大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 207

『法華玄義』現代語訳 207

 

第六項 増数に教えを明らかにする

(注:仏教用語には、それぞれの各要素を数えてまとめるために、数字のつくものが非常に多い。それらを網羅するために、その数字ごとに並べて見ていく方法が取られる。それは一から始まり、次第にその数字を上げていく。それは単に数字の順番によることであり、その用語の内容は関係ない。それを「増数」という)。

まず迹について述べ、次に本について述べる。そもそも、教えとは衆生に与えるものである。衆生の能力は一つではないので、教え(=法:法の意味は多いが、ここでは教えを法としているので、以下「教え」とする)である迹は数が多い。どうしてただ半字・満字・五時だけであろうか。まさに知るべきである。教えは無量である。その無量の教えをここでは一法から八法までとして述べる。

まず一法について開合を明らかにする。「あらゆる仏国土の中にはただ一乗の法があるのみである」とある。この教えについて理解できなければ、全く乳のように生(なま)のままである。もし開合しようとすれば、円教を開いて別教の一乗を出す。もし別教において理解できなければ、全く乳のように生のままである。また通教の一乗を開く。もし通教において理解できなければ、全く乳のように生のままである。また三蔵教の一乗を開く。開いて四教とするといっても、みな一つの大乗の教えと名付け、共に仏果を求めるのである。

もし三蔵教の一乗において理解できれば、すなわち乳から酪ができる。そして本の一乗に入るのである。もし四教の一乗において理解できなければ、またさらに三蔵教において、声聞、縁覚の教えを開いて出す。もし煩悩を断じて果を証して、心がようやく通じて安泰となれば、すなわち二乗を退けて、ただ大乗をもって仏を求める。そして『般若経』をもって淘汰して、心を調熟させる。すなわち方便の一乗を廃して、ただ円教の実のみの一乗である。このために「私がもともと誓願したように、今、すでに満足された。すべての衆生を教化して、みな仏道に入らせる。もし小乗をもって教化すれば、私は物惜しみしたことになる。このことはあり得ない」とある。このために初めに一乗から始まり、しかも一乗を開いて、終わりに一乗より一乗に帰す。

次に二法について開合を論じるが、これは半字・満字の二つの教えについてである。最初に『華厳経』の満字を明らかにする。もし衆生にこれに耐える能力がなければ、次に満字について半字を開く。次に方等教において半字に対して満字を明らかにする。次に『般若経』に半字を帯びて満字を明らかにする。次に『法華経』に半字を捨てて満字を明らかにする。始めは満字より半字を開き、終わりは半字を廃して満字に帰す。

次に三法について開合を論じるが、これは一仏乗において方便の三つの教えを説く。すでに休みを得れば、仮の町を滅却する。また三善について述べれば、声聞を下善とする。

次に四法について開合を論じるが、これは四教である。円教について別教を開き、別教について通教を開き、次に三蔵教を開く。このように次第に開いて円教に融合する。また有門(うもん・すべてのものは因縁によって存在しているという教え)、空門(くうもん・すべてのものは実体がないという教え)、亦有亦空門(やくうやくくうもん・すべてのものは実体がないという在り方において存在するという教え)、非有非空門(ひうひくうもん・すべてのものは存在せず、同時に実体がないのではないという教え)の四門について論じる。もともとこれは円教の四門である。衆生が理解しなければ、別教の四門そして通教三蔵教の四門を開いて出す。能力の高い者は次々と入ることができ、能力の低い者は五味の教えによって調えられ入る。

次に五法について開合を論じるが、これは五味の教えである。最初の十二部経から修多羅そして『涅槃経』を開き、教えごとに五味の教えを論じる。始めの五味より、あらゆる五味を開き、細かく次第に融合させ、円満の五味に帰す。

次に六法について開合を論じるとは、これは四教の大乗の六波羅蜜・七覚分・八正道である(注:四教の「六波羅蜜」で四つであり、そこに「七覚支」「八正道」の二つを加えて六つとなっている)。最初に円教を開いて別教を出し、そして三蔵教となる。このように縮小して融合し、一つの円教の道に帰す。

次に七法について開合を論じるとは、四教二乗ならびに人天乗をいう。もし上に向かえば、円教と別教を融合し、下に向かえば、人天乗を融合して七つの数を満たす。開合は(以下文なし)。

次に八法について開合を論じるとは、前の八法について開合する(以下文なし)。

第二に、本門について、教えの開合を明らかにするが、これは迹を借りて本を知ることである。本もまた同じである。

また次に、本門の中に、あるいは自らの身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自らの教えを説き、あるいは他の教えを説くことが明らかにされている。自らの身とは、仏の法界の像であり、他の身とは、他の九つの法界の像である。自らの教えとは、円頓の仏の知見である。これ以外はすべて他の教えである。あらゆる身の形を示すといっても、それは悟りに導こうとするためである。あらゆる道を説くといっても、その実は一乗のためである。これは開合の意義である。

このように開合すれば、半字・満字・五味が完全となり欠けたところはなくなる。次第することについては明らかである。次第の意義ではないことについては、理解すべきである。不定教については、さらに理解しやすいであろう。

一から一を開くということは、「あらゆる方角の仏の国土の中には、ただ一乗の法があるのみでる」とある。衆生が理解しなければ、全く乳のように生のままである。この円教の一乗より、別教の一乗を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また体空観の一乗を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また析空観の一乗を開き出す。衆生が理解すれば、これは乳から酪を作ることである。次に体空観に入ることは、酪から生蘇を出すことである。次に別教の一乗に入ることは、生蘇から熟蘇を出すことである。次に円教の一乗に入ることは、熟蘇から醍醐を出すことである。この中、それぞれに頓教・漸教・不定教がある。これは一より一をもって開き、一より一に帰すことである。

次に、二より二をもって開くことは、もとこれは如来蔵である。如来蔵の中に、それぞれ半字・満字の不思議の二がある。衆生が理解しなければ、全く乳のように生のままである。また、半字を帯びる満字を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また半字を破る満字を開き出す。衆生がまた理解しなければ、また全く乳のように生のままである。また単に半字を説く。衆生が理解すれば、これは乳から酪を作ることである。次に半字を破る満字を説くことは、酪から生蘇を出すことである。次に半字を帯びる満字を説いて、衆生を一の熟蘇とする。次に、もっぱら不思議の満字を説けば、衆生は醍醐のようになる。この中、それぞれに頓教・漸教・不定教がある。これは二より二を開き、二より二に帰すことである。

次に、三より三に帰す。もとこれは即空・即仮・即中の三つである。衆生が理解しなければ、次第の三諦を開く。また理解しなければ、体空観の三を開く。また理解しなければ、析空観の三を開く。能力の高い者は、析空観の三より体空観の三に入り、体空観の三より次第の三諦に入り、次第の三諦より即空・即仮・即中の三諦に入る。能力の低い者は、析空観の三に留まるために、即空の三を用いてこれを調える。すなわち生蘇である。また、次第の三諦を用いて調えて熟蘇とする。今、まさに即空・即仮・即中に入ることができる。これは三法について開合を論じることである。

次に四法の開合とは、もとこれは円教の四門である。衆生が理解しなければ、別教の四門、そして三蔵教の四門を開く。次第して入らせることは、前と同じである。

五法について開合を論じるとは、五味の教えについてである。前と同じである。そして八法までまた同じである。

 

(注:以上で『法華玄義』の本文は終わる)