大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  07

『天台四教儀』現代語訳  07

 

第七節「問答」

(注:ここでは、これまで記されてきたことについての問答形式の内容となる)。

 

問う:この『涅槃経』に四教が説かれていると言うが、前の方等時の経典も四教を説いている。それらは同じとするのか、異なっているとするのか。

答える:名称は同じであっても、意義は異なっている。方等時の経典で説かれる四教について述べれば、まず円教においては、最初から最後まで(注:修行の初心者も究めた者も、という意味)、共に常住を知っている。別教においては、すなわち最初は知らずに、最後で知る。蔵教と通教では、最初も最後も知らない。しかし、『涅槃経』における四教では、最初も最後も知っている。

(注:『涅槃経』の四教では、最初も最後も常住を知るとは、同じ「法華涅槃時」の『法華経』において、開会が説かれているからである。すなわち、方等時の経典では、四教はあくまでも別々であるが、法華涅槃時に至れば、開会によって四教も究極的には一つなのだ、ということになり、四教すべての人々も、最初から最後まで常住を知る、というのである)。

 

問う:五味の喩えをもって、五時の教えを説く意味は何か。

答える:二つの意義がある。まず一つめは、順番が整然としていることを表わすためである。つまり、牛は仏に喩えられ、五味の乳製品は教えを喩えている。牛から乳が出て、その乳から酪が作られ、生蘇から熟蘇が、熟蘇から醍醐が作られるように、五時の順番に乱れがないことを喩えるのである。

二つめは、味の濃淡である。最も能力の劣った者たちは、声聞と縁覚の二乗の人を喩えている。彼らは、華厳時の座にあっても、信ぜず理解できず、凡夫の情をそのままに変わることがなかった。このために、それを発酵という変化がまだない乳に喩えるのである。次の鹿苑時に至って、三蔵教を聞いて、その二乗の能力の人たちは、その教えと修行によって、凡夫を脱して聖人となる。このために、それを乳から酪が作られることに喩えるのである。次の方等時に至って、声聞の教えを退ける教えを聞く。すなわち、大乗の教えを慕い、小乗の教えを恥じるのである。これによって、通教の利益を得る。このために、酪から生蘇が作られることに喩えるのである。次の般若時に至って、その教えによって心は次第に別教の利益を得るようになる。このために、生蘇から熟蘇が作られることに喩えるのである。次の法華涅槃時に至って、その教理と譬喩と過去世からの因縁についての説法(注:これを三周説法という)を聞き、将来仏になる約束(=記)を得る。これは、熟蘇から醍醐が作られることに喩えられる。

このように、最も能力が劣っている者は、五味の教えをすべて経るのである。そして能力が上がって行くに従って、一味を経て悟る者、一味と二味を経て悟る者、一味と二味と三味を経て四味めで悟る者などがいて、その能力の上達により、それぞれの味に喩えられる教えによって、すべての実在の実相に悟り入るのである。必ずしも、法華涅槃時の開会(かいえ)を待つ必要はない。

ここまで、五味と五時と化儀の四教について述べた。概略的な意義はこの通りである。

(注:五時とか五味の教えなど綿密に語られると、つい、そのすべてをマスターしなければ悟れないのかと思ってしまうが、そうではない。それは能力の程度に従って異なっていると言う。まず、なぜ能力に違いがあるのか、というと、それは努力が足りないためでもなく、すべて前世からの因縁である。つまり、過去世にすでに修行して、ある程度進んだ者は、この生(しょう)においては、最初から能力の高い者として、たとえば一味の教えだけ聞いても究極的な悟りを得られる、ということになる。したがって、五味の教えをすべて経なければならない者は、能力の劣った者ということになる。しかしそれは、能力の劣った者を責めているのではなく、またその者も、今の生において悟れなければ、次の生でまた悟りを求めることができるわけであるから、結局、すべての人々は同じである、ということになり、そのため、すべての者に仏性があるとか、将来に仏になるとかいう教えがあるのである。では、最終的な法華涅槃時に至る前に、究極的な悟りを開いた者は、『法華経』や『涅槃経』は必要ないのか、というと、もちろんそのようなことはなく、悟ってもなお上を目指し(これを自行という)、他の人たちを導く(これを化他という)のために、すべての教えは必要なのである。