘密教不定教の二教があると言っても、その教えの内容は、蔵・通・別・円の化法の四教の中にあるのである(注:化法の四教は、すべての経典の教えの内容を明らかにするものであるから、これは当然のことである)。

これで、化儀の四教の説明は終わる。

(注:ここで、ここまでの文をすべて理解できた人ならば、かなり大きな問題を感じるはずである。五時や五味の教えが段階的に説かれてきたが、まだそのすべては説き終わっていない。説き終わっていないうちに、先に、教えの形式を明らかにする化儀の四教は終わってしまうのか、ということである。すなわち、その各名称については、すでに述べられたことであるが、五時とは、華厳時・鹿苑時・方等時・般若時・法華涅槃時の五つであり、五味の喩えとは、五時それぞれを乳製品の発酵生成過程に喩えたものである。つまり、法華涅槃時がまだ説かれておらず、それに対応する乳製品についての喩えもまだ説かれていない。それにもかかわらず、化儀の四教の説明は終わるのである。

実はこのように、化儀の四教の中に、法華涅槃時は含まれていないのである。

これは、次の段落で述べられる『法華経』と『涅槃経』についての記述で明らかとされるが、法華涅槃時の教えは、頓教と三つの漸教を超越しているのである。ではどのように超越しているかというと、それらは法華涅槃時の教えにおいて一つとされており、すべての経典の教えは本質においては区別がない、というのである。このように、化儀の四教が法華涅槃時においては、その四つの区別もなくなっているわけであるから、化儀の四教では説かれない、ということである。詳しくは次の段落で述べられる通りである)。